らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

That's OK.

今日は、昨日起きたことを書こうかなぁと思っていたのだけれど、思いの外、ゆきひめとの電話が濃くなってしまって、私の反省の気分にはなれない。

みんな、頑張ってんだなぁと思う。

どんなに強く見えるひとでも、悩んだりして、確認作業というお喋りが必要なんだなぁと思う。

私だって、衝撃的なことがあればそうなる。

お話をして、「自分」というものを認めてもらうことは大事だ。


どんな話をしたかというと

「ひとに感謝する」
「両親に感謝する」
三宝に感謝する」
「日常の当たり前なことに感謝する」

からはじまって、自己変革についての話をした。

何かが足りないんだよ、と訴えてきた彼女に一番最初に話をしたのは、「大きな声で朝晩の祈りをしているか」ということだった。自分で気づこう、気づこうとしていても、本来、指導なしに、「悟り」の香りのする気づきを得ることは土台無理だ。もし、気付けるというのなら、指導されたわけではない、自分の知識や智慧の範疇にあるそれを超えることはないと思う。

(さんざんに言うが、そこに霊体質は関係ない。)


研修のありがたさや経典のありがたさ、今を生きるありがたさを本当にわかっているのならば、それ相応の努力は、ほかっといても、ひとはするだろうと思う。ありがたいと思っていても、状況や環境が許されない場合は、そのタイミングをずっと狙っている、だろうと思う。研修に行きたいって泣いたひとだっている。

そういうひとが研修を受けたときは、舞い上がってしまって、研修どころじゃなくなるのも見てきた。そういうときは、「ああもったいなかった」などと思う必要はない。研修を受けた、という事実を持って、縁はできていて、それを向こう何年もかけて、理解できるように支援が働くことも、私は見てきて知っている。

(そもそも、私だって、一冊を数年かけて取り組んでいる意識はある。ただ、そのわからない、できていないところは、深めたいところは、頭の片隅にずっとある。人生の王道を語る、とか。)

日々のひとから教えていただくことを積み重ねて、やっと、これがわかった、というものもある。


なのに、精進のために、「これをしなきゃいけない」「あれをしなきゃいけない」という強迫観念があるのはいかなるものか。

ひとによって違うだろうけれど、ゆきひめのそれは、こうだった。


自己変革は、自分を変えてこそある。

幸福な未来は、自己変革があってこそある。

でも、自分を変える、ことは「指導」があって、はじめて与えられる。

なのに、信仰者として与えられている最低限の戎を十分に自分が守っていないのに、指導を受けられると思うのは、あまりにも「わがまま」だ。

指導霊は、指導をしたいと心からそう思っている。

でも、その指導を受けられるために、必要なのは、信仰者の「状態」である。

その「状態」を自ら作り出さないで、自己変革をしようというのは、あまりにも「わがまま」である。

その「状態」を作ろうとするのに、どうしたらいいかを思いめぐらさないで、自分のこだわり、を環境に当てつけるのは、より信仰深く生きるものとして、いかがなものか。

お祈りをするにしても、より信仰深く生きるものとして自覚があるのならば、磁場を整えるための祈りをすることも精進として課せられているのではないか。それをしないで、場所を変えてみたり、あれやこれや、環境や状態に依存した形の「精進」ならば、変革はないのではないか。

できているところ、できていないところを、冷静に客観的に見て、できていないところをより前に進めるように、ごく自然にやれるようにしたらよいのではないか。

そんな努力はいつだって、誰だってできる。道を歩いているとき、通勤しているとき、食事をつくっているとき、寝る前、どんなときでも、「心のなかでつぶやく言葉」を信仰に依るもの、に変えることは誰だってできる。

時間がないというのなら、時間の過ごし方ひとつとって、数分でできることを毎日、何か取り組むことは誰だってできる。

できないというのなら、それは、やりたいと思っていないだけだ。

やりたいと思うのならば、やれるようにいくらでもできるはずだ。

指導を受けられる「状態」をつくることは、長い時間の訓練が必要かもしれないが、それでもやり続ければ、数年もかかることはない。毎日、毎日、数分を積み重ねていけばいい。

そして、朝晩の祈りの後、さんざんに感謝を深めているのか。お祈りをしたところで、「感謝の念い」がないところには、パイプができないので、指導を受けられるとは思えない。精進に対して苦しみや反発があるのならば、それを反省するところからであるし、その反省ができないことそのものが「苦しみ」でしかない。

それでいて、尚、「やらされている」「やらなくてはいけない」「しなければならない」という感がぬぐえないのならば、今の自分をそのまま受け止めてもらいたいという、ワガママな愛だと思う。なぜ、ひとが自分に寄ってくるかというと、そのひとと関わっていることで、「メリット」という利益があるからだ。

ひとの役に立つ要素、が自分にはあるのか。それを高めているのか。

そのままで愛されることを求めるのは、「自立していない」のでないか。

ひとは、多くの「やり遺し」を持っていて、その「やり遺した目に見えない解決方法」を知らないからこそ、5才児のまま、10才児のまま、今を生きるひとだっている。細胞が死滅して、新たに体を作っているのに、心はある「やり遺しをした年齢」で止まっているのならば、それは、すでにアンデッドになっている。生きているのに心がとまったままならば、すでにアンデッドだ。

それはどういうことかというと、30才で、または35才で、そのとき、そのときに、過去を振り返って懐かしむのではなくて、どうしたらよかったのか、あのときは何がわかっていなかったのかを、冷静に客観的に見ることで、今を確認し、また、同じ過去を振り返った30才、35才のものの見方の変革をも楽しみ、未熟だった過去を愛するようにゆるしていくこと、を重ねながら、未来を見ることで、ようやく変化を楽しむことができるのではないか。


「変わらなければならない」と思うのではなくて、自然に「変わっていった」ものだと思う。それに必要なのは、感謝と反省から起きる自己変革を、小さなステップを継続して行うことだと思う。

そんなような話をした。そして、カウンセリング料金を所望したw
…だって、養成の範疇、超えてるんだもん。

昨日、K君にも、この話は、ちょっと真剣に言ったのだけれど。

私はそういう植福をしているだけであって、あなた方に期待をしているからこそ、私のすべてのエッセンスを伝えている。それは、研修や反省、私の努力で成立したもの、であって、そのエッセンスを自分の努力なしに得ようとするならば、もう、実はお金が発生するものなんだよ、と言った。

それには、ちょっとびっくりしたようだった。

そりゃあ、霊障で体が痛いのは大変なこと。経典を読んだり、お経を読んだりして消えるものではないのならば、自分の心の針の修正が必要。その修正箇所がわからないから、ひとは病気になったり、えらいことになるのだが、それにまつわるピンポイントな修正ができるように方向を、傷んだ箇所から言えるのは、もう、経典から学んだ私の研鑽してきた智慧、なんだよ。

その価値を今朝考えて、金額にしてみたけど、実際、無料にしないのならば、この金額かなとも考えた。で、ちょっと、私、どう考えても慈悲魔だな、とも思った。

よく考えたら、そんなレベルのお話ができるとしたら、レアだもん。
なのに、惜しみもなく、分け与える。それは、ただ、ひとに愛されたいだけか?とも自分に問いてみたが、ちょっと違う。

「こんなことくらいしか、私はできないから」

という劣等感がでてきた。そこまで来て、考えるのがめんどくさくなってきたのでやめた。


そうしているうちに、職場で気になっていた人間関係(私が困っているわけではない)に、それ相応の氷解の兆しを見た。AさんもBさんも、私はすきなのだが、AさんとBさんは真逆の生き方をしているので、お互いに、その立場にたった心の苦しみ、を想像しない。まぁ、関心がないのかもしれない。職場だしね。

でも、生きてきたその道筋を知るだけで、AさんとBさんは、互いにそりが合わないだろうな、と思ってきた。なので、Aさんには、Bさんの立場にたった苦しみを伝えた。Bさんにはただただ、フォローをし続けてみた。それでいて、ごく自然にふるまってきた。その、ごく自然にふるまう、が、雰囲気におされて正しくあれなかった時期を通過し、仏陀霊示の祈願を受けたところで、ようやく「八正道」を自分に課すように、職場を仏道修行と位置づける生き方へと修正できるようになってから、小さな変化が訪れはじめた。1年弱かかった。そして、ようやく、彼女たちに起きていたチームワークがとれない理由が明らかになった。

「単なる言葉の取り違え」
「相手に与えた言葉の印象を理解しない」
「相手の考え方をふまえながら話をしないための誤解」

を、両者が気づいたのだった。これは、実は、職場で、私が相手との関わり方の中で、反省して改善してきたことでもあった。謝るべきときには謝り、相手の立場にたった考え方のなかでできることをし、言葉かけをし、不綺語にならない心が伴う褒めをし、安心を提供することを、戎としたのだった。自分、を守らないことも、決めた。私が先に一歩を踏み出すと、雑談のなかで鍵がでてきて、鍵でパンドラの箱を開けるように、少しずつ少しずつ、雑談のなかで明らかにされたこともあった。

家庭内で目に見えない起きていることも掌握しているが、Bさんの内も掌握していて、多くの傷つきを見て取れた。傷つきもさることながら、甘え、もよく見てとれた。それの多くは、慈悲魔に通じるものであり、また、私の慈悲魔になってしまうが理由と同じものを見た。

だからこそ、私はAさんより、Bさんを好ましいと思っていたことも認めた。

Aさんに近づくと、Aさんの意見の正しさを知るだけ、自分の甘さを反省した。

そうやって、自分が精進をするだけで、ごく自然に、周囲へゆっくりと変化が伝播していったのをよく見た。頑張らなくてもいいんだな、とようやくわかった。でも、それでも焦りがある。

きっと、ゆきひめもそうだろうと思う。恩返しがしたい、したい、と思って気張ってしまっているのだろうが、実は、使命とはそんなヒーローやヒロインになるような、大人物、になるようなことだろうか。私は、なろうと思ってもなれないと思うし、そんなことよりも、こうやって、ひとへ感化していく自分の心の精進のほうが、ありがたいなと思う。

与えられて、与えてるではないか。


実は、与えるっていうことは、一方通行になることって本当はないと思う。だって、そうだったんだもの。信仰していて「わかること」がたくさんあったとしても、ひとに「感謝すること」なしに、与えることができたときなんて、一回もなかった。


むかし、富の円環の法則を考えて、実践をしながら調査してみたことがあった。「ありがとう」を言うと、怒るひとがいた。その「怒るひと」は、何もこちらはしていないのに、「ありがとう」なんて言うな、って怒っていたのだけれども、本当はそういうことではないんだよ。

かかわりのなかで、ありがとうって本当に思いながら相手を知って繋がりを楽しみたいと思っていないうちは、ただの「ありがとう」は、波長が合わないことをとって縁を切るのと同じエネルギーをもつものだからね。

献本したら、縁が切れるのと同じかな。


まぁ、私は「繋がりたい」がかなりないので、愛が足りなくて、引き寄せをはじいてしまいがちなのだけれどもね。

そんな私は、ただしいことが急激にわかったとき、生きていたくないなって気持ちになって、ひとを汚いと思って、ひとが奪うだけのような存在に見えて、傷つけてくるって思って、とっても怖かったのだけれど。

5年かかって、ようやく、生かされている「憎しみ」にもがくことをやめて、ゆっくりした時間を過ごすようにして、生きなければならない「面倒」を楽しめるようになったかな。

衆生の無知にさらされたり、家系の悪たる膿を出すという治療の過程で、だいぶ苦しんだんだよ。
老いるしね。体が動かなくなる未来に向けて、できることの少なさ、も想った。

でも、ちょっとだけ、今を楽しいと思う。

タイトルに向かって締めたいんだけど、うまく締められなくて、ごちゃごちゃ書いてる。
長過ぎる・・・

そうね。とりあえず、言えばいいんだわ。

That's O.K. I'm O.K. 
My Change is connecting to your change.
So I try my life for every one.
Everyone is for my challenge. Thank you so much. I love you.