らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

映画の技術

昨日は休みだったので、大好きな友達と、ぐだぐだ話をした。

 

映画の技術レベルが期待以下過ぎて、やるせない、落ち込むと言っていた。

 

どうして、そう感じるのだろうか、自分には狐が憑依しているからか、などと言うので、笑ってしまった。

 

映画は、視覚情報を芸術的に仕組んで、物語を味合わせるに尽きる。

 

なので、シーンとシーン、シーケンスとシーケンスを繋ぎ合わせて、何ができるか、の芸術作品なのである。

 

時間が過ぎ去ったことを視覚情報だけで知らしめるのに、映画作品内では、ウィスキーボトルの減り具合の切り替えで行われていた。

 

ひねりがない、のである。

 

どんな層にも推測して分かる表現、を使用している。

 

それは、狙ってそうなっているのかもしれないし、そうでないかもしれない。

 

でも、平易さ、は、時に退屈さを生む。

 

根本的に、視覚情報を利用した芸術作品、とは言えないなあと思う。上記のこと、が主たる原因だと思う。理解できる平易さ。

 

シーンごとに何を伝えたいか、は、観客に分かるように作るのも確かに重要ではあるが、どうなっていくのだろうか、というハラハラな期待を持たせるには、ひねりが必要であるし、

 

逆を言えば、わかりやすさを言うならば、冒頭の10分を作りこむ必要がある。

 

ハリウッドの映画は、冒頭の10分ですべてが集約されており、冒頭の10分だけで、ラストまでを知ることすら不可能ではない。

 

その10分に、すべてが詰まっているべきで、主人公のすべてが10分で知らしめるべきだし、その10分で、映画の主たるテーマが、ドラマを帯びて描かれるべきである。

 

宇宙の法は、ダブル主人公で描かれていた。ザムザとレイである。冒頭のところで、ザムザは星を失い、レイは友人を失った。

 

それぞれ失った理由が冒頭に描かれる。

 

エロスに導かれるザムザと、過去にタイムスリップするレイのシーンで第一幕が終わる。

 

この第一幕が、第二幕と第三幕すべての原因を描き、また、その主人公の変化を期待させるだけの要素を含まなければ、物語として、美しい展開図を描くことが難しい。

 

レイで言えば、相対的正義、だったかの本。あれと、友人との喧嘩のシーンでじゅうぶんに三幕へと繋がり結論が出ていることがわかる。

 

ザムザで言えば、部下への高圧的な態度やプレアデスへの攻撃の後悔?のシーンで、じゅうぶん変化の兆しを見、三幕へのつながりを見れる。

 

それに比べて、実写作品の脚本は、こうした構造が見つけにくい。

 

まず、第一幕の終点が見つからない。また、第二幕、第三幕に期待するだけの予兆、が第一幕にさしこまれているかと言うと、わからなかった。

 

アニメ版の脚本は、うまくできていると思う。実写の脚本は、その一幕の部分で、第三幕までの結論へ向かうだけの必然性を持たせるちりばめられたシーンが、観客が納得いくだけの情報量を持っているように仕組まれているとは言いがたい。

 

さらには、その魅せ方には、脚本家かディレクターか分からないが、芸術的センスを問うアーティスティックな描き方が問われる。

 

美しいと感動させるだけのプレッシャーを与えてあったか、だとか、CGと音楽のさしこみ方だとか、シーンも秒単位をもって、美しさを追求するものだと思う。

 

展開が早いのがいいわけでもない。緩急をつけて、何を伝えたいのかを、技巧をもって表現するから、芸術作品になる。

 

俳優の演技力か?と友人が言ったが、発声で気になった箇所はあったけど、どちらかというと、シーンの単調さと、ショットが美しさを持たせてないなあとかを、私は感じた。

 

でも、これは、ある種の正典だと思うから、あまり気にはならない。

 

それは後世に任せればいいと思うな。

 

今ある映画や作品群のほとんどが、神話をアーキテクトタイプとした同人誌の位置づけなように、これを元型として派生させるんだと思うけどさ…

 

でも、その技巧は、作り手の世界観でもあるからさ、やっぱ、純粋なものではなくなると思うんだよね。

 

 

まあ…私はやってみたいよね。作る方を。

 

ジョジョなんかは、基本的な英雄伝なんだけどさ、技巧に、作者のセンスが入ってきてて、まあ、、、作者を味わうような作品なんだけど

 

私が作ったらどうなるのかなあ…

 

まあ、言うはやすし、生むは難しというもので笑