餓鬼退治
なんだか、「餓鬼にはどうしたらいいのか」知りたいひとがいるような気がしたので、そっちを先に書くわね。
まず、餓鬼だとか、餓鬼のバックにいる修羅だとかを見抜く方が大事なのよ。
どうしてかって?判断が難しいでしょう?
でも、見抜くことはとても簡単なの。
「めんどくさい」という言葉が出るときは、餓鬼が近づいているか、餓鬼道に入っているか、どちらかなのよ。それが常態化すると、餓鬼に誘発されて「修羅」が生じる。まぁ、モラハラパワハラの構図でもあるんだけどね。
これをどうやって脱したらいいかってことなんだけどね。
先にも言ったんだけど、
安心していること、自分に価値があることを信じること、自己投資による努力を怠らないこと、キレたひとの罵声に心を折れさせないこと、不幸で絶望しているひとに寄り添いすぎないで自分で立たせる援助をすること、自他ともに幸福な未来を信じること
が、心で必要になってくる。餓鬼に近づいていくと、自分が負けてしまうときは、餓鬼に通じたり、修羅になっていくので、一番大事なことは自分を保つようにあること。
つまり、幸福な今に感謝すること。
今の自分の幸福に気づくこと。
縁起に基づいて今の自分に与えられた今を知ること、受け入れること。
決して、ひとに迎合するような不綺語や与えてはいけないものを与えて調和を得ようとしないこと。
そうした自分の精進が私は先だったわ。もちろん、悪魔が介在していたので、このあたりは悪魔祓いを受けて精進させていただいた精神性なのよ。
餓鬼を統括しているおおもとの根源は「恐怖」だわ。
なので、どうしても神仏からの加護、を信じることが前提だということも伝えておくわね。
そうして、餓鬼状態にある人を再教育していくのだけれども、どうやって再教育していくかっていうと、仏教で言うところの示教利喜なの。
餓鬼状態にあるひとは、おおよそに、自分のちからを間違った方向、つまり、貪るほうに使っているの。ありとあらゆる方面でね。だから、正しいことを知っているひとは、もちろん、その悪点が目につくだろうけど、その悪点をそのまま伝えることは、第一にしないの。
第一にやることは、その悪点から見抜くことができる仏性をあなたが価値づけることなの。
例えば、愚痴が多くって、その愚痴でひとへの影響力が大きな人はね、言葉が武器なの。その言葉が武器だと知るならば、それを価値付けてあげるの。あなたの言葉、は素晴らしいねって。でもね、その方向がちょっと違うから気をつけたほうがいいってこともちょっとぼんやり伝えるの。最初は、伝えなくてもいいかな。
大事なことはね、仏性を知らせるってことなの。埋もれているから、その埋もれているところを掘り出してやるのは、実は、救済する側の義務、みたいなもんよ。だって、病院で心の医療を受けに来ているひとに自分で直せなんて言わないでしょ?
だから、それで救われる側なのか、救う側なのかも判断できるわ。
こうしたことは練習すればいいから、互いに法友とただしく褒め合うことをやればいいのよ。それが連帯を生んで、絆ができる。仕事を任せる安心も生まれる。仕事をする安心も生まれるでしょう?
その次にやることはね、その仏性が組織のなかで、または日常の中で、具体的に位置づけることなの。あなたの仏性がこうやって輝いたから、こうやって繁栄したのよって、具体的に成果を教えてあげることなの。そうやってくと、その方は、自分の武器を知るようになるから、他の場面で勇気を出して、自分のよさを発揮できるようになるの。
そうした日常のプロセスをとって、その流れを把握した上で、そのプロセスから見ることができる「教え」をフィードバックするの。あなたのやったことはこういうことだよって。
ここまでが示教。
その実践を見守った上で、自然とものになってきたときに、だいたい相手には「ためしのとき」が起きてくるので、そのあたりも見守る。己心の魔と向き合う段階ね。このときには、何も言わない。本能で、成功法則に則った自分の判断を踏襲できるか、になるから、ただ、見守ることかな。
そして、それがごく自然にできたときには、自分のことのように喜ぶのよ。
ここまでが利喜。
これを一回だけでいいなんて、ありえないわ。餓鬼道に陥っているのならば、それ相応のいくつかの要素があって、そこにいるので、その要素ごとに、以上のことを示す必要があるの。そしてね、その示していくところには、自分がまず、その精神性を持っていてはじめてできるの。ちょっとでも、相手のそれに、心が共感してはだめなのよ。
心が共感したときには、同じように餓鬼道におちるわ。だって、心の針が同じ方向に無垢ってことでしょう?
だから、よく言われる共感っていうのはね、相手の立場にたって相手の苦しみを理解する、の範囲を超えないのよ。救う側が、同じになってしまったら、救えないでしょう?
このプロセスに付き合い、道を示していくとき、それを見定める、それを納得させる、それを信じてもらう、という流れの中に、膨大な光が必要なの。
だから、まずは、自分が光で満ち溢れていることが大事なんだけどね、そうした生活を自分が送ることが前提なんだけど、ひとからもらった光ではなく、かならず、無尽蔵の無限の泉から、つまり、主からの光でないとだめだからね。そのあたり、がんばってね。