らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

死役所


主人はよくアマゾンを見る。私がブログを書いているとき、シリーズものを見る。書いているときに見ていたのがこれ。見ていなくても、セリフは聞こえるもので、そのはしばしから、「なんだこれ」と。

フィクションなので、仕方がない。でも「死後」を扱っている作品なので、どうしても気になってしまった。セリフだけでも、うーん、と思うことが多い。ブログに書いてみようかな、とシリーズを見ていたが、だいたいわかった。作りはおもしろいし、キャスティングもいい。いろんな人生があって、自分の死を見つめるところもいい。

でも、真実は違うので、そのところを書いてみようと思う。だからって、作品に携わる方々の技術うんぬん、を問うものではない。

○役場のようなところはある。

なんと、あの世には、あんなふうに「役場」仕立ての相談処がある。ずらーーっと行列がいくつかあって、おとなしく並んでいる。並んでいるのは「生きているひと」である。

その「生きているひと」がなぜ、並んでいるか。「悩み」を抱えていて、その「悩み」を相談し、自分の行き着く処というものを教えていただける、からである。どうして並んでるかわからないけど、みんな並んでるからとりあえず並んでる方も多い。

役場のひとは、ブラックスーツを来ていて、業務的に話を聞き取り、その内容から相談種別をわけ、案内する。その案内された窓口で、「これからどうしたらいいか」を指導受ける、という算段である。

その「悩み」は、自我がでてきて、目の前に起きることについて、自分の感情と折り合いをつけながら自分で解決を迫られる「中学生」くらいからのもの。それは、「唯物」的な視点から、自分や周りを否定して、どう改善したらいいか等、不幸現実のなかでもやもやした自分をどう位置づけるか、を悩んでいる方々である。

電話したら、その悩みを延々と話続け、解決する手立ても全否定し、もやもやと愚痴が続く人がいる。その、ことはじめ、がそこにある。

役場の職員は、当然ながら、「悪魔」である。どんなに相談者が不遇かを「共感」する。共感という脚色を使い、その人自身を肯定するように、敵味方を仕立て上げる。いかに「悲劇のヒロイン」かを、役場の職員が言葉で、脚色するのだった。

(これは、寝ている間に行ったあの世探訪記のひとつです。)

ええ、私の指導する子がそこにいました。なので、現実で、なにか悩みがあるのか、と私は聞きました。そしたら、彼女は、「なんで、わかるの?」と言いながら、延々と話を続けました。その姿は、「彼女らしくない」変に大人びたため息のつく女性、でした。なので、話のそれを具体的に解決しながら、彼女自身の心を伸びやかにする時間をとりなさい、と伝えました。

その「不満を言う体質」の発生場は、彼女ではなかったので、その不満体質の元凶はすぐに見つかりました。でも、その元凶もまた、そとの場所から植え付けられた「不満」発生者がいたのでした。

現実には「不満」が出ることは多いです。でも、その「不満がでるような出来事」へどう対応するのかは、そのひとの心が決めます。つまり、ストレスの高い場面でも「不満なし」に乗り越えるひとはいるものです。現実の出来事へは、知性、が解決することもありますが、心、が解決することも、また、あるのです。

「不満」を押し止めること、「不満」をまきちらかす文化をひろめないこと。
「希望」を考えること、「希望」や「安心」を見る文化をひろめること。

○天国と地獄とさまようところの判別が違う。

天国へ行くか、地獄へ行くかは、自分の心の行い、つまりどう思って生きてきたか、とその結果つづけてきた行動に寄ります。なので、あのように、瞬殺、で決まるものではなく、複数の目でみたときに「感動」を起こすようなものであれば天国に行きます。こだわりを周囲に迷惑をかけるように心と行動でまきちらかしたときには、「地獄」に行きます。「知性」にこだわって、ひとの心を傷つけても、行くでしょう。

つまり、心を傷つけたか、否か、の視点はとても大事なんです。でも、それならその状況をどうしたらよかったのか、という不満もでてくるでしょう。いつだって、「どうしたらいいかわからない」状況とはあるものです。だから、他者という「助け」を得る機会が、私達にはあります。


これなんかは、うまくできているなぁと思います。自殺者って、現世にいるんですよ。死んだことがわからないでいるので、何回も自殺という行為を、霊体になって繰り返します。気づいたら、また、生きている状態になっているので、何回も繰り返します。自殺者は、自殺という罪、というよりも、「死んだら苦しみもなくなる」と思っているので死ぬわけで、その結果、「死んでも自分が存在している」事態をとって、死んだとは思わないのです。

なので、「導き」の霊がきても、「気づけない」。これを延々と繰り返します。

現在では、交通事故や病死も「自殺者」と同じことです。「死んだらおわり」「なくなる」といった唯物論的な思想をお持ちの方は、「死因がなんであれ」、まず、「自殺者」と同じ状態に陥ります。

なんかいるな、と思って話しかけたことがあります。交通事故で助手席に乗っていた女性でしたが、事故前後の記憶がまるでないようでした。なので、「貴方は死んだですよ」と言い聞かせ、質問して思い出してもらおうとしました。彼女は、死んだことに「納得したくない」ので、納得する直前に、愕然とした顔をしたまま、消えます。

「そんなわけがない」とよぎった瞬間、私の世界を否定するので、軸がかわります。そして、私が見えなくなると、私の言っていたことを完全に忘れ去り、また、さまよい続けるのです。怖いか、と言われば、見た目は、生きていたときと変わらない姿なので、怖くありません。「唯物論」者で死んでいる方は、おおよそ、「自分が在る」ということは「生きている」ことを意味するので、「生きている自分」の姿をとります。

死んでいるのか、生きているのか、がわからないくらいに。
(肉眼で見えたら、わからないでしょうね。)


思いとはそういうもので、自分が信じたいように霊は「存在し続けよう」とします。でも、目に見えないあの世の世界、はあるので、あの世の世界に「不適応」を起こした状態に陥ります。

自分の考えにない思想や、見方は無視する方は、要注意です。


それをあの世の実態にそうように、「納得する」まで待つ、アプローチをするのが「天使」の仕事です。でも、「天使」という方々は、あまり賢そうにもしないし、えらそうにもしないものです。彼らは「無垢」で「純粋」で、まるで、子どものようです。

私が霊体が損傷して、精舎で倒れこむようにして寝るときは、「治療して」と思ったからか、タンカをもった救急救命服を着て、白いヘルメットをかぶった、「それらしい」方々がいらっしゃいました。ヘルメットの頭の上には、救急車についている赤いライトと同じものです。ピーポーピーポーというサイレンは、まさかの「天使」が、口で、自分で鳴らしておりました。

「うそだろ」
「それはない」
(入眠する直前、私が心でつぶやいた言葉です。)

確かに、唯物論者の方々の対応をするには、「それらしい」格好をして、落ち着かせて、話をして、納得させるまでのスローな時間を一緒に過ごさねばなりません。でも、それでも、その格好は、ちょっと馬鹿にしているのかってな具合です。でも、仕方はないのです。彼らは、そういう「感覚」で存在していないので、「なりきる」ことも難しいのです。救急隊員の天使なら「なりきる」ことはできても、ここ20年30年お亡くなりになった方がすぐに天使の仕事ができるかというと、相当な修行者だと思われます。

「幼稚園のお遊戯」のような天使は、そんな憮然とした私の心でも、タンカにのって連れて行ってくれました。天国は光しかないので、視界としては「ホワイトアウト」。つまり、意識を失います。起き上がりは、いきなり目が覚めて、一瞬のようで、「好調」な体が手に入ります。

また、地獄に行っても、だいたいのひとが生前生きていたときの「心の様子」の世界なので、たいてい、とても「過ごしやすい」世界です。当たり前というか。しかも、相手は自分と同じなので、腹が立つようなことがあっても、自分の姿、を見せられていることになります。おそらく、ずっと、その仕組に気づかないでしょう。

この世ではいろいろなひとがいるのに対し、自分と同じ心のひとしかいない。いろんな出来事があるから気分転換もできるが、ここでは、自分の心を占める「苦しみ」から完全に逃げられないのです。

そして、いつのまにか「居心地が悪い」「飽きた」という気持ちになります。
(浅い地獄なんかはそうです。あまり強烈なひどいこと、はありません。整形手術に執心する世界、もあります。)

そこで、仲良くしていた、もしくは憎しみ合った、いろんなひとから離れて、ひとりになって、違うことを考え、「本当の幸福」を想い泣き始めると、天使がよってきて、一緒に天にあがります。

だから、あの世に入る前に、あんなふうに、「納得」もないまま、行き先に着く、ことはありません。自分の人生を、「遺したひとを考える」ようにふりかえったりはしません。それは、まだ成仏もなにも、この世に幽体がある状態です。あの世では、「幸福になるために何を考えて、どう生きたか」を問われます。それで、行き先が決まります。

そのあたりの答えはないにしろ、あの世の世界、をよく描けていると教えてもらったのがコレ
いや、実にうまく描けていると思います。最後に奥様を救うあたりが、まさに。

天使が地獄へ行き救済をするときのそれ、と同じです。
でも、知り合い、が行くわけじゃないんですけどね。

反省。そんななかで、希望や愛、夢、幸福を思い出せたら行けます。
(神様が示すところの、普遍的なやつ、です)

さて、死役所の最後のあたりにでてくるカルト集団「加護の会」

こえええw
こえええええよw

多くの意見、視点から見る自分を研鑽する、だろ。
それをするために「喧騒」から「静寂」な場にいって、修行する、だろ。

まず、心がかきみだれてパニックになるひとは、「静養」だろ。修行するな。


きっと、唯物論から見れば、宗教はああやって見えるんだろうのひとことにつきる。あれは怖いww
宗教って心磨きをやるんだけど、「自分の内面に向き合う」っていうのがそもそものところだと思うんだけど、自分の内面に向き合うことをやめて「ひとの内面をさばく」となるとああなるのかな。

よくわからん。

絵の具を食べる子も、適切な対応が必要だったと思うし、何より奥さんのあのメンタルの弱さ、も意味不明。もともと精神が弱い、自己解決能力も低い、ではなかろうか。子どもをひとりにして出かけるのも理解できん。

その前に、母の仕事道具、片付けろよ。そんなところで、子ども育てられるかw

いや、フィクションだからそういうところに目を向けてはいけない。お話の主張、を汲み取るものだ。素材やセリフすべてで、意図を汲み取るものだ。でも、たぶん、あれは、霊的感性があるのにもかかわらず唯物を生きてる、ではなかろうか、と思うのでした。

アダチはああいう役が似合うなあ。

誰かに、自分の責任をとってもらいたいひとの成れの果て、ですな。
自己責任の「心」で生きる厳しさ、を問うものが本当の宗教だけどな。

そしたら、気づかなかった
助けてもらっている現実、助け合う現実、がわかってきて、
家族に感謝することが結果としてできるのが宗教。