らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

お願い事2【追記】

でも、基本的には、霊体質さんとそうでない方々の目標とすることは同じです。身体障害者も健常者も、「生きていくこと」は変わりないのと同じように。友人のように「筋肉」で足を動かして歩いているか、「悟り」で霊障を振り払うか、それは、まったく同じではないものの、似ているように思います。

例えば、私は、仕事をしていて「オフ」にすることもできますが、霊体質さんでない方レベルの霊障程度には、体が重くなったりはします。念が強い方からネガティブな念をいただくと、霊体質さんは「健康」を損なうように、霊体質さん以外の方がなるような「肩こり」や「体の痛み」等は、同じようにもらいます。違いは、それが「生活習慣病」か「霊障」かの判断がつく、かどうかに違いありません。

私達は、おおよそのひとが「霊障」の状態にもなっているのにもかかわらず、病気になった理由を他に探すこともしないことを知っています。「霊障」でこういう反省をしたらいいよ、ということがわかったとしても、言いません。それは、その方が「自分でそう思えなければ」、指摘しても、反省にはならないので、治ることがないからです。

ですから、たいていのときには、「祈り」でもって、支援します。されたほうは、もちろん、こちらが言っていないので、回復の理由がそれだと知りません。でも、霊体質さんでない方も、同じことだと思います。病気だと知れば、「祈る方」もいるでしょう。自分が祈ったから治ったと、そのとき、思いますか?だから、私たちは、霊体質さんでない方と同じような気持ちで、自分が祈ったから、だとは思いません。でも、たしかに、「ヒーリング」の光は、仏から注がれたのを知っています。

でも、こうしたことが「本当」かどうか、は、誰にもわからないんですよ。

いつでも、物事は霊体質さんが視えている側面だけではないからです。

でも、何かの手がかり、になることはあるかもしれません。

でも、それが「法」に則ってなければ、何の意味ももちません。

でも、その「法」には行間があって、その結論に至るまでに、細かなプロセスがあるのも確かです。

ふと、今日、伝道をしようかなって思わずに、自分の信仰のことを話すことがありました。その話をすることと、お誘い、をするのは、もう何回目かわかりません。そして、その方とは、話を聞いて思いやること、を重ねていくなかで、相手を理解することを積み重ねています。

私達霊体質さんは、そうした自分の当たり前にしていることに気づきにくいので、周囲にそれを話すことはありません。ですから、周囲は、「特殊能力」で何かを成し遂げているように見えることもあります。

でも、私達霊体質さんが、ひととかかわりをもつとき、自分の心に素直なので、「大好きなひと」とのかかわりを楽しみ、自分の心もさらけだし、本当の気持ちを言い、それでいて心から繋がれるひとと一緒にいます。そうなれるように近づいていきます。

そして、その多くのひとは「心のことを考えるひと」です。

ですから、私達霊体質さんが大好きなひととは、もともと「心のことを知る」ひとが多いです。

ですから、関心の強い方、と仲良くなります。

また、もともと、知らないでいたかった「ひとの気持ち」に、怒ったり、嘆いたり、苦しんだり、悲しむことを生まれたときから「無意識」に経験しているので、ひとが「何を思おう」が、そんなに驚くことはありません。

今日も、「自分の過去の失敗に苦しんでいる」という若者の心の訴えを、絶妙なタイミングで拾いました。なので、私は、自分から見て、「若いとはそういうものだよ」とは言いましたが、それが彼女の慰めになることはありません。ひとつの希望の筋、にはなるものの、その希望の筋をつかんで、はいあがるためには、

「自分の過去を吐き出して泣いて、いろいろの折り合いだとか、感情の整理をして、ゆるす」ところまで行かねば、できないものです。

これに、何年もかけて付き合うことができるのは、精進でもあると思います。

気にかけて「行動」であらわすひともいれば、気にかけて「言葉」であらわすひともいます。

遊びで昇華するひともいれば、静かに泣いて継続してカウンセリングする必要があるひともいます。


どうやて気遣うかはいろんな形の愛があっていいし、どの愛の形も必要だと思います。

でも、「言葉」は光を宿すことが多いです。なぜなら、「言葉」とは、「悟り」を表現するものでもあるからです。その光の乗り方には、もちろん、その方の「精進」があって成り立ちます。この言葉に自分が追いついていないときには、相手に憑依している、または、相手の邪魔をしている悪霊がすべからく、こちらを攻撃してきます。

与える言葉とは、ピンスポットでなければならないのです。
(でも、そんなこと、普通に、ひょっとかちょっとかで、すぐにできることはない。)

ましてや、心の一番やわらかい弱いところを、普通は、ひとに見せようとは思わないものです。大事なところなので、そうそうひとに見せないようにしてきたら、自分でもわからなくなったことは、どなたでも経験することはできます。

自分の一番やわらかいところをひとに差し出す恐怖、は、私にはあります。

ひとが自分のすべてを受け入れる、なんて思っていないからです。

でも、それは、ひとを見ていて、同じだなって思います。どうしてこうなのかな、って思ったとき、強い人ほど、こうしてほしいからそうするんだな、って思います。

誰だって、あたたかくしてほしい。
でも、あたたかくされると、甘えてしまうからしない。

そういうひともいると思います。いろいろです。だからだめだとか、こうだからだめだとか、そんなことはなくて、自分との付き合い方、でそれが一番生きやすかった、もしくは、そうするしかなかった結論がそこにあるだけです。でも、つらかったねぇ、と言うその言葉に、「でも」も「だけど」もなく、ただ、つらかったね、が100%で言えるかどうか、で、伝道が左右されます。100%で言えるかは、言うほうの心の問題です。

今の私は、それが心から言えません。だから、伝道できません。

そこに、優劣などないはずです。

ですから、どうか、「霊体質」さんを見ても、「特別扱い」しないでください。

「霊体質さんが視えること」を、真に受けないでください。
(それ自体が課題のことがほとんどです。要は、どんな魂も導けるかかどうかです。悪霊も含めて。)

「霊体質さん」がなぜ、祓えるか、そのプロセスは、実は、生きているひとに同じように話してわかってもらえるかどうか、でもあるのです。それができないで、目に見えないものを祓うことはできません。霊的なこと、をとって、ひとにわかってもらえるのは、ちょっと違うんですよ。あったとしても、ただのインフルエンザのように、すぐに熱がひきます。

たとえば、悪撃したら軽くなったから信じてもらえた、は、どなたでもできるはずです。

たとえば、入会書に入会のサインをしたら、体が軽くなったことがあったから信じてもらえた、もそうです。

でも、霊体質さんは、24時間さらされる霊障というハードな課題から、「悟りの話」をして「納得させれるか」かどうかなんです。付け焼き刃なことはなく、本当に「気づかなければ」、生きるか、死ぬか、なんです。それは、霊体質さんではない方々にとっては、どんなことかは、想像できないと思います。

ひとの知られなくないことを知ってしまうことに、罪を感じるひともいます。

課題が極まった「試し」のときに、信仰に心を向ければ、「自殺衝動」が数週間続く人だっています。

1年間、目の回る世界に居続けるひともいます。メニエールではありません。

霊体質さん以外のひとは、霊体質さんは「障害者」と同じように思ったほうが、私はいいと思うのです。それくらいの違いがあると思います。その違いを、決して「特別で素晴らしいこと」のように言わないでいただきたいのです。

身体障害者の友人と同じこと、を訴えています。

でも、その違いを楽しんでくださるほうが私は嬉しいと思うんです。特殊能力、でもなんでもないんですよ。生きることにまつわる、には、霊体質ではない方々と、私達霊体質の人間は、同じような生活は、ほぼ、できません。

オフができていても、ちょっと重たいものが来れば、仕事中でも、禅定状態になります。その禅定状態で、光を濃くし、はねかえすのですが、その際、「無」になるので、磁場のいいところでなければ、仕事になりません。ですから、磁場を整える仕事が、すべからく待っています。総裁先生がお仕事をされたときに苦労したそれは、霊体質さんは、それぞれの状態もありますが、基本的には同じように修行することになります。

それは、「なぜ、雑魚クラスの私が、、、」ってみんな言いますよw

雑魚かどうかは別として、世界の現状は、そうなっているのですから、霊体質なひとは、みんな、そういうことになるのは当たり前です。後は、そのひと個人が、どういうひとか、にも依ると思います。

日常生活のなかで、どこまでやれるか、もあると思います。

でも、大事なことは、霊体質さんでない方々と同じなんです。

「法」を指針として、心を振り返る、です。

でも、自分だけではだめで、どうしても「与えながら」じゃないと霊障を受けます。しかも「正しく与える」が問われます。

ですから、霊障にならないために、「法を学んで、法を心で理解する」ことがたくさん望まれます。

だから、ただ、ただ、理解できない、でいいのです。

ただ、しっかり、「法を学ばせる機会」を増やし、「祈願」を必ず受けさせてください。

(できれば、沈黙の仏陀、心の挑戦、釈迦の本心、悟りの挑戦上下を話せるレベルまでに。それを体験しますから。最初はわからないと思います。読めるようになるまで、数年かかると思います。)

追記

魔を祓うときは、ガチンコ勝負です。でも、ガチンコするときは、こちらが、法に基づいて、多角的に根拠を把握していることが望まれます。

ですから、家族、へは、ガチンコ勝負するけど、そのガチンコは、必要なタイミングにしかやらず、

それまでに、祈願と法施と無畏施と顔施は、四六時中してある状況です。それをして、浮かび上がってきて、あちらが剥き出しで憑依してる状況です。

誤解なきよう。