らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

富の引き寄せ方ー補足編ー

「私達は、多種多様の、自分とは違う人と出会い、愛し合い、研鑽するために生まれてくるのではありません。私達は主の教えに出逢って、主とのパイプを深めるために生まれてきます。」

の意味は、ひとと仲良くなるところに、主への信仰があることが前提ですよ、というお話です。

もちろん、ひと、とは、学びあい、生かしあい、許しあうなかで、協調という調和のなかでの精進があります。それは、きっと、憎しいだとか、生理的に合わないだとか、奪われる、だとかの、マイナスな感情がでてくるようなひとも含まれていて、その方々とどうやって付き合うのか、どうやって互いにポジティヴな方向へ向かっていくのか、といった智慧があってのこと、でしょう。

でも、それは、信仰のなかにあるもの、です。

信仰という活動のなか、にあるものではありません。
(もちろん、活動を通して得られるものはあります。それは宝です。でも、個々の心の精進が礎、なんです。)

信仰という心の働き、のなかにあります。

心の修行、から、智慧を得ることは、本当は、「孤独」のなかでしか発生しません。

自分の心や行動、発言を振り返るのに、ひとから指摘をされることもありますが、反発心を高めることも多いです。一番いいのは、「自分で気づく」です。

気づこうと思ったら、小さな気付き、であったとしても、日に1つは自分を変えるだけの気付き、を得ることはできるはずです。もし、できない、というのなら、それだけの「知識」が足りません。振り返るための観点、を知りません。もしくは、自分の気づきを欲しているのではなく、「責めたい」無意識の心がそうさせているかもしれません。

なんにせよ、自分で気づこう、とするのはとても大切なことです。自分で気づこう、知りたい、と思っていると、ひとが情報を運んできたり、ひとから指摘を受けたりします。それは、すでに「指導」だと思います。まさかな、と思うのでしたら、やってごらんなさい。

毎日、毎日、ちゃんと祈って、本気で教えて下さいと涙して、

何が何でも自分を変えることを誓願して

ちゃんとちゃんと、毎日を感謝してごらんなさい。

そうすれば、小さな情報が引き寄せられる。それで満足してはいけない。自分がなりたい「何か」に向けて、それが実現するまで積み重ねなさい。引き寄せは、過去の自分の想い、から、今、実現しています。ですから、過去の自分の負の想いの実現を刈り取るところからはじまるかもしれません。

砂漠の砂が全部真っ黒であるなら、真っ黒であることに気づきもしない。

砂漠の砂の一粒が黒いのならば、それだけ、負は大きく働く。

それをひとつずつ、さらうようなところからはじめるのです。

それは、「主から愛される」からこそ、学ぶことができ、指導を受けることができます。そもそも、指導霊団というのは、ひとの魂なんですよ。なのに、生きている魂たちに、どうして彼らへ向けるのと同じような尊敬の念をもてないのか、それは、魂の尊厳を卑しめているのと同義ではないか。

私達は、他の違う魂たちを愛するために、この地球に移住したのでしょうか。

私達は、主に導かれて、この地球に移住した、のでしょう?

ならば、主に感謝すること、や、主の想いを知ること、さらには、主の理想の実現が優先されるものではありませんか?

そこが自分の心の最高峰にあるか、どうかを問いたものです。

もちろん、主の御元に導かれた同朋として愛する、理解する、尊重する、生かし合う、は、この点なくしては、成り立たない、という意味です。法なきところに、光なきところに、発展はないのと同じで、まずは、光あるところ、法あるところ、が大前提ですよ、というお話です。でなければ、発展を妨げるすべては、「見つける」ことすら不可能なんですよ。「見つけて」「改善して」「発展する」の最初の気づくところから、もうアウトなんです。

これをどこまでやるのか、というには、ひとによって違うところにあるのは認められますが、このところのお話は、ここではお話するのは(長くなるので)やめておきますね。


「利他の祈りもいいですが、自分が仏に愛されることが前提。これを無視したまま、利他に向かうと拷問された魔女の如く迫害され傷つきを繰り返し、今世でも同じ気持ちになる体験を繰り返しているに過ぎない」

というところの説明をしますね。


信仰って、むやみやたらに、「我慢」するものでしょうか?忍耐と我慢は違うんですよ。

忍耐というのは、「未来」や「希望」を感じますよね?
でも、我慢は、「苦痛」に耐えるしか感じないんですよ。

例えば、忍耐とは、野球部の毎日のトレーニングを思い起こさせます。彼らは、甲子園という目標に向かって、青春の大事な時間をすべて捧げますよね?それは、そうしたいからであって、約束された何かを得るからじゃないですよね?手に入るかどうかわからない成功を考えたら、多分、ホームランなんて打てないんですよ。ただ、そういう時間を過ごして没頭している、ことを決めたから、できることなんですよ。他のことなんて考えない。チームメイトと希望を信じながら頑張るんですよね?

そりゃ、情熱が違うチームメイトと喧嘩もしますよね?

でも、喧嘩をしながら最後の日を迎えますよね?

そのときに、後悔しないように、たくさんのひとからの応援をもらいながら頑張るんです。

この状態を私は「忍耐」だと思うんです。


我慢、は、これしか思いつかない。病気のときに「痛い注射」に耐える。ぐっと我慢する。そんなイメージですね。他には、最近、エル像のお顔を見て、とても変な気持ちになった、というアンチの方のコメントを読んだのですが、実は、私もそうでした。なので、この「変な気持ち」に我慢することはしばらく続きました。なので、言い出しづらい「変な気持ち」になったことをカミングアウトされやすい立場にあります。ほぼ、皆さん、「変な気持ち」になります。

神様を信じられるようにはなったけれど、神様って目に見えるものってイメージがないのに、生きているひとを拝んでいる私、への生理的な違和感。

猫が靴下の匂いを嗅いだ後の、変な顔になるような、あんな気持ち。


こういうのは、「慣れ」ですので、慣れるまで我慢、といった具合だと思うんですよね。


不幸の原因がわかっていて、改善ができる見込みと手立てを知っていて、それを取り組んでいるのならば忍耐。

不幸の原因がわかっていないのに、ただ「信じる」ということで突き抜けていくことで蓄積された夏休みの宿題を押し返そうとするだけの「我慢」。


…最後はね、もちろん、「信じる」が問われるものだと思うんですよ。でもね、「課題」をお残ししてはだめではないのかしら?そうやって、「課題」に問われるだけの努力がなんなのかわからないで、言われたことをとにかくやり続けるのも、ひとつの修行スタイルだと思うんですよ。在家修行はここに陥りがちですので、だからといって、あかんか?と言われたら、「素晴らしい」です、と私は答えます。


どうしてかというと、このあたりの難しい縁起のお勉強は、なかなか理解するのが難しいからです。この縁起については、「心」の側面と「行動」の側面と「言葉の側面」を、(精一杯の自分で)法そのものになるくらいの勢いで、やりたおしてはじめてわかるものだと思います。そんなの簡単に、できますか?

普通に日常生活を送っている私達がそう簡単にできないものだからこそ、お布施、という仕組みを持ちました。縁起がわかるひと、が僧であるために、僧団という智慧の結晶にお布施するからこそ、その智慧の光が与えられる、わけです。ましてや、在家活動なんて、指導霊がめっちゃ入りやすい状態なので、ちゃんと指導霊に感謝しながら、取り組まないと、もったいないですよ。


貴方の時間の過ごし方が、もったいない。貴方がもったいない。


経典の内容を開示するわけにはいきませんから、このあたりは、宗教書をあさってみてくださいね。



そして、引き寄せの実際、として、私が観ずるのは、エクソシストの乱射です。

プラスも引き寄せますがマイナスも引き寄せるんですよ。

自分の内にマイナスがなければ、マイナスは引き寄せられないばかりか、主への信仰と感謝を深めて自然に生活をしているなかで、自分を通して、光が与えられて気づきが起きる、それを見て取れる。

でもね?自分が正しいこと、つまり「法」に照らし合わせて、自分を反省していないのであれば、その部分は正しいことって本来わからないんですよ。

だから、ひとの間違いを指摘しないで気づかせることができないのであれば、自分が反省できていないってことなんですよ。それはね、信仰、が深くなければ、できないんです。

ここからは、ちょっと厳しい修行論に入っていきます。Mちゃんのお話に書こうかな。


でもね、口酸っぱく言うけど、生まれる前に決めてきた課題か、それ以上のか、はわからないけれど、何に気づきたいか、何になりたいか、は決めて生まれてきたと思うんです。(ほぼ、今を生きている自分は忘れまくってますが。)

だから、自分にとっての在家修行が価値あるもの、にするべく、自分が在家修行をどう位置づけるか、までも、自己責任です。ぜひ、心から素晴らしい体験、つまりは、気付きをたくさん深められるくらいのリラックスさだといいなぁと、私はそう思います。


あ、す○○たんの回答も合わせたかったんだけどw
(ニックネーム…)

まぁ、つまり、↑のことをざっくりやろうとすると

卵型精舎、だとか、指導霊団になる、とかわけわからないことを言ったのだけれど、自分を自分で変えようなんてしないで、光を与えられて、信仰が深まったからこそ、自然に変わっていった、がいいんじゃないかな?

どういう手立てだとか、知りたい、という欲求は素晴らしいと思うのだけれど、手立てに執着する必要もない。ただ、もうちょっと本当にリラックスして、深呼吸して、座って深呼吸したときにお尻が膨らむくらい深い呼吸をしてね

ひとと比べないで

自分と主だけになって

自分を愛してくれている今、に、まず、ありがたくって泣くところからじゃないかな?

信仰ってそういうものだと思うよ。

(思えないときは、心の底に傷ついてる自分がキレてるからヒーリングしてね)

そうやって、器を大きくして、大きくなった器に光が入っているかの点検作業に目を向けて、流れるように生活していたら、ゆっくり流れる時間のなかで、こういうことか、って気づくよ。焦ったら、たぶん、わからなくなっちゃう。深呼吸と自然体、を意識してね〜