神様はお祈りしないと指導できない
眠れないので、最近、視えないお友達数名に話したことを書いてみる。
かく言う私も、気をつけないとやれないことでもある。
日常生活レベル、家庭問題レベル、自分の小さな悩みレベル…果ては、プリンが食べたいレベル…でも、天上界に心を向けて訴えるはとても大事だということ。
天上界に心の針を向ける、には、いろんな自力の努力は問われる。例えば、戒体を作ることもそうだし、光をチャージすることも、法に触れることも、全部、自力だと思う。
でも、この世でどうやって何かを実現させるか、という段においては、必ず自力ではなく、他力優先で、お祈りをかけた上で、つまり、指導をこい願った上で取り組むこと、は、、、
この世に生まれて精進しようとする人間としては、順番として最重要だと実感する、という話である。
その指導というのは、神様は人間を助けたいと思ってらっしゃる魂ばかりであるので
「自分がやる」
「取り組むと覚悟する」
という心根は、前提として、とても大事というか、大前提なのは確かであり、自分は無理だなというものから、どうやって取り組もうか考え中のものから、簡単だしと思うものから、何から何まで
それこそ、仕事から、朝から夕方までの1日にあることすべてに
ご指導をいただくという想い、祈り、姿勢として、私は当たり前だと思うという話をした。
なんだか、霊的ではないからなのか、よくわからないのだが、この意識が毎日朝から夕方までなんだ、ということが、衝撃的だったようで
ある方は、こんなことらしいよ、ということで、どなたかに私のLINEを転送した。私の知らんうちに…
そのどなたかが迷いをもたれた事案に、朝イチで、そのマインドでお祈りしたら、先方から連絡が入って、懸念事項がなくなったというイイシラセをいただいた。してあげる、という与える自力だった、という反省をしましたなどと、報告もいただいてしまった。
…そんなことはよく起きてくるし、迷うだけ時間のロスだし、悩むだけ時間のロスだし、苦しむだけ時間のロスである。
わからないからだと思う。
…私みたいにわかってても、習慣化できてない怠慢野郎は精進が必要だと思うが、わからないひとはもったいなさすぎるので、習慣化した方がいい。
でも、もちろん、解決まで長期的な指導を願う必要がある事案もある。その場合は、あきらめないで、まわりをさばかず、環境のせいにもせず、自分のこだわりは全部捨てて
指導を毎日毎日毎日祈る。
達成するまでやりきる。
もちろん、達成したい内容、つまり未来イメージが、そのプロセスは別として、仏が
イエス、それは素晴らしい!
と感ずるような未来イメージでなければ、仏、神様はイエス!と言わないので、指導はない。
むしろ、そんな未来イメージを持ってしまう自分の反省から入る。何かを破壊するようなイメージなんかは、方向修正するために何かが起きる。
大事なことは、被害者意識を持たないこと。
自分自身を変えることで、周りがあたたかくなる、幸福になる、周りが変わる。
だから、基本的に、他が幸福に変わった、結論のイメージさえも未来イメージに入れ込めばいい。
先に話したように、先方から連絡があり解決した事案みたいに、他に指導が入ることもあるが
基本的には、それに導くことができるような自己変革の指導が入る、を意味する。
しかも、それ自体は、基本的には、何転生もひもとけなかった、自身の傾向性を抜本的に、自身を幸福にするような改革も問われるように深化するので
常に新しい自分になるべく
わからないことをわかった1日だったか、とか
無意識レベルで自分の反応が、法にのっとっていたかの精進があった場面だったか、とかの
振り返りは必至だと思われる。
しかも、その振り返りは脳みそでやるんじゃなくて、帰宅の車中で、指導をお願いして、頭に浮かんだことから、ねりかえしをする。
頭に浮かんだこと、や、ふりはらっても、気づいたら考えていたことは、それは考える必要があるもので、
判断なんかは、真理に基づくものか、の精査は、脳みそを使う。ひとを信じない方向の切り捨てであったり、また、過度にひとにこだわる方もまた、中道に反する。そうではなくて、自分の精進として、自分の心を問うもの、である。他人の精進に口や心を突き出しては、実現は停滞する。
…怒りがとまらないときは、法友に頼る。その方面に、情報知、経験知、が高く、信心のある方にお願いする。みんな、人生は違うから、それぞれに持つ悟りが違うので、助け合いが必要なときもある。
どうか、祓ってくださいとLINEして、お願いしてお話するが、それはおおよそ、信仰心が足りないとか、教学が足りないとか、魔が来ているとか、曖昧模糊に終わるようなレベルの話ではなく
何をあきらめて、何を生かして、自分はどうしたらいいのかの帰結が望まれる相手と話す。
その部分を見抜くのも、相手の仏性の発見という自分の精進がものをいうし、助言を受けてどう考えるか、は、相手に責任を問わず、自己責任の上で、どう判断し行動するかは、自分が決める。
相談する過程で、その方の考えを聞くと、結論とは別に、その方の素晴らしさを知ると、後からそれを吸収している自分さえも発見したりして
法友やお姉様方って宝だと思うこと、この上ない。
つまり、実践知がある方にお願いする。
あと、自分がやらなければいかん、と必死こいて頑張ってることが、長期的に悪に働いてることも、もちろんある。その場合は動かない。方向修正も入らず、ただ、ピタリととまる感じがある。霊的に言うと、天使が数人、ただ、黙って、じっとこちらを見ている。
そういうのは、こちらの心がどうかじゃなくて、ただ、ただ、自分の精進に関係がなく、その上、人の幸福にも至らない事案、である。
つまり、自分のやることはなにひとつない、受け入れるべきこと、だったりする。
ちなみに、家庭においては、延命にあたることと、タイミングという時間を待つときだけ、それは起きた。
そういう場面にあった時は、即座にその場を離れる。距離をとる。天上界の指導の邪魔をしない。
指導が入っているか、どうやって考えるかって?
…わかんないけど、指導を期待するんじゃなくて、私が天上界の役に立ちたいと常に願っていて
今日一日起きたことを振り返って、仕事したすべては、指導があったからできたことで、決して、自分が頑張ったからじゃない、自分の力でやれたわけじゃない、と私はいつも思うんだわね。
今日も、この活動とあの話とその話と…話したすべては、天上界が話したかったことや伝えたかったことを言うだけで、
基本的には何にも考えないでそこにいただけだし、感じたことを言っただけだ。
でもね、天使が言いたいことって、仏法だけだから、仏法は基本的には、全部覚えるんだよ。
もちろん、忘れてしまうことはあるし、自分の私の部分がないわけじゃないけど
ひとに話すことは法であるべきだって思ったのはね
実績をあげている人や成功した人たち、つまりお姉様方、お兄様方の雑談レベルから、観察したからなんだよ。
ただ、そのお話の程度は、私は、影響値を考えないときがあるから、まだ本当に浅くて、すべての人を包み込むようには配慮が足らないと気をつけているところ。
配慮や、細やかな判断は、大事だと思う。すごく反省した。でも、気付けたのは、天上界の指導があってだし、お姉様方の姿、だったかな。
私ができることは、霊的な実際、を伝えることや、精進がもったいないことになってるからここをよくするといいとかって、今話したような内容なだけで、自分の一日が天上界のご意志にそうようにあれることを祈るとかね、
他の方の精進の悟りは、やはり、こういう形で、恩恵に預かっています。
だから、自分の精進の味方しか、基本的に存在しないと思います。
整理ができてないときは、何かに自分がこだわってるときで
尼が子育てが下手なのは当たり前
というお姉様の言葉は、衝撃的だった。だから、子育てについて自分を責めるのはやめた。
仕方ないので、光を送る係になることにした。無駄は、そういう指摘も、天上界から指導受けている方から、進言という形で与えられるから、幸せだね。