らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

富はすでに与えられている。

また、K君から電話がかかってきた。K君とY君に出した課題があるので、その詳細をもう一度伝えた。温泉に行くドライブの時間、暇だったから電話がかかってきただけだったが、私は、先にY君と話していたので、そのモードで話したら、ちょっと疲れるなどと言われてしまった。

Y君は、私から養成を受けていることを自覚しているので、私は「養成モード」で話をすることが多い。K君とは、もともと、友人であるので、友人モードで話したいときはそのように話すこともあるので、なかなか、「モード」の使い分けが難しい。

Y君は向上心が高いので、話しているうちに、「課題」の根幹の高いところまで話すことが多い。

彼はプレアデスなので、教育力が高いはずだが、まだ、その片鱗は見えない。要は手立て、をまだ会得していないからだった。そのあたりの手立てをマスターするには、実は、心の修行が必要で、また、自分の個性を自覚し、その個性の弱みになっているところ、を修行して会得する必要がある。

彼は、愛が強く、慈悲魔になりやすい。それは、愛の平等観で成り立っていて、公平の観点が薄いためである。なので、上求菩提下化衆生の点において、機根と菩提心に基づく自助努力の観点を自分に置いての精進は易いが、元来、ひとに置いて見る、をすることを苦手とする。実は、彼の教育力は、この公平の観点、でひとを判定する作業なしには、土台無理なのだが、心が愛で満ち溢れているために、生理的に、「拒否」しがちである。

このあたりの精進は、私も同じ傾向をもつので、現実では教職という立場、判定業務という立場、という職業を通しての修行をさせていただいての「理解」にあいなった。

鬼の経典にもあるように、悪い鬼を懲らしめる立場の魂は、警察や裁判官の職業を経てきた、経験をとおして得た智慧をもつものしかできないように、「現実」での経験が、あの世での悟りに通じることはよくわかっている。そして、現実でのその傾向そのものをとって「個性」を見抜くことは容易いようで難しい。

そのあたりの話もしながら、仏性を褒める概観を伝えた。現実からそれを知るための手立て、も教えた。はっきり言って、これは私の悟りでもあるが、その悟りを若いものにはストレートに伝えて、何年もかけてどうこうする必要はない発展をより早いスピードで行っていただきたいと思う。繁栄とはそううものではないか、と思う。

自分のときはそうだったからと言って、不親切ないじわるな対応、になっていないかは大事なことである。宗教的な智慧、は抽象的なものではあるが、どんな場面でも使えるものであるし、その抽象的なかんじを体得するのは、体育のような実践だと思う。そこに論証はあるが、論証に裏打ちされた実践、というものが、本当のところの精進である。

そうした、ある部分での「理解」について、一時的な指導者を、昔は「阿闍梨」と呼んでいた。まぁ、そういうものはあちらこちらに本来はあるべきもので、それがないのだとしたら、もはや、サンガのメリットなどどこにもない。

お互いに、「悟り」を交流することによって、繁栄をスピード化することは可能だと思われるが、このあたりに介在する、ひととひとの間にある「不信」や「怒り」「憎しみ」「トラウマ」は、それを阻害する。私にとっても、霊能者への嫉妬、はトラウマになっていて、もうめんどくさい、かかわりたくない、と思うことしきりであるから、その自分のひとに伝えたほうがいい「メリット」になるだろうそれは、こうして、受け取りたいひとだけに、ブログで発信することにしている。

繁栄したいひとは、繁栄したらいいし、
違うと思う人は、やめたらいい。

そんなものは自己責任だ。

伝えることはするが、それをどう生かすかは自分次第である。なので、Y君にもそれは伝えた。まず、こうした霊的な観点の実践論、実践的なデータは、霊能者からしか得られることはできない。だからと言って、「宗教修行」を経ずして、それができるようになるとは言えない。必ず、現実の宗教修行で「できるようになってから」しかそれは起きない。だから、今までの自分の精進に自信を持ちなさい、とも伝えた。

(Y君は、なぜか、霊体質で視えるようになってしまった。こういうことは、私には、はじめてである。霊体質さんは先にこちらが見抜いているので、うまく導いてく過程で、だいたいにおいて、霊体質さんしか気づかない起きない相談を受ける。彼らは自分が視える人だと自覚しないまま、あるとき、ふっと、霊体質だからそうなんだと分かるときがくる。かえって、霊体質ではないひとは、こうした話をしても、ほぼ理解しない。でも、修行論は同じなので会話は成立する。Y君は、先に精進を重ねた2世さんとして後者でかかわっていたので、こういうことはまったくもってはじめてである。)

感化力という悟りを発揮するには、そもそもに、自分がひとに心をまるだしにして、投げ出していないとできない。それは、とても怖いことで、主と一体の境地のところから、「確信していること」を話すことによって起きる。だから、反省なくしてはできないことであるし、「妄想」では感化力には至ることはない。

彼には基礎土台はあるが、その場面ごとによって、求められる心の具合がわからないだけなので、正直言って、ものすごく期待している。だが、先にも伝えたように、個性をより輝いて発揮するために、魂の傾向を加味した、必要な精進が問われる。

つまり、機会の均等性という平等観と、自助努力に基づく公平な評価を、しっかり理解しなければ、彼の教育力は、正見に基づいて発揮されない。そして、そのおおよそは、彼の得意手とする「褒める」という行動で価値付けることを乱射することによって、他の者の仏性を顕現を濫発させることが可能であると見立てる。

だが、こういったことを私がガイドできるとしても、彼らは自分たちのフィールドで戦わねばならない。なので、課題を提示したのだ。

レプタリアンであるK君の怒るポイントを散々聞き倒すこと。

レプタリアンは「判断力」に優れることが多い。でも、「自分の好きか、嫌いか」でそれを振り回すか、許すかを決定するところがあって、このあたりの「人情」という不公平観は、彼らにとっては課題かもしれない。

でも、K君の「怒るポイント」の話を散々に聞いてきた私は、おおよそ、プレアデスの反省を導かせるような観点であるので、これを生かすことにした。つまり、Y君には、K君の観点でものを見ることは少ない。できないわけではないが、避けがちである。「生かす」ことを捨て、「理解する」から「許す」コースをとりがちなので、散々に、K君の見方を浴びることがいいと思った。デコとボコをあわせて、ちょうどいい具合にする、といったかんじだ。

K君は、この「怒り」をもった行動を「制裁」と表現した。そして、その一連の流れを「やられたらやり返す」だと表現した。たぶん、これを読んでいる方のヒントになると思うが

レプタリアンは正しい行動を間違った言葉で表現することが多い。
(でも、ちゃんと事実を聞き取って判断したほうがいい。)

そもそも、仏の言葉で、自分の語彙の定義を再構成することが最初の修行になると思われるが、ここができていないことが多くの誤解を招く。だから、導くひとは、この観点に基づいて、話を聞くと、互いに「誤解」しないで済むので、正しい言葉を使うように指摘してあげるといいと思う。仏言を間違った場面で使うことも散見されるから、正しい言葉を使っていても、実態と見合っていないこともあるので気をつけたほうがよい。

彼の「やられたらやり返す」は、経典のその質と同じではなく、ただの「相談」であったり、「立場に基づいた適切な危機回避」であって、なんら悪いことではない。そして、プレアデスなら、その行動をとることに、何ら躊躇もしないし、相手に悪を働いたなどとは思わない。自分の立場から見る、ので、困ったことに対応してるだけ、である。

こうしたK君の主張を散々聞いて、ああ、これは、もう、Y君に委ねていいほど、曲がっていないなと確認できたので、K君にも主旨を伝え、Y君にも主旨を伝えて、交流を「本物の法友」になるべく深めることを打診したのだった。

K君に求められること
○自分が間違っていると思い込んでいる本来の仏性を自覚すること
○それを仏の理想を実現する方向でひとに役立たせること
○精鋭部隊そのものの実態について、K君の判断力を使って、実態を自覚させること
(もちろん、自覚しても繁栄を成功させることを目標とするので、それができるまではひとに指導できない。まずは、在家修行のうちにあるところで研鑽をすることは求められる。)

Y君に求められること
○自分とK君を比較しての褒めるではなくて、K君と仏を無我にして見ることで仏性を見抜くこと
○そのところから、個性を導き出して、精鋭部隊で生かすこと
(このやり方はちょっとむずかしいからブログでは言わない)
○K君のものの見方をたくさん聞いて、K君の主張から「チームワーク」の観点をしっかり学ぶこと

Y君はこの経験を通して、「仏性を位置付け、価値付ける力」を持てば、いくらでも組織は繁栄することができるだろう。なぜならば、仏性を顕現したチームができれば、「最強」にならざるを得ないからである。なので、それまでの「実績」という結果は捨てなさいと伝えた。

自分たちが何をしているか、を理解すれば、取り組んでいないことに関して「妥当な結果」であるならば、それを責める必要などないからだ。

大事なことは、縁起を理解して、その縁起どおりではない「結果」が与えられたのならば、それは「判断力」の誤差であるので、反省する必要はある。でも、反省と言っても、原因を知ることを旨とするので、ひとや自分を「悪い」と言い続けるのが反省ではないことはきつく申し伝えた。

あと、もう少し崩すことも伝えた。組織的に精進を狙う場合は、もう、ごっそり、ホワイトベースで漬けることが主体になると思う。でもね、伝道や養成って、それだけではできないんだよ。

ひと対ひと、の、感化力、真っ向勝負、自由自在のそれと確固としてある不動心をもたねば、あらゆるひとにも対応できる、どんな状況でも対応できることはないので

貴方は、そうした、世界でもやれるように、今は、ひととの繋がりを浅く持ちなさい、とも伝えた。本気の体当たりでやれるように、しなさい、とも。そのためのK君との取り組みである。

まぁ、大学生のボーイズ飲み会、だと思えばいい。でも、その会話の質は、仏法による価値の再編成であることはきつく伝えた。

ハイニュータイプモビルスーツを着て、まじの経典に書いてあることを自分の生活や実際にあてがって、まじであれをやるんですよ。秘密の法なんかでもあるけど、あれ、本当にできるひと、いるんですよ。だいたい、あれができないと「発展」はまず無理だと思うし、自覚してやっているひとは話を聞いていればわかる。いつもやっているかどうかまでは、ひとによると思う。いつもやっていたら、ひとをはじいてしまうから、その段差をつけることも、Y君に伝えたように、たぶん、やっているひとはいないと思う。

でも、はじかないと、体がしんどくなることが私は多いので、若干、ひとに優しくないことのほうが多い。寛厳自在の愛、には、まだ、程遠いなw

しかしながら、なんのこっちゃいな、そんなことが本当に起きてるかわからないわ、みたいな推測の範疇では、一冊の本を網羅することはできない。一冊をひととりの実践で成功を味わえるのは、だいたい数年かかるもの、だと思う。でも、後も待っていて、深さ、が問われるので、何回もやっているようには感じるだろうけれども、リテイクなのか、リチャレンジなのか、ハイジャンプなのかは、あまり気にしないで、その都度の成功、を重ねていくとよいと思われる。

でも、やっぱり、その手がかりっていうのはさ、阿闍梨という先輩信者さんが必要だと思うよ。

でも、やっぱり、実現をされた成功者さんね。
でも、劣等感の強い方っていうか、「成功」の自覚のない信者さんもいるから丁寧に聞き取ること。


フロンティアさんなんかいい例だと思う。
彼女は、成功した信者さんだよ。