らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

救済ということ。

映画の感想を母に聞いてみた。

 

母は言われるままに、回数をこなす精進を頑張れるひと。

 

以前、あまりにも心配ばかりしているので、朝晩これとこれを読誦するを、88日やりなさい、と

 

エセ的にふっかけたことがある。

 

ねらいは、朝晩の祈りの習慣化と、自分へのやりきった感の獲得と、全託の境地の獲得をねらいとしたもので

 

決して、88日に意味があるわけなどない。

 

うまくのってくれて、朝晩の祈りをしなければ気持ち悪いという状況になった。後からネタバラシもした。

 

そうした戒を、方便でつくり出してみてもいい結果を生むなあと母を見て思う。このところのカリキュラム対応は、職業柄の気質がなす技だと思う。

 

そんな母に感想を聞いてみた。すでに、4回は見ているはずだ。父が母にべったりなのに、合間をぬって、自分の気持ちと折り合いをつけながら、見る姿は素晴らしいと思う。

 

何が印象的かと言われたら、思ったよりそんなに煌びやかな世界ではなかったな、とか、狐世界の話が多かった。

 

狐は、映画でとても特徴的に描かれてはいるが、現実的には、どんな状況のひとにもあてはまるものがあるはずで、自分には関係がないことは何一つない、と伝えた。

 

(そうでなければ、そもそもに、狐の数はもっと少ない。狐を奉る神社はたくさんあるが、その神社の境内は、足が見えないほどの狐の群がある。群の中をぬって歩いている状況だ。)

 

例えば、二枚舌のシーンもあったが、ひとには感謝を伝えるものの、裏では、こんな同じ菓子は飽きてしまうみたいな言い草をするのは、生きていて、普通に出くわすではないか。

 

そういう意味では、うちの家族は、すぐに顔に出るので、不器用なところがいいふうに出たかもしれないなあとか思う。

 

何回も映画の話題を出して、感想を聞いてみると、毎回感想の内容が変わってくる。

 

ジワジワと効いてきてるんだなと思う。

 

霊的に言えば、映画一本は、支部祈願一本くらいの熱量の光。映画中に出てくる言葉は仏法真理であることから、観ている側の理解や菩提心によって変動がある。

 

自分にしっかり視点をあてて、反省材料をえぐりだしたいと思いながら点検する。悪役に想いを馳せながら、共感箇所をえぐり、その共感箇所から自分の現実にあらわれる姿を具体的に想起する。

 

ないと思って観れば、探すことはできない。

 

主人公に想いを馳せながら、共感箇所をえぐる。主人公の反省の葛藤シーンはあまりにも短いので、共感箇所をえぐるのは難しいと思う。太郎の、「いつの間にかすり替わっていた」に気づくのは、本来、ものすごく時間がかかる。

 

自分は正しいと思って頑張ってきたことから、間違いを包括的に見破ることは、本来ものすごく時間がかかる。

 

そこまで、母に、私が一度に望むことはできないので、母の考え方とその理由を知りつつも、間違いと正しい方向を伝えてきた。実際、材料は、母の人生の具体的な場面、起きていること、をとってでしか、伝えられない。

 

こうした、ぐっと個人的な領域にわけいるは、近しい人間にしかできない。教えに方向づいた心理援助、であるから、それなりに現実的な職種で研鑽してきた力が必要だとも思う。

 

私は、霊能者でもあるが、現実的には心理援助者でもあったし、教育者でもあったので、その具合は分かる。

 

だから、支部活動という、自分の心の課題があらわになる、今、ここで、目の前に起きている心、をとって指導を受けることは、こうした個人的領域に入り込む必要を持たないで、同じ結果を生む素晴らしい心理ワークでもあるとは思う。ただし、導き手にかなり依存する。

 

ファシリテーションか、コンサルテーションか、はたまたコーディネートか、ティーチングなのか、やっていることがなんなのか、という自分への枠組みを知りながらやる方がいい。オブザーバー体制があっても、オブザーブの観点が、導き手と同じ観点だと、埋没したままで、フィードバックにはならない。

 

まあ、つまり、心理的に内没した狭いものの見方だけじゃない方がいい。例えば、事実の列挙という見方も必要だ。人は、主観を精錬するのに、客観性を用いるが、その客観性は主観だと言われても、まず、よくわからないだろうと思う。私が、社会的に役に立たない心理学を学んでよかったなと思うところでもある。

 

で、先ほどようやく、私が欲しかった感想を聞けた。

 

太郎の救済シーン。

 

そう、ここ。母の課題で来ていたところ。

 

間違っているから直せ、直せないなら付き合っていけないと迫っていることに気づけない。

 

からしたら、AさんとBさんは、人生をかけての固着した関係があり、自分が反省したぶんだけ、間違いがわかったところで、

 

AさんとBさんの主張は、人の立場に立ててないとか、不幸になっていく考え方だ、とか、一緒にはいられない、と思えて仕方ないのだ。

 

それを何年もやっている。

 

私は、その都度、起きてきたことと心の課題に付き合って話をして、変わってきた母を知る。それは、実は、私自身が、母がAさんやBさんへの想いと同じものを抱えてきたというものでもある。母と付き合ったら奪われて不幸になる。でも、私は、やるだけやってみよう、と、全託しながらできることを続けてきただけだった。

 

それをとって、まだ二週間前に、「できないと言うなら、自分が多くの人から与えられたことに感謝してないからだ。そんな想いになったままできないと言うなら、私から見て、全人類の99%に同じことを想うわ」と私は母に怒った。やってきたことがあるから、言える。

 

人は都合の良いもので、自分のわかっていないところは無視して、自分がわかったことで人を見て、ほとんどの人がわかってないとさばき思ってもおかしくはない。自分がわかってないことがある、という観点を持たない。

 

AさんとBさんとの縁が切れぬよう、私は手配もしている。私を使って、私の縁で、まだ繋ぎ止めている。私はAさんともBさんともに世話になっており、もちろん、悪霊憑依だとか認められるものの、たった一度、私を守ってくれたとか信じてくれたことだけで、じゅうぶん愛せる。

 

口癖という悪癖、心の癖という悪癖も、習慣化した癖でしかなく、意図して変わらなければ変わることはない。または、集団に入れて、ゆっくり変わってもらう、くらいしかできない。

 

たった1人、から、家族という集団を変えることはできる。でも、それは、私が家族を変えるために、自分をその何倍も変えることができたからだし、毎日自分を変えるために、毎日おいのりをしている。

 

先に神にゆるしをこわねば、自分を変えることすらままならないことを、私は知っている。だから、自分を変えることと人に光が当たることを祈りの軸にしている。

 

母は、最後のシーンで、救済を思った、と言った。救済とはああいうことなんだと。

 

私は、付き合うってことだと思うと言った。

 

相手の枷をひきおう気持ちすらある。悪霊憑依していたとしても、私が反省をし続けて、付き合い続けて感化していけば、必ず伝わると思っている。

 

実際、祓えなければ成功しない、という私の信念のような、実践論に基づいた経験法則は、そうであった。あらゆる小さな救済行為に、必ず、魔があらわれる。それは、自分の精進の未熟さという、慢心や疑念、怒りにしてあらわれる。

 

信仰において腹から分かれば、それらはこない。

 

霊能者の場合は、自分の感情の変化だけでなく、体調に如実に出る。自分の心のキャパを超えている時、左手首がちぎれるほど痛い。痛みがなくても、ひとりでは重すぎて、勧進中、痙攣がとまらなかったこともある。左半分、重いものを持ち上げるような痙攣がとまらなかった。

 

そういうときは、判断は相手に任せ、指導霊に祈りながら、自分ができることはやりきるべきである。そう、持ち上げるために勧進の行動はやめない。痙攣には焦ったけど、私は必死だった。その一部始終を見てきた下妹は、その私の精神を受け継いでいる。

 

 

反省したことについては、私自身が変わっていなければならない。他が変わらないというなら、自分が変わっていないという証でしかない。痛みがあるなら反省はできていない。

 

おでき類、は、データがたくさんある。でもありすぎて、他の側面も同時にある。たとえば、色情の場合もあれば、修羅の場合、不信の場合もある。その特定分野の意識について、

 

 

◯神仏と自分は繋がっている→反省済

◯自分と波長同通していた他の方々と悪しき次元領域のまま繋がっている

 

が同時に起きているときに出てくる。どちらかというと病気平癒が適切だと思う。つまり、自分を癒すこと、が必要になる。

 

(ちなみに部位は、その意識領域を特定する。左股間のアレは、男狐に憑依を解いた後であることとの証みたいなもので、異性から見た間違った自分、の意識領域である。以前も、異性の反省をした度にできた。おでき治癒その後、特定の波長同通していたと思われる特定の友人関係の在り方が変わっていくのも見られた。鼻やおでこのど真ん中は、信心の領域であるとか。)

 

 

それこそ手探りすぎて暗闇のなかで、やったことがない精進をして、真理がどういうことなのかを知ることと同じだと思う。

 

↑のようなことは、回数をこなしてのパターン抽出と、他の方のパターンも知って、初めて知ることができる。

 

私には、なんでも話をしてくれる方々がいてくれたから、それがわかってきただけだ。

 

その私が、母に未来を見た。

 

母が、感想で、救済、を思った。

 

だから、必ず、彼らは救済される。実は、救済する人は決まっている、と私は思う。心に沁みた理解は、必ず、人を変える。

 

だから、自分では芽ぶかなくても、その縁ある人に繋がるように、種まきをする。自分が導き手にならなくてもよい。

 

導き手がこうやって増える方が、ずっと、効率がよく、幸福感も高い。

 

母が救済の心地がわかる日は、死ぬまでに必ず訪れる、と確信する。