らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

祈願の光

母には、縁起の理法をなかったことにしてご利益をいただけるものではない、との話をした。具体的な話をしていくと長くなるので、今夜はやめようと思う。知りたい波動をキャッチしたら、明日書いてみようと思う。

 

祈願、というものは、その結果に応じた必要な反省が入ることがある。

 

当たり前なのだが、その幸福にしたい事態にまつわって、それが達成できないのなら、それ相応の「原因」というものがある。その原因とは、「法」による、仏の理想と一致しない箇所、であるので、仏の理想と一致しない、自身の心にこそ、原因があるもの、とする。

 

もし、その事態そのものが、「法」によるところの原因ではなく、「信じるところ」の原因であるならば、祈願という信仰のあらわれ、自体をとって、幸福は実現される。

 

もし、祈願が達成されないのだとしたら、その不幸な実態というものは、祈願者本人の心の一部に「仏の理想と一致しない」箇所が存在する。

 

私の母には、その「一致しない」箇所を、ずーーーっと言ってきた。言ってきたけれども、自分が正しいと思っているので、全く反省することはなかった。それをとって、間違っていると指摘しても、「許せない」としか言わないか、黙ることが多かった。

 

許せないのは、実弟との確執であった。

 

その確執、というのも、先程話した餓鬼道や修羅道のあたりの話なので、最早、どこにも正解はない。実弟に対して、修羅ばりの憎しみ、を指摘したが、怒ってはいない、とだけ言った。でも、お付き合いをしたいと言われたら、許しもせずに、あなたこういったでしょう?と突っぱねるでしょう?と聞いたら、黙った。

 

それが憎しみだと指摘したら、じゃあどうすればいいのかとキレた。

 

母の実弟は、もともと太陽のような温かい心を持っている。ここだけで言うのだが、彼は霊能者であるが、同時に霊障者でもある。間違った霊能者に導かれて、無知のまま、言われたようにし、そうやって、負のエネルギーを常在させるようになった。そして、母の他の兄弟から、嫌なふうに責められることもあって、加速した。

 

なので、与えられることが当然だと思っている。与えられなければ怒り始める。

 

そんな実弟とどうつきあっていいかわからない、というものだから、心の法則というものは、どう行動しなさい、から心を考えるものでもないし、相手の行動で心を揺らすことでもない、と伝えた。

 

そういうことではなくて、仏弟子として、仏の法則にのっとって、その場面での自分の心がただしかったか、であって、相手を断じるものではない、と伝えた。

 

あなたと仏との間で、あなたの心に訪れたその想いは、ただしかったか、

 

そこに蓋があれば、その蓋の部分には光はさしこまない。

 

その光がさしこまない祈願者が、病気の原因となっている、母の妹の「実弟ができないことへの強い責めおい」の因果として、「障害が残ってしまう状態」にあっても、ごく自然なことで、その反省ができていないのに、功徳があることはありえない、と言った。

 

最初は言っている意味がわからなかったようで、何回も繰り返して伝えた。

 

そうやっていくと、じゃあ、ゆるしたところで、誰も幸福にならないと、迷いのもとを言われた。

 

だからね、あなたがゆるしたからこそ、そこの蓋があなたはとれるでしょ?

 

その蓋をとった状態で、ひとの幸福を主に向けて祈るからこそ、そのひとに主の光がさしこむでしょ?

 

そうすると、その部分での悪霊を祓うようになるでしょう?

 

その祓いが終わって尚、じゅんじゅんと、祈願を重ねていけば、いやでも、相手は、その光に導かれて「反省」がはじまるでしょ?

 

そこから、自己変革があって、その上で幸福になるでしょ?

 

そのプロセスがない状態で、いきなり幸福が実現することなんて、ありえないの!!

 

って言ったらもう、うちのママン、そういうことか!!ってにっこにこ顔になって、いやっほーーいと一日を過ごしたようだ。握一点開無限、ってこういうことを言うのだよ。

 

でね、これ、実はね、父との喧嘩でもやってるのよ。私の両親も何回か、大きな喧嘩して、もうほったらかしにしたかったんだけど、祖父の幽霊が頑張ってしまったので、どうしても、どうにかしなきゃいけないんだなってわかったから、頑張ってきたわ、

 

だから、いい加減、、、、自分でやれるようにしてほしいな。

 

 

でも、祈願の功徳、のプロセスははじめてだったから、同じことを何回もってわけじゃないんだけどね。

 

母は、こうした光が流れる仕組みを知らないで、現実の変え方を知らないから、悪に対して「責める」を続けてきたのよ。それが、正しいこと、正義だと思ってきたし、ひとを守ることだって信じてきたのよ。

 

相手を悪だと判断すること自体で、自分が正義の立場になることはないのよ。

そうやって、比較論のなかで、自分の正しさを主張するひとが大半だけど、そんなひとには誰もついていかないのに、自分を守る傾向が強い方は、こうやって、自分の立場、を守ろうとすることが多いわね。

 

でもね、本当は、今の理屈の上で、自分の精進が先で、その祈願にまつわって、ひとの反省を呼び起こせるような関わり方、ができるかなのよ。