らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

法雨について

フロンティアさんが、法雨を私がだあだあと流しているとブログに書いてくださったので、涙について書いてみる。

 

もはや、私はブログではなくて、何か、違う書き物だとは分かっているが、手軽なので仕方ない。

 

経典に書いてある法雨がどのあたりを指しているのかわからないのだが、これは法雨だろうと思われるもの、がある。

(安易に、これが法雨だろうと定義すると後で整合性が合わないことはよくあるので、気をつけて読みたいもの、だ。)

 

これについて、三帰、三帰してないにかかわらず、小一時間、とめどない涙を流して、どうしようもとまらなくなっている人を何人か見守ってきた。

 

私自身の最初の法雨も小一時間とめどなく涙が流れるものの、一体なぜ流れるのか

 

悲しいのか

嬉しいのか

悔しいのか

切ないのか

 

どんな感情で流れるのか全く判断がつかないまま、身体が反応するように流れて仕方ない様子であったため、見守れた方々には、後からどういう気持ちで泣いたのか聞いてみることにしている。

 

たいてい、感情に名前がつけられず、衝動が抑えられないことに関しては、共通していた。

 

三帰者については

 

あるひとは、毎日の日課である、お経を読んでいたら、突然始まって、怖くなって何が起きたかを確認するために連絡があり

 

あるひとは、テレビを見ていたら、いきなり涙が流れはじめたと言い

 

あるひとは、守護霊に感謝を深めるワークを自宅で行うのに私が寄り添っている最中に起き、

 

あるひとは、信じられないくらい止められない自殺衝動に耐えた(言うまでもないが悪霊や悪魔憑依)先に起き、

 

あるひとは、、、

 

 

と言った具合であった。本人に泣く理由が見つからないこと、が共通であった。

 

 

三帰してない人で泣くことになった出来事では、私が、経典で言うところの布施にあたる何かを、会話の中で行い、魂にささった棘を抜いたのだとは思う。あまり詳しくは書けない。

 

 

そののち、思考をするときに片目から涙が出ることが続き、不思議に思い、何人かに法施をするときに流れる涙の左右の別をケースデータとしていくつかとってみた。

 

与える愛に関しては右

自分の反省や気づきに関しては左

 

といった具合に、受け取った反応がそれに如実にあらわれていた。心の動きとして、話の理解のキャパがそれで測れるという具合にある。

 

ただ、こうした反省や発展への志で流れるものが法雨と言えるかというと、あまりにも小刻みな気づきや意思のあらわれに思える。すぐに他の視点で同じ問いが課題として出てくるため、法雨といえるような、そんなふうにたいそうなものか、と思えたりもする。

 

ただ、こうしたことが頻繁に起きる人というのは、自分の心を守ろうとしてはいない、のは確かだと思う。自分の心があけすけであることに、なんら、躊躇がないのは確かなことである。

 

自分の心があけすけだと、怖くなるのは普通である。自分に後ろめたいことがあるから怖くなるのではなくて、現実生活で、家の外を裸体で歩くような怖さと同じだと思う。

 

何からも守ることができない。

 

このあたり、霊的な人というのは、心の世界というものは、死んでしまえば、いや、死んでしまわなくても、心にプライベートなどはないと早くに知るので、衝撃はひどいが、その後、精進は進みやすい。

 

魂の修行、という心の自己変革を前提として精進する限り。

 

簡単に言うと、自分がひとのあれそれが分かるなら、

 

他の霊能者さんからも自分は知られるものだと分かるし(当たり前だ)

 

神様から見たら、どのひとの心もあけすけにわかることも理解してしまうので(当たり前だ)

 

自分の心のありのまま、がひとに知られることも怖くなくなるし、神様に知られることも怖くなくなるし

 

だからといって、神様から見たら、基本的には、もう汚物まみれがデフォだという事実も消えないことも早くに知る。

 

この自分は汚物のように未熟であることを受け入れながら、学び続ける志を持つことに関して、他者は何人も介入はしない。

 

(自分の心の実相を気づかせるため100パーセントで、他者はあるだけ。)

 

だから、ことさら、厳しい修行にはなる。

 

 

(法雨を流す前に、霊的な感覚が広がるのはあまりないと思うが)

 

何からも自分の心を守ることができないことを知ることと、その心を愛してくれる仏を信じきれる精進が臨界値まで積まれたとき、

(エネルギーとして)

 

魂の奥底で仏とのパイプが開通して、内側から光が流れたとき、爆発的に魂に光が流れ、溢れ出す光を魂が一定の量、霊体、幽体に流れこめば、

 

肉体に付着している霊体のチャクラを通過して肉体に流れ込み、肉体に影響を及ぼして、病が治る理屈と同じことで

 

目から涙が流れる。

 

このとき、たいてい、リラックスしているもの。たとえば、我力になる自力を手放して他力に任せる感覚、

 

一生懸命やればやるほど手離せない自我力という努力を、

 

自我力をやめてしまう不安と恐怖にたたかいながら、

 

 

どーなってもいいと思うような自暴自棄も超えて

 

無になったときに、いきなり訪れるもの、だから、

 

 

実は、基本的に、何をしたか、とか、何の研修を受けたかとかは、あまり関係ない。

 

それが引き起こされるまでに、もちろん、思慧や研修、祈願などの精進はもちろん積み上げで必要とはする。いや、心の実践の精進がものをいう。

 

ただ、それは、あけすけ、はキーワードだとは思う。あけすけになるしかない理由や覚悟は、ひとによって違うだろうとは思う。

 

例えば、私の家族の場合は、私が霊能者であるために、そうした世界が真実であることや、今いまの自分の実相を、客観視できなくても私によってさらされてしまう。

 

さらされるだけでなく、自分の身近な人のすべても明らかにされながら、課題が何かかもつきつけられ、その課題が滞りなく進むように、研修と祈願を勧進され、その上で、適宜、法施をされてしまう。

 

経典を読んでいても、御法話を聞いていても、自己都合に解釈しやすいと、人の話を聞いていてよく思う。

 

その人から聞いた話のデータと、その人が分かる目に見える形の出来事をとって話をされるとき、だいたい、どんな人でも、2歳児のようにクソミソに反撃してくる。たいていの人は、光が足りていないからだ。だから、そゆことはほとんどしないが、家族においては、あてがうべき法知識が足りていない場合があり、頻繁に起こる。

 

そうした意味で、何回も何回も同じ話をされて、とうとう観念する、ことは、私の家族にはある。ちなみに、私からわざわざ話をしているわけではない。

 

このあたりは、聞慧の亜種であり、法雨が引き起こされることは、まずない。

 

法雨とは、思慧作業から仏に繋がるあたりだと思われる。魂の意識体がゴールドに変わるから涙が出る反応だとするならば、聞慧の段階では魂の意識体が光ることはないからだ。

 

聞慧の段階では、積極的な光の浸透にはなっていない。外側から光があてられるような感じだ。

 

思慧とは、聞慧で知った法を基準にして、仏と自分しかいない世界で、仏の心を理想としたときの、自分の心のふりかえりである。

 

(それに寄り添うことはある。それは、確実に、ロジャーズのカウンセリングマインドで行われる。だから、折伏だとか兜割りだとかは言語道断だと思う。もしやるなら、菩提心がある2歳児の無知な反発に出会うときだ。)

 

他者の存在は、自分の心をあらわにするための素材なので、他者を判断したり評価することは、反省ではない。

 

評価が内包する場合もあるが、それは、自分の評価が間違っていたか、適切であったか、という点と、その上で何を思ったか、どう対応したか、という所にあり、結局は、自己研鑽に伏していく。

 

自分が愚かであることを知る、のは、本当にきついが、それはだいたい通過しているとは思う。仏が偉い人だから、ではなくて、仏の愛の前で愚かさを知るといった具合に。

 

あと、私が導いた方々には、よく自分を観察して報告するように伝えてきているので発見されることが多いだけで、もしかしたら、フロンティアさんも法雨を流している可能性は高い。

 

テレビを見ていたら涙がとまらなくなった人については、本人に根掘り葉掘り聞いて、私がそれは法雨だと言わなかったら、本人は気づかなかったと思う。

 

 

テレビを見ていて泣いたから、テレビの感動シーンに泣いたのだと勘違いしていたからだ。

 

もし、今後、彼に何かが起きて、退会届にサインできたら、それは法雨ではない。だが、しかし、聞き取りにおいては、それは法雨だと思われる。

 

だから、法雨なぞは、いつ、起きるかわからない。

 

心が、しかと、仏と波長同通して、光が流れ込んだとき、だから、心のそれを誘発するキッカケが、日常のどれか、であることも、まま、ある。

 

そして、体調が悪かったとか、いろいろで考え違いして認識することもあるのでは、と思う。

 

研修中に、人の眼が気になる人は、仏と自分の対話になることが難しいので、仕方ない。

 

研修や祈願の数を増やして、思慧作業を進めたらいいと思う。

 

積み上げずに、進むことはないと思うから、何かで積み上げていきたいと肩の力を抜いたまま、私も重ねているのだ。肩の力は抜いていく、のも大事だと思う。

 

 

本当が一体なんなのか、なんて

生きているうちに分かるとは思えない。

 

だけど、仏がどんな想いで世の中を見ているのか、想像して、悲しみを覚える。

 

昨晩、ゴリ子と話をしていて、

 

愛する人の奪う愛をよく知って、動物の心が現実生活ではどんな表れかがわかった上で

 

その影響を受けてきた自分自身の、自分がその人にいじめられないための無意識にある手立てを明らかにして

(その手立てが自分を不幸にしてきた

 

自分がそれに対して何もできないばかりか、自分がそれに気づかなかった愚かさを受け入れたとき、

 

悲しみが胸に広がってね

 

ああ、仏の悲しみとはこんな感じかなあと。

 

 

愛する我が子の苦しみを知ったときに、こう悲しいのだろうと思うんだわね、と

 

私達ができることは何一つないと。

 

 

ちなみに、映画の音楽体感研修で泣いたのは、パングルの恐怖に向かう勇気のあたりで、自分に似た状況での恐怖を具体的に考えていて、怖いんだよ、怖いんだよ、って共感して泣いた。

 

自分の状況をあてはめないで泣けることはないと思うし、

 

(神様だけを思って泣くなんて、乖離しすぎじゃないかな、ちょっとした集団ヒスにも感じる)

 

やっぱり、自分自身の心のことをあけすけにして、法どおりに考えてみるから泣くんだと思うな。ただ、それが法雨なのかは、わからないな。

 

最初のパイプ開通時の涙は法雨だと断言するくらい、よくわからん現象と思う。それだけが法雨だというなら、私は一回だと思う。半年後にためしが来てるけど、そのためしが本物なら、もはや、何をカウントしたらいいか分からない。

 

(信仰の確立みたいなものならためし後だろうから。このときは咽び泣くことはない。静かだった。涙というより、胸が軽くなった。)

 

 

泣く、という現象だけに囚われると、たぶん、ズレてることがたくさんあると思って、書いてみた。集団ヒスが、法雨を語るなかに存在するかわからないけどね。

 

現象にとらわれてしまうと、起きていることが正確に判断できなくなることもある、という話でした。

 

私は、まだ、幸福になる最中でございます♪