剣と杖
どんなときにどんな祈りをするのか?
…私のブログで話すことを全部読まれている方は、あまりにもマニアック過ぎて、世界観が違いすぎて、よくわからない方が多いと思います。ですから、私の感覚、が、通常と一緒かどうか、は、わからないです。
なので、自分をフィードバックするように書きます。
「どんなとき?」
自分が祈りたいときにします。一日会ったひと、みんなでいいではないか、と思うこともありますが、ちょっとめんどくさいです。めんどくさいのに、通勤中、道行くひとに、悪撃を勝手にしたり、光を入れる祈りをしたり、神の祝福を祈ったりします。・・・そうです。気分です。
そもそも、祈り、というものは、自分の状態、がかなり問われるものだと思います。祈りの状態、祈りにはいる心の状態、っていうのがあると、思うのです。祈って実現したことがあるひとは、このあたり、よくわかると思います。
自分には無理だと思うことほど、祈りの時間は長くなります。実現の感覚、がわかるまでやりますから。最大で5、6時間ぶっつづけで祈ったことあります。最後、意識失いました。でも、その「無理やろ」と思ったことは、とどこおりなく、何の邪魔も入らず、実現しました。本当に無理だと思っていたことです。でも、ほとんど、ひとが動かして、私はノータッチで、実現しました。
この5、6時間の祈りの間、私は、本当に怖い目にあいましたよ。
そびえたつ渓谷と渓谷をつなぐ糸の上を渡り歩く恐怖、でした。本当にそう思いました。でも、ただ、祈っているだけなので、怖くなる必要がないのに、と思いながら、全身で味わう恐怖に耐えました。その恐怖がでてくるうちは実現しないことはわかっていました。なので、消えるまで祈りました。それが、5、6時間だということです。
もちろんトイレ休憩はあります。驚くことに、再度祈ろうとすると、さきほどやめたところからの恐怖からはじまるのです。まるで一時停止したように、そこから、なんです。どうしてかはわかりませんが、反省だとか思慧だとかもそうです。また繰り返しすることはありません。やるか、やらないか、なのです。
だけど、その1時間が同じところだと感じられるかたもいるかもしれません。それはその1時間で打破すべき恐怖、恐れに打ち克っていないからです。
その5、6時間を通して、よぎる恐怖はたくさんありました。死ぬのではないか、事故するのではないか、別離があるのではないか、不幸にならないか、ありとあらゆる恐れの「問い」がでてくるのですが、その「問い」に、すべて「(そうであっても)主を信じます」で答えるのが、祈りです。
マインドセットでも恐怖を感じるとは書きましたが、祈りとは、自己変革ではなくて、他力を引き出すものです。マインドセットは自己変革ですよね。なので、祈りは、ひとが動く、状況が動く、ことがたくさんあります。
なので、この5、6時間の祈りの場合は、ひとが動きました。とんでもないことです。強く反対したひと、父方祖母もいましたが、誰もそのひとの話を聞き入れませんでした。あれは、奇跡です。私は、当日、精神エネルギーがほとんどなくて、ひとに世話されていたくらいです。
そんなことで、どちらかというと祈りは、境涯が高いときに行います。境涯が低いときにやろうとすると、自分の課題、つまり、恐怖からはじめるのは必至なので、やりません。叶えたい時の場合は、違います。本気かどうかが問われるものだと思います。無理だと思えるものであればあるほど、その「無理」と思う心を変えるだけの「恐怖」がでてきます。
今の所、剣と杖は、自分の日常にまつわることが多いです。もっと大きな組織的なもの、例えば支部の発展を祈るだとか、布教所の発展を祈る、も重要だとは思いますし、そこが思えない事自体が問題かなと思います。でも、今の私は、思えるけどやりません。自分がそこに参画していないからです。ですから、傍観者のように祈ることはあります。
どんなときって、どんなときでもふったほうがいいんですよ。地上に光を下ろすって、そういうことなんで、やった回数だとか質だとか、そういうことが「精進」かなって思います。でも、今は、今の私は、自分がまだ未熟なので、その補填を一生懸命やっています。違うお勉強どころをしているのでしょう。次の職場で「何の勉強をするのか」というのも、おおよそ推測にはあります。私には「愛」のお勉強が必要です。
「どんな祈りか?」
与えられる光を私が特定するということは、私が神になったのと同じことだと思うんですよ。ですから、特定の内容をひとに祈ることはありません。ひとへはたたただ、「神の光」が届いて「傷つきを癒やして」「神様がおっしゃられる幸福」に近づくようにだけ、祈ります。
神様の光が必要のない人間なんていないし
生きていくのに「傷つかない」人間もいない。
「傷つき」は悟りの素、でもあるので、その傷つきを神様に照らしていくこと。だから、あるんです。ない、とは言えない。だけど、「傷つき」を「痛み」と思うか、「自己改善という悟りの素」とするかは、そのひと本人次第なんですよ。だから、どちらにせよ、そこに神様の光が必要です。
そして、その私の知らない傷つきが癒やされて、「神様」へ心が近くなりますように、と祈ります。
救済と慈悲、の理屈ですね。(エル・カンターレ信仰とは何か)
根本的なところを祈るのが一番効率がよい結果を引き出してくると私は思います。これをやり続けるということは、愛、だと思います。
もうちょっと効率の良いほうをえらぶときは、私のために本人にふってもらいます。あんまりかしこまらないで楽しくやります。そういうちょっとした工夫をすると、2倍がけで相手は光が与えられます。
おもしろいもので、こども(小2)にやらせてみると、まあるい星型がぽよよん、ぽよよん、ってでてくるんですよ。クリーミーマミみたいに。これ、やるひとによって、本当にちがうんだなぁって思います。私の星は、私がやるほうなので、どうみえるかは、私はわかりません。
悪撃の場合は、ちょっとしんどいこともあるので、やらせた後は様子を見ます。ちょっと大変なときは、フォローします。悪撃を私がします。そんなもので、どうにでもなるので、これがいけないからやらないほうがいい、なんて要らないと思います。
祭具なんで。
必ずいいほうに働きます。
それでもうまくいかなかった場合は、支部祈願で始末をつければいいんであって、怖がることなんかないんですよ。たくさん、やらせて、やってあげたらいいと思います。
それに、どちらの祈りも、一回やってあげたら終わり、というものではないんですよ。常にひとは成長しますからね。だから、折々をみて、というかやれるなら毎日やったらいいと思いますよ。
もし、私が主婦なら、そうします。
実際、毎日でなくても、現実へは良くなる一方です。