らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

おなじみさん

おなじみさんにも強さ、弱さ、がある。

光一元論でいうと、悪霊は弱いとは言えるが、念力だとか影響力だとかを基準にすると、凶悪さをとって強い、とも言える。

でも、その影響力の強さというのは、「神を信じた深さ」があって裏切られた想いをもつものほど、強い。

おなじみさんをどうにかするまえに、かならず、通る道がある。


まず、子孫たる私達の心の精進。

これで、思想が明るくなってくると、暗い思想がだんだんとわかってくる。

身の回りの方の思想を明るくしていくと、だんだんと、明るくならないひとがいることがわかる。

その明るくならないひとがどうしてなのかな、というところに憑依がある。


さきほど、原因がまさかの霊体質だったY君の話をしたが、ピンを探す段において、なぜ、その波長同通してしまう執着があるのかという「特徴」が見えてくる。その特徴をこちらが理解して話をすると、諦めに近い「納得」が起きてくる。

その「納得」があるからこそ、解決に至りやすい、「気をつけること」がわかってくる。最終的に、解決に至る力を持てるまでには、努力が必要だ。でも、そのひとによって、必要な「努力」というのは、特徴によって違うので、比重をこちらにおいたほうがいいよ、とかって言うメンターはあってもいいと思う。個別指導塾がいいか、集団授業がいいかの違いでもある。


で、どこにもつけなくなった「祖霊」は、かすかな縁にしがみつき、入る瞬間を今かと狙って、入れる状況をつくり、外側からも影響させて、自分の苦しみを、訴える。また、つける状態をつくろうと躍起になる。

このときに、起きてくる現象をとって、癖だとか、言葉とかをとって、祖霊を特定したら「直撃」して黙らせることはできる。でも、家系そのものに、光を浴びてもらうがごとく、時間をかけて、仏の光を照らしていくという作業は、継続して行わねばならない。

その上での直撃、である。直撃された魂というのは、「凶悪さ」を出すので、こちらはそれで光で対応するだけあって、「攻撃」しあっているように見えるかもしれないが、「攻撃」のようで、攻撃ではないのだった。

愛する、という攻撃だからだ。


霊的な影響を受ける私は痛みを伴うので、見事に「反撃」をしがちだ。霊体をまっぷたつに切られたら、誰だってそうなる。精舎に行くまで、その切り裂かれた腕や、内蔵がでてしまった霊体をかかえて仕事をする。

(心配しないでほしい。こうしことは稀だ。)

ちなみに、こうした霊体になってしまったときは、タンカをもって天使が迎えに来る。私が精舎に行くと眠ってしまうのはこういうことが理由だ。天上界で「治療」しないといけないほどのことになっている。

仕事の付き合いで深くお酒を飲んでしまうときなど。周囲にいたお客さんの目が魔の目をしていたのにもかかわらず、私は、お酒が大好きだったのと、当時やはり、私の「病気」だろうとしか思えなかったので、楽しく飲んだ。その後、3体ころころと私の体にでたりはいったりして、遊ばれてしまった。

家族はそれを体験しているので、私が酒を飲むことを嫌がる。私の方も、もうこりたので、酒を飲むことはない。そういうことが起きると、その後、はずれても、「霊体は損傷」したままになる。

逆に、救済をしてくれ、と掴まれるときも霊体がぶつぎりになる。生きているひとならば、こちらを特定することはできるので、その生きるひとが暗い想いをもったまま我慢していると、いきなり私の霊体をつかむ、ということはある。その霊体は、掴まれただけで、光が散るようにして、切断される。

だが、こちらの保有する光が圧倒的だと、あちらが回復するまでに十分な光を提供するので、「安心」という作用を与えることができる。どちらにせよ、精進が浅い自分の責任である。光を付帯すればお互い楽だ。そもそも、仏は光を「無限に提供している」。いつでも。見返りはもたない。必要なのは、仏への感謝の想いの濃さだ。つまり、与えるほどの光を付帯できないのは、「仏への感謝」の時間と濃密さが足りないというだけなのであった。

まあ、知覚しないひとは楽だろうな、と思われる。が、私のように、むやみやたらに知らない霊をいれることはないにしろ、祖霊をいれるのは普通のひとでは頻繁である。もっと言うと、祖霊は私に入りにくい。

そもそも、家庭ユートピアのそれは、祖霊の思想と私の思想で喧嘩している状態かもしれない。

喧嘩しているつもりはないんだけど、あちらはものすごく怒っているのでした。だから、直接お話して、わかってもらうのがいいのだけれど、それをやっている自分は「とてもへんなひと」だし、やっていことだとは思わないので、避けがちである。

(いや、人間関係の調和の瞑想があるということは、それはやったほうがいいことかw)


祖霊が落ち着いてくると、今度は生きているひとのほうである。生きているほうの家族に、先祖の思想から、仏法真理へ導くようにお話をしていく。それで成功があると、目をキラキラしてやばいことになる。

私が電話してようがラインしてようが、母があれこれでこうなった、そうしてこうだった、と成功したそれをとって、信じられないわ、と奇跡よるんるんみたいなことを話し続ける。そうやって、いつのまにか、自分で精進を重ねていくのであった。

私はそれをめっちゃ聞き流して、自分の反省行やらなんやら、細かい作業をしていくのだが、母はそうではない。かなり、ざっぱな反省しかしない。こういうのを見ていて思うのだが、レプタリアンとプレアデスだな、と思う。母は、ゴリラ型だと思う。あれは、間違いないと思う。

で、そうやって、家族がなんかひとりでそちらに行くような渦がでてくるといよいよ、おなじみさんが顔をだしてくる。このおなじみさんは、ほかっといても、家族や祖霊をキレイにしていくと、「指導霊」にお願いすれば連れて行ってくれる。

ここでようやく、家族の心の原因に、反省が終わっていない場合だと、それが浮き彫りになるような出来事が起こる。いままで、同じような出来事が起きても『違和感」がなかったのに、それが衝撃的なことのように「感じられるのだ」。

それは祖霊が祓われて悪霊が祓われて、ようやく、仏の光のもとに、「自分」が照らされるからだと思う。そこでようやく、ひとは反省ができるのだった。



だから、伝道とは、そういうことで、とにかく、光をおろしていく、という作業が必要なんだよ。
めっちゃ大変じゃんと思うかもしれないけど、今の話を全部忘れてもいいから、


家族の神の光が流れる祈りを毎日して、
自分の精進を続けたまま
家族に感謝をしつづければ

それだけでいいんだよ。
きっと、その過程で

先祖への光が流れる祈りをして
自分の精進を続けたまま
先祖に感謝することも


素直な貴方ならするだろうから。