らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

集団、小集団、個人…

久しぶりにパソコンを開いてみる。やはり、スマホよりパソコンからの投稿のほうが格段に時間の効率がいいものの、なぜか、パソコンを開くまでに至らないのは、ただのめんどくさがりだと思う。

 

フロンティアさんは、このブログをよく読んでくれて、ラインでこそっとアクセスしてくださる。…実は、コメントにどう返信したらいいのかわからないで、返信できずにいる状態の私。

 

そんな中、ふと、感じたことがあったので書いてみる。

 

私は、聞くことのお勉強をしてきたせいか、ひとがいろんなことを話してくれることが多い。ぐっと個人的なプライベートで他人に話さないようなこと、を話してくださる。

 

それは、どちらかというと、「文句や不満を言いやすい感じ」がするからかもしれない。今まで、それは八つ当たりではないかな?と思うような、決して、私自身が関係しないことでも、ひとはお話してくださることが多い。傷ついたこともある。でも、相手の立場に立って理解しようとすると、「ああ、こういうことでもやもやしたんだな」と認識をおくと、いくらでも話が聞ける。

 

でも、やっぱりお話を聞く技術も関係していると思う。いわゆる傾聴というものもそうだろう。空間的配置が与える話しやすい状況を仕組むこともあるし、偶発的にそれが与えられることもある。対面であるか、側面に座るか、また、途中で配置を変えることもある。空間配置で、話の内容を変えることもある。自分の状態も、もちろん影響している。

 

個別対応でお話をすることと、小集団でお話をすることは、それぞれ起こりうる状態が違ってくるので、それぞれにスキルが別に必要になってくる。

 

場をまとめる力だったり、場の方向をどこにもっていくかは、場を形成するひとの「言葉」で織りなしていくものなので、それを統制するひとは、「リーダー」になる。5.6人程度の小集団であれば、場を統制して、カリキュラムにそった方向に、その人らが話した言葉をうまく使って、「結論」にいざなうことはわりかしできる。

 

この力は、小集団を導くファシリテーターの位置づけになるのだろうか。

 

でも、「結論」にいざなうためには、それぞれの特性を把握しておく必要もないことはない。いきなりあてがわれた構成者の特性を知らないで、いざなうだけのプランニングをアドリブで仕組むことはとてもむずかしい。

 

かえって、こちらから情報提供し馴らすといったようなティーチングレベルの教示になれば、それこそ容易い。馴らすためのワークを差し込むことで、それは成立する。ティーチングの目的は、それこそ教授なので、受け手を選ぶことはない。「できる、わかる」を目指すために、受け手の情報を掴むことは大事かもしれない。そのティーチングを得て、感想をシェアすることで、「体験の共有」から集団の連帯感を創造することも可能。

 

でも、ティーチングは、ファシリテーションと比べると、受けるほうが主体性を以って、誘われた世界を味わうことを共有できるかと言われると、ちょっとむずかしいかもしれない。個人にある資源を利用して味わうことができないかもしれない。その場に、個々が提供するものは、個々の裁量による認識力と開示量に依存してしまうからだ。

 

私は小集団のとりまとめには、個々の資源(体験や智慧、情報)を利用する。場の創造は難しいけれども、ケースワークをその構成人数分、浅く同時に行うようなもので、それぞれがその体験を垣間見ながら行える。

 

私は、個人の資源を利用した体験型教授が大好きなので、私が教えるとなると、そういうことをする。

 

霊能分野のそれでも、霊能をはさまない仏法真理の獲得でも、「今、ここにあること」をとって、導き出すようにする。相手の主体は崩すことはないかもしれない。なぜならば、それらは、相手が主体にならねば、味わうことも感じることも、知ることもできないからである。

 

多くの悩みも、多くの実態も、包括的に見た大きな枠組みや、今ここにその課題が転がっていることは見るけれども、それをどういうプロセスをとって乗り越えるかは、主体である、話し手が決める。外界からアクションをとれることなど一切ない。言いねじ伏せる必要もない。理由は、「いいねじ伏せた影響」もまた、受け手に働いてしまい、何が起きているのかの本質が変質してしまうからだ。

 

つまり、情報を整理して、枠組みはこうだと説明するだけだ。後はおまかせ。

 

そもそも、「それは怠けだ」と相手を見たとしても、相手からすれば内側にぐっと入っているので、「それは怒りだ」と主張することもある。

 

つまり、他者からの評価と、自己評価はだいだいにして、ズレていることを前提に、聞き取ったほうがいいし、判断したほうがいいし、対応したほうがいい。通常の生活では、そのズレは無視する。目に見える成果を追うのが現実なので、いちいちそれに構う必要がないからである。だが、思慧だとか、ふりかえりだとか、反省だとか、ある種の目的をもって考えるなら、ズレを考慮の上、再考する要を感じる。

 

年令によってもずいぶん、このズレは大きい。

 

ひとの自己評価を聞いていると、外界の評価基準と自分に内在する感情が不一致を起こしていることは、ほぼ、である。ちゃんとひとの気持ちや判断を聞いていると、そんなことしか起きていないとわかると思う。

 

(例えば、いくら、外界からの指摘で、「怠けをゆるしてください」と言っても、霊的には何も変化が起きず、また心の働きとしても変化は起きない。あくまで、主体であるそのひとが、それは一体何なのか、を知る必要がある。そして、そのなにか、に自分で神に向けてアプローチをかけることで必ず変化する。

 

だからこそ、自分で心を判断することは重要だし、その判断をつけさせるための「聞き方」や「いざない方」に終始するべきで、このあたりは、本当にテクニックだと思う。相手が主体になっていなければ、すべては意味がない。)

 

その不一致がなにかをきっかけとして一致したとき、ひとはまず受け入れる時間を必要として、そこから、自分で改善を図るように自然と変わっていくことをよく見る。だが、不一致の状態に苦しみあえいでいるのがほとんどで、一致するまでにある、自分のものの見方のこだわりをこだわりだとも思わない。

 

ゆえに、「自分を知る」ということそのものは、その不一致レベルを知ることでもある。

 

ただ、その社会性をはらんだものの見方は、自分と社会とのつながりだけではなく、他者とのつながりにも起きる。社会に切り離された不一致レベルの高い者と、不一致レベルが低い者との間にも起きているので、そこに社会性のある道徳規範という正しさを用いると、絡まった糸のようにほぐれることは、ほぼない。

 

不一致レベルの高い者へは、当然ながら、支援が必要で、不一致レベルの高さを指摘することで修正できるかというと、たいていはできない。よく言われる「自己防衛」が働き、頑なにそれを拒絶する。まぁ、霊的に言えば、そのエネルギーそのものが「悪霊」だとかそうした類のものとして称される。

 

じゃあどうしたらいいかというと、不一致レベルの高いものの主体性を失わないで、一致に向けて少しずつ、固着した考えや感情をほぐしていきながら、一致している部分を認識させながら、できている実態を手がかりにしつつ、違った場面でも「できる自分」を現実的に具体化して認識させる必要がある。

 

そのひとにしかわからない手がかりを発見するのは、「ひとをただしくほめる力」が有効である。ただしく、が味噌。

 

だいたいにして、「奪わせる働きにしかならない行動」と呼ばれるものは、そのひとの埋もれた個性であり、正しい方向に使えば、「与える働きになる行動」に十分使える。スモールステップから行うべきであり、ハードルの高いことに向ける必要はない。

 

不一致レベルというのは、当たり前だが、私の造語である。だから、ちんぷんかんぷんだろうと思う。wwそう、書きたいだけで書いている。)

 

この外界との不一致、とは、個性だとかそういうことで、免除されるものではない。そもそも、周囲との不一致を起こしているのに、何が個性だ、と思う。もし、個性としての働きが生かされてあるならば、その個性が周囲のために輝いて生かされている状態にある。つまり、感謝されている状態にあるだろう。

 

それが顕現していないのであれば、自分の特徴を活かしきれていない、状況である。ならば、なにかの不一致を起こして困っていて、どうしたらいいかわからない、判断できない、困っていることと変わりはない。独善的ではない判断ができていて、見込みの上であえてそれをとっているならば、何ら問題はないが、自分がこうなりたいが実現できない理由に、自己変革をしつつ個性が輝くようにあらわれないなら、まず、不一致を引き起こしている、間違ったものの見方を知る必要がある。それは決して、大集団のものの見方に自分をあわせる、といったものではない。周囲とのズレを、自分の内側から知る、ものであって、外から知るものではない。だいたい、そんなものは、外からの評価、だけあって、否定されることが多すぎるではないか。

 

○あなたは、素晴らしい存在である、の理由が、具体化して理解しているか。

○ひとは、素晴らしい存在である、の理由が、具体化して理解しているか。

 

それをリアリティもって味わえるか、は、ティーチングでは難しいと思う。そもそも、ひとの話に、主観がまとわりつくだけ、信憑性などない。今、ここで起きていること、の実際から得たなにかのほうが、ひとを納得させる十分な妥当性をもった根拠になる。

 

そもそも、個性などはTPO(人、時、処)で、よくも悪くも働く。自分の個性の特徴を知り、マネージメントすることは、自分を幸福にする。よい方向に使う、ことを知るものである。不一致が起きていなければ、マネージメントできるが、それができないから問題が起きる。人生はそんなことの繰り返し。発見の繰り返し。

 

使命を知る、にも近しいかもしれないな。難しいことだと思う。私だって、自分の使命などわからない。(笑)

 

 

まぁ、そんなことを考えた。

 

霊能者さんには視えるものが地獄霊なのか、悪魔なのか、不成仏なのかを知ることができないので、ほぼ確認作業にはなるが、あれは小悪魔だとかと言った教示は必要とする。使われるCDやシュウホウ、お経、経典が違ってくることもあって。でも、まぁ、霊道が開いていて、困っているレベルの人しかしない。霊道が開いたら、もう閉じることはできない。付き合える力をはぐくむしかない。

 

天使の位もあるだろうけど、指導霊の位で様相が違ったりするので、どのレベルまでいらっしゃるのか知れるのも霊能者さんしか知らないかもしれない。いろんな指導霊がいらっしゃるのだが、これは絶対ただの菩薩じゃあない、と思われるものがいらっしゃるとき、それを霊視させて認識できるのは、つながりがあっていいなぁと思う。

 

でも、仏法真理と自分の認識の不一致に気づかせるには、「今、ここ」に限定した情報を使う。味合わせる、根拠をもたせる。でなければ、ひとから裁かれている感覚しかもてない。主体性を以って「ふりかえる」など難しい。しかも、想念体に刻まれたカルマはクリーニングされはしない。そこに不一致さがあるとも考えないのは、もはや手がつけられない。

 

 

集団、小集団、個人の特性をよく知って、一義的に、結果をうもうとしないこと。それぞれに有用であるし、それぞれが使われて、結果は出る。こうしたことを忘れないで、ひとりをみんなで支えるように守って芽吹かせるように育んでいけたら、最強だと思う。

 

まぁ、なんか、わかりにくい記事だったなあ。でも、悪霊だとかそうしたいろんなことが現象化している現実のそれ、だけで、話はできるものだよ。現実のどれにでるのか、が説明できなければ、悪霊の働きがわかっていないとも言えるからね。

 

ここがしっかりリンクして言葉にできたら、私は最強だろうなぁww