らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

霊体質

霊体質の子って、いろんなことを感じやすいから「精進がしやすい」かもしれない。

でも、霊体質の子の精進って、生半可なものではない、って思う。少なくとも、私は、生半可ではなかった。周囲を見ていても思う。ドロップアウトしやすいとも思う。

それは、どうしてかというと、在家修行ではある一定のラインで許されることが、私達霊体質のものでは許されないことが多々あるからだ。もちろん、精進の過程、でもあるから、在家修行でもあるところから「許されない」ことがあるとは思う。でも、そこに行き着くまでの、「訪れるもの」をどう読み解いたら良いか、どう受け止めたら良いか、指南してくれるひとはそうそういない。

霊的な感覚があると、霊的な影響を受けやすいだけ、「指導」を受けやすい。でも同時に、「引張り」も受けやすい。ことのほか、自分の魂のルーツと同じところにある「悪魔」は、総攻撃しやすい。

私は、プレアデスだと思われるので、そちらが己心の魔になるし、「己心の魔」と通じている悪魔が悪魔になった理由であるいじめてきた悪魔も耳のそばでささやくように、ある。

家で反省という思慧作業をしていると、おおよそにして、脳にヒットする言葉とは、ほぼ「悪霊」によるものである。なので、自分によぎったインスピが正しいとは限らない。「法」に基づいて考えたときに、「それらしい」と思われるもの、ほど、危ない。場面で「この側面」で正解かもしれない、と思っても、実は、「その反対側」からのものの見方を問われることも、実は、多々ある。「法」は、いつからか、掛け算になってくるんだよ。統合した理解、になるときは、そうなる。

このあたりの見立て、を、どう判断したらいいかというと、基本的に、50巻DVDにあることは学ばないといけない。修慧として、ひととおり、実践と成功をもって、マスターしておく必要がある。どうやって、と言われれば、過去の「効率のいい勉強法」を参考にするといい。でも、言葉を覚えるだけではだめだ。

体験をもって、自分で成功ポイントを話し、それが「本に書いてあること」とおおよそ、一致できるまでは。

ちょっとばかし、部分的に、「本」を読んでみる、知識を手に入れる、思考する、くらいではだめなんだよ。それは聞慧の段階であって、思慧までいっていない。思慧とは、トライしたのち、目標値までいけている、つまり、成功するまでの改善の道のりであって、考える、ということではないからだ。

ただ、「法」を考えたくらいでは、思慧にはならない。

また、「指導」を受けないで、「思慧」にはならない。

そもそもに、自分の考えの範疇にない概念だと思ったほうが良い。だから、自分の考えで思考をはりめぐらせても「正解」はないんだ。知っている言葉なのに、「未知なる」ものに触れるのが、「悟り」であり「智慧」だからだ。

それは、それまで複雑にしか考えられなかったことが、すごくシンプルなものの見方になる、ということでもある。でも、その「シンプル」は、自分の内には、ほぼ、ない。だから、体験して学んで手に入れるしかないんだ。

だから、修行の精進に不可欠な朝晩の祈りは必須である。しかも、聞慧をしない教学、はありえない。私は、たまたま、「強い意思」をもって、目標に向かったために、教学なしに「本に書いてあること」を知ることもあったけれど、それは、とても効率が悪い。ゲームの隠しポイントを手探りで見つけるか、攻略本を見ながら隠しポイントを探すほどの違いがある。時間の無駄だ。

しかも「本に書いてあること」を体験できる確率だって少ない。

基本的に、指導が入るのは、「ひとのために正しい方向に命を投げ出しても良い」くらいの強い意思がないとだめだ。その正しいと思っている方向が、八正道のそれと一致しなければ、「指導」も入らない。意思だけではだめなんだ。その「意思」が執着の場合も、私は経験している。

だけど、「正しいこと」を心が拒否してしまうのも、わかる。

今、目の前に見えていること、状況、環境は、この世的な知恵にあふれていて、それを見て無意識に学んでいるだけ、それが「正しいこと」のように見える。そればかりか、幸福に向かう道が、交差して反対方向に向かっているように見えるのも、確かだ。

このあたりのところでけつまづいてしまうことは、よくある。

霊的にいろいろなことを感じていても、道徳的にどうだ、目標を達成するのに本当にそれでいいのか、といった具合に、「しんじられない」がでてくることは、たくさんある。

行動だけに目を向けているために、心の修行ができていないことも感知してしまうことだってあって、どうしてそれで「同志」と言えるのか、迷うことだってある。でも、向こうだってそうだ。「心のこと」ばかり「気持ちのことばかり」考えて、「正しい行動」ができてないように思える。でも、こちらからすると、その「正しい行動」は、本質的なところをとらえていないので、「悪」に働いているように見えることもある。

このあたりの丁寧な解釈、受け止め方ができるのは、本当にただしく「法」を理解しているか、でしかない。

本の言わんとするところの主旨を読むのか、自分の関心どころだけピックアップするのか、読み方で、「知識」をどう扱っているか、まるで違う。自分は、本の言わんとするところの、「目的」を、まえがきあとがきから、または、章の作りから、または、構成そのものから、行間から、読み取れているだろうか。

ここまでやる霊体質さんも少ないかもしれない。

私は、時間の無駄をしたくないので、一度聞いた御法話は、すぐに覚える。ある一定期間は覚えているけれど、しばらくすると忘れる。一ヶ月は覚えているとは思う。覚え方にもコツがある。

同時に、脳で、構成を考える。だいたい、リアルタイムな御法話は、3ポイントシュートでできている。インからアウトまで、3ポイントをわかりやすく話される。その3ポイントが明らかになるのは、最後の5分。場面が切り替わるように、波動が変わる。

それまでの時間に、その5分の枝葉を話される。だから、幹は最後にあるし、枝葉は、20分、15分くらいのところからそれまでにある。

最初の10分、15分は、そのポイントに、聞いているひとの心を誘うようなイントロで、それもまた、枝葉のサキッチョでできている。

その構図を脳内で、インからアウトまで展開して、木を完成させるように、私は聞く。木が完成できないときは、木を完成できる構図が描けるまで、考える。その過程が「覚える」という結果を引き起こす。

この1時間は、私はリラックスしていている。リラックスしている状態、が、一番集中している。だから、聞いている態度は、他から見ると、真剣に聞いていないように見えるかもしれない。でも、ひとが本当に真剣に集中しているときは、「礼節」のある態度はできない。「礼節」というのは、他に対して「意識」していないとできない。「他を意識する」状態とは、集中するべき項目がたくさんになるので、とらえられる情報を刻印することはできない。

むしろ、他の情報が入っていると、集中して刻印したい情報と他の情報がまじって刻印され、曲がったものとして、自分の内側に入ることもある。

私は、集中しているときは、上唇と下唇がとんがる。他の人にも特徴はあるはず。サイダーとチップスがないと集中できないひともいる。それをとって、「どうだ」というのは、私は「間違っている」と思う。

ブログを書いている私は、「飲み物」が絶対に必要なように、何かリラックスできるもの、に依存することはある。清浄なもの、に、アプローチしたいときに、「ミネラルウォーター」は大事だと思う。

つまり、何を得たいかの優先順位をつけるべきだし、一番自分が集中できる状態でもったらいいかを優先すべきだと思う。だけど、自分の状態があまりよくないときは、「光」を受け取れること自体が目標になるし、いろいろあっていいと思う。

優先順位をとって、自分に課したくても、それができないこともある。できないときは、足りなかった、できなかったなどと考えずに、自分のバロメータとして理解すればいいと思う。足りないことを補うように、後からフォローすればいいことで、時間の無駄になったとは考えなくていいと思う。でも、後からフォローするのは大事なことだと思ったほうが良い。

ただ、私は常に、何かを「意識」したほうがいいと思うんだ。足りないところを埋めるように、「意識」して取り組めば、それなりに成果は必ず出る。すぐじゃなくてもいいと思う。やっていれば、必ずつかめる。

私は、ひとからどう思われようがかまわない。話の内容をその一回で、魂に刻印できるかは、その日その時間、真剣に、そこにいる、ことだと思う。だから、ちょっと「ヘラヘラ」してたり、周囲に迷惑な感じになることも、あるかもしれない。でも、できるだけ、ちんまりするようにはする。

政治という苦手な分野はちょっとむずかしい。でも、私に必要な「宗教」の話は、かならず覚える。

ひとつとして、欠けてはならない情報だから。

もちろん、それでも「聞慧」どまりのことはいっぱいある。でも、必ず後から、生きてくることがある。必要なときに、与えられる。「知識」や「情報」とも、縁があって、その縁をつないでおくことは重要だと考える。

霊体質であっても、そうでなくても、このあたりが必ず必要だと思う。精進の大変さは互いに違うだろうけれども、でも、「必要なもの」は同じなんだ。学ぶ根幹に、聞慧、思慧、修慧があるのは確かなんだ。

それと、霊体質のひとは、「霊的体感」が多いので、それにどうしても目が行く。どうして、その「体感」または「霊視」だったのか、それは正しいのか、を考えない。または、データを積み上げて、解明しようとしない。自分の視たものを、「情報」として、「そのまま」とらえる。

神秘主義が大好きな人、か、もしくはめんどくさいのか、どちらかだと思う。

そもそもに視えているもの、が、真実だとは限らない。私は「光に照らされていないもの」は真実ではないと考える。たとえば、悪霊や生霊などもそうだが、負のものは、すべからく、今現在の一時的な「事実」であって、「真実」ではない。

それをとって、ああでもない、こうでもない、と考える事自体が愚かなことだ。

生霊にしても悪霊にしても、どうして、そうなったかの理由があり、その「理由」を、こちらからのものの見方で判断することそのものが愚かしい。だが、多くの霊体質は、指南役がいなければ、それを「真実」だと見間違え、己の感情や考えでもって、愚かな行為、愚かな心、愚かな言葉を吐くだろう。

かつてのわたしもそうだった。痛かったし、信じられなかったからだ。新しい場面や、変化を起こせれないと思っている場合だと、その「事実」に私は負けてしまう。

負そのものが「真実」ではない、と知り、自分の未熟さを問うことができる霊能者がどこまでいるだろうか。

悪霊や悪魔やネガティブな「事実」はそこかしこにあるし、ひとが気づかない悪心や執着もそこかしこにある。でも、それが「真実」ではないと知り、それが自分の目の前にあったとき、「真実の姿」を引き出せない自分こそが「未熟」であると考えられる霊能者はいるだろうか。

言葉を変えよう。

愚痴ばかり言うひと、怒っているばかりのひと、根暗なひと、めんどくさいひと、迷惑な人、は、「本当の姿」ではなくて、そのひとが「本当の姿」になるように、導けない自分にこそ、「未熟」だと考える修行をしているひとはどれだけいるだろうか。


もっと言えば、現実的な精進、目に見えて誰でもわかるところの精進ができない霊能者に、あの世のことでの浄霊や祓いなど、できない。逆に、霊能者だからと言ってより優れることもなく、精進をただしく行うものが、愚かな霊視に負けることなんてあってはならない。

私だって、不遇な未来視なんかに負けたことはない。それで今を選ぶなんて、愚者のやることだ。必要なことが何なのか、を知るくらいでちょうどいい。いつか傷がつくときのために、バンドエイドを持ち歩くように。それは、精進の方向を定めるように。

一番むずかしいのは、人情を捨てることだ。私が一番難しかったのは、ひとを捨てる、ということだった。それは、ひとをゴミ箱に捨てるという意味ではない。私にとって愛すべきすべてのひと、または苦手な人も含めて、私を取り囲むすべてのひと、を、主に差し出すことだった。

誰かを愛しているのに、間違っている愛、傷つけている愛、だと判断したとき、ひとは怒れるだろう。

だが、それは自分から見て、だ。

そのひとの立場にたっていない。神からの目ではない。

でも、自分から見て、それは「到底、正しいと思えない」という壁に、どれだけ向き合ってきて、それを捨ててきただろうか。捨てないと、新しい視点、など、手に入らない。愛をてばなす、殺すような心地をどれだけ体験しただろうか。

自分の人情を手放して、主に捧げ、全託することほど、恐ろしいものはなかった。


プレアデスの悪が発刊されたとき、私は胸をなでおろした。私はというと、それらしい波動に区分ができていた。なんとなく、それらしい波動と根拠のいくつかで、プレアデス、を仮説的に見立てていた。その多くは、私も含め、「いい加減さ」が表に強く出ることが多かった。

その多くは、努力家でもあるのにもかかわらず、雰囲気をとって「いい加減さ」を感じた周囲が、「そういう目」で見ることが多かった。そういう「目」に傷つけられたり、そんな自分でも「愛してくれるひと」に身を寄せ、自分をだいなしにすることが多かった。「嫉妬」で傷つけられたとき、どこに愛を求めたら良いかわからないで、「嫉妬」されないほうを選んだ。つまり、「不幸」を選んだ。端的に言えば、仕事のできない「キャバ嬢」「ホスト」の側面があった。

だから、「悪」が公の目になったとき、私は心をなでおろした。このことが明らかになるということは、自分の傾向性だけではない、大いなるカルマが大きく幸福へと転化するだろうと思われた。ぬぐいきれないプレアデスへの所属感を消し、地球への所属へと切り替わるためには、「特徴」を正しくとらえる必要があった。そして、付き合うものは付き合い、秀だたせるものは秀だたせ、落ち着くところは落ち着くように、ようやくマネージメントできると思った。

明らかなのは、その系統グループの魔がようやく「分かる」ようになったことだ。ただ、縁があるからか、「とてもしつこい」。背中に背負っているひとを、何度も見た。互いに祓いもするが、でも、ようやく所属を解いた後の自分の傾向性を修正するのは、自分の仕事だ。

地球すべてを選んでくれた、という感謝で、私は溢れているのに対し、肉の目で見て、親はそれと同じことをしろ、というのか、と怒るひとも見た。

私は息子を主に捧げ、自分との現実的な離別も覚悟をした。でも、別離にはならなかった。ただ、息子は、祓われただけだった。地球すべてを選んでくれた存在があるから、それに帰依する私達が、降魔することができるようになっただけだった。ひとを救うことができる光が厚くなっただけなのに、よいことをしたのに、人情に責めるひとがいた。

「義憤」という人情は、決して、愛ではない。

昔、私がどれだけ勉強しているかを、級友は知らずに「嫉妬」し、悪口を言い、いじめたこともあった。今でも、どれだけの「教学」をしているか、私の風貌をとって理解することができないひとは、「霊能者」で一定の「法力」があるような結果を出す私を見て、「嫌う」。

愛と憎しみは表裏一体ではない。

愛は、愛である。
憎しみは、嫉妬からできている。

そろそろ、憎しみと嫉妬は同義語にしたほうがいい。

愛の反対は、嫉妬、だと。

何が原因で、成功できているかを、私を見て、理解できないからだ。私は、「法施」は、話を聞いてくれるひとにしかしない。

そして、私はそれをすることが本当はあまり好きではない。自分が自分に与えてきた厳しさを、人に伝え、馴れ合いにならない距離で、厳しく育てるのは好きではない。息子をそういうふうに見ることは、今の私には、チャレンジでしかない。

実際のところ、私の精進の過程、を知るひとは、真似してみることができるだろうか。

黒魔法は、「義憤」に狂った魔法使いの有様であるならば、縁起を知ることで、その「義憤」はようやく哀しみに変わるだろう。「縁起」を知らないで、心と勘違いした感情に目を向ければ、それはもう、なんの意味もない。

霊体質の皆様には、それを強く、私は言いたい。