らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

富の引き寄せ方 3

そのゴールデンチューブのなかにはいったときの「感覚」と実現までの「道のり」の感覚に近いものがハリーポッターにあったので探していましたが、見つかりませんでした。後で、ハリポタ祭りをして探してみることにします。

天上界からの「指導」を受けている感覚に、より近いもの、でもあります。

この天上界からの「指導」を受けているときに、その「感覚」を維持できない障壁、つまり目の前に起きる出来事、というものがあります。これは実は、おおよそ、「己心の魔」を表現するような出来事です。そこで嘆き悲しむのではなくて、「己心の魔」と対峙して抜くことが重要だと思われますが、この出来事から「己心の魔」を見抜くことはそう容易いことではありません。

妹がさきに、「嫉妬」を原義とした「無関心」だと思っているのにもかかわらず、生理的な嫌悪があって、何度も何度も会話で「相手がどうしてだめなのか」「これがどうしてだめなのか」を考えることを話すことがあったのですが、これ自体のそもそもの自分の「こだわり」を考えて抜く、ほうが自分にとってはより良い精進になるのは間違いありません。

でも、このあたりがよくわからないな、ってことも多くあるのです。

自分が幸福になることの道筋のなかに、ひとの幸福も同時にある、のは難しいでしょう。ひとの幸福と自分の幸福、が同じであるとは限らないからです。それと一緒で、ゴールデンチューブの道のりは、あるひとの幸福と交差したり、あるひとの幸福が交差したりします。

また、自分が「与える」をどれだけできるか、もあります。逆に言えば、自分もまた、あるひとの幸福を実現するように働いている、ことが条件です。それは、やはり、神を介在したもの、だと思われるのです。

例えば、私がふらっと支部に寄ったときに、DVDを礼拝室で操作する方法がわからなくて困っている人がいました。私は、実は、ある用事で寄ったのですが、その用事は果たされませんでした。こまっている方がいらっしゃったので、たまたま操作方法を知っていた私が、操作して、無事拝聴することができました。それは、私がいなければ実現しませんでした。

逆のこともあります。私が友達を連れて行ったときに、私のあまりよく知らない方がいろいろ話してくださって、私の友達が「解決すること」ができた状態もたくさんあります。

こうしたことは、私が「こうだといいな」と思うことでも、私の立場ではしかねるために、できるひとがたまたまそこになぜかいて、たまたま「話をすることができ」、たまたま「実現した」のでした。

こうしたことを見ていくにあたり、私はあることを実験してみました。私がしたいな、と思うことを、自分から「動いてみよう」としました。いわゆる「計画」をして、「努力」をして、現実的に動こうとしたのでした。それは、精舎で考えたことではありません。家で自分で考えて、こうしたいな、と思ったのでした。

そのことに関しては、なるほど、と思う結論になりました。私のほうも引き寄せるので、このひとの提案にのろうかな、と思うこともたくさんありました。でも、提案してくださった方の何かがおかしいのです。その方は、私をすいてくれて、気にかけてくれて、話をするのが楽しいと感じている方です。でも、同時に、ある友人から、その提案してくれた方がいかにひどいか、自分でやったほうが良い理由を散々教えてくれるという事態もありました。それも、また、偶然が引き寄せたようなものでした。

批判した方に私が直接、コンタクトしたわけではないからです。

どうとらえていったらいいかわからないままで、もう、これは「静観」しておこうと思って、見ていますが、今は、乗らなくてよかった、と思っています。理由は、いろいろあります。

わらしべ長者ではないですが、自分の願望を実現したいのならば、やはり、精舎での思慧が一番いいと思います。それは、「指導霊」からの「指導」が入った状態だからです。私も願いはいろいろな方向があって、あるひとつ、については、願ったのですが、やはり、精舎での祈り、研修の上のものです。

明らかな指導、は、私の準備、状態もあるので、繋がることができるタイミングは難しいです。でも、こちらが「願い」を続けなければ、やはり、上とタイミングをあわせることはできません。

あと、こうしたことは、「繁栄の法則」のルールはかならずふまえていないとなりません。なので、それをご一読されたほうが一番いいと思います。

あと、こうしたことは、「祈りの原理」のルールもかならずふまえていると思います。なので、それをご一読されたほうが一番いいと思います。

これをしっかりやりながら、自分も「与える」修行を重ねることです。布施については、悟りの挑戦に書いてあると思いますし、「沈黙の仏陀」にもあったような気がします。「与える」については、その「布施」の概念を踏襲された延長上にある日常レベルのところ、を重ねる、でいいと思います。


私はもっぱら、宗教的なほうを優先して、その下にある日常を律しながら「ひらたくやる」といったかんじです。あまり活発なほうではなく、根暗なタイプなので、ブログを通してお話をしたりします。

ひとりひとりお話することもしながら、これを読んどいてね、と養成している方にも伝えたりします。もう、立派なリーダーさんになられた方も、自分の励みにするかのように、「触れる」ことで、自分の恐怖と戦ったりするこのブログは、ひとつの「媒介」としてはいい試みではないかな、と思います。

いろんな「引き寄せ」があります。

自分がつくる、ではなく、ただ「運ばれる」こともあります。

でも、それはいずれ「枯渇」するんです。
運ばれるのは、自分の縁をつたってやってきます。

でもその縁から運ばれたそれは、もともとは「自分のもの」だったり、「誰かのもの」だったけれどいいことに使うから運ばれた、というものです。いずれは、「枯渇」します。

大事なことは、「つくる」ということだと思うんです。

その「つくる」ことは、とても、時間がかかることもありますし、そうでないこともあります。

何を本気でつくりたいか、も重要です。それは、おそらく貴方の「使命」だと思います。


その「使命」は、おそらく、貴方しかできないこと、だと思います。だから、「使命」だと思うです。

もちろん、その「使命」は、仏がにっこり笑うもの、であるので、どうしたらにっこり笑ってくれるかを「知る」ために、支部ボラという「指導」の入りやすい修行をして、「指導される」感覚をトレーニングしたり、なにかの修行をすることを問われると思います。

その「感覚」をよりどころにして、日常を、過ごしてみると、どういう「感じ」が不幸になるのか、どういう「感じ」が成功をもたらすのか、はっきりとわかるようになります。

でも、ひとはひとりで動いていません。突き詰めれば、バルケルルスのように、いつでも「旅人」であるように、安住の地にいられないようになります。なので、どうしても、「同志」というものが不可欠になってきます。

その「同志」も自分が育てていきます。そうすると、組織だった何か、ができるようになります。富が集中するようになります。育て合う、ようになるからです。

本当は、それが支部のリーダーさんに問われているものです。ちゃんと富を引き寄せる、発展させるようにある、ことは、その下地が必要になります。活動して展開していく「同志」を富を引き寄せるように、互いに研鑽する必要があるんです。

これを「訓練」して、どこか違うところでやれば、「会社」がおこせます。私は「家庭ユートピア」を作っている最中です。私は、「自分」という立場を捨てました。私は「娘」だけど「娘」という気持ちを捨てました。「妻」という気持ちを捨てました。心の甘えを捨てました。

でも、現実はいたって普通に動くので、「娘」であり、「妻」です。
でも、どれだけ罵詈雑言を言われても、相手が不幸になる考え方には、真っ向勝負、ひくことはありません、言い切ります。後は、相手が決めればいいことです。

(おおよそ、外ではできません。そんなに私は愛が大きくありません。)

私の話は、難しいこともありますが、その難しさに付き合う必要はないかなと思います。ただ、マニアックなだけなので。マニアックなことが、一般的に「求められる内容」でもないです。それに、私がはっきりとわかったことの向こう、だってあります。その向こう、がシンプルに伝えられないってことは、私の理解が浅いからです。丁寧に解釈してそのひとに合わせて伝える、が私の目標でもあるので、それでいいです。その過程を楽しんでいます。間違いを恐れていません。

そうしたことを楽しんでやれることが、早い「引き寄せ」の実現になります。


だから、自分が得たい、富の引き寄せってなにかな?って一度考えたらいいと思います。

多くの「引き寄せ」体験を聞いてきました。あっと驚くようなありえへん「金の引き寄せ」も聞いてきました。でも、それは、「なるほどな」と思うことが多かったです。多いのは「遺産」ですし、見ず知らずの方から「大金」をもらった話も、顔を見て聞きました。忘れていた保険金の話や、定期貯金の話も聞きました。親戚筋からいただく、もありました。

でも、その「引き寄せ」は、一時的なものです。

もちろん、私にも起きました。でも、その引き寄せは、私にとっては、自分だけが難しいなって思っていたラインで、「こだわり」を捨てたから実現した、だけのことでもありました。自分が決めるんじゃなくて、主が決める、だから、ひとが与えて「実現」することも受け入れました。

これは私にとっては、とても、苦しいことでした。私は慈悲魔でもあったので、ひとから「与えられる」ことに苦手感が強かったんです。プレアデスの多くは、たぶん、苦手だと思います。(まっとうに努力ができるプレアデスだけに限ります。)

簡単に言えば、富の引き寄せ方って

○光をもらうこと
○自分へは指導を受けること
○全託すること

このすべてです。つまり、祈りの実現、です。そして、それが常態化して、常に起きていることを指します。

よおおおおおく、考えてください。無限の富って、なんだと思いますか?根本仏のことなんですよ。だから、無限の富を宿す瞑想法、って根本仏と魂が直結した状態に常にある、ってことなんです。

それは、実は、みんながそうなんだけど、信仰の深さに寄って、常態化しているか、部分的か、での差はあると思うんです。だから、実は「精進」そのものと「与えたいこと」の本質が、ちゃんと慈悲と救済の原義にそっているか、という点は重要なんですよ。

しっかり精進している、信仰しているひとは、「仕事」が楽すぎてつまらない、と言います。それは、主から与えられて守られているからに違いありません。そこまで来たら、ちゃんと恩返しする、ことが次の新しい自分へのステップになるでしょう。

そう、富の引き寄せは、富が増幅するだろう「未来」のために、あります。

だから、「エル・カンターレへの祈り」の3つの祈りは、かならず必要です。