らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

妹の状態ー私の答え

まず、貴方がどうにもならない状況にあるのは知っていた。でも、私自身がしなければならないことがあって、それで頭がいっぱいになっているからこそでもあるし、裏がとりきれていない状況で、○○の資料だけをラインで伝えることしかできなかった。

それでも、納得したろ。

イベントに連れて行ってくれるのも貴方だ。私は今それどころじゃなくて、○○と○○を考えなければならない。それをどうやってやったらいいかを思案中だ。そんな状況で、貴方のアイデアそれは、素晴らしいものだ。

そして、もう判断ができるはずだ。その判断はおおよそ間違っていない。欠点を見たくなくても、その欠点がわからなければ、支援することができない。保育士をやっている貴方なら分かるだろう。

その保育士での経験から、「悪い子」はいなくて、「支援」が必要なんだと知っているはずだ。それとおなじくして、悪霊だって「傷ついていて支援が必要」なだけだ。ただ、調整する必要はある。

こころのそれと現実は必ずしも一致していないからだ。

こころのことを知るとおおよその判断がついたとき、その基準でもって、ひとを見るなら「欠点」しかないだろう。それは、貴方が精進してきた証でしかない。

そのところを携えながら、現実が一致しない状況をとって、一致させるように振る舞うことは愚かなことだ。そこに「漏尽通力」と呼ばれるところの調整力が必要である。それは「謙虚」である、ということであって、「与えようと思って与える」わけではない。

それができないからこそ、もがいてきた私があったのを知っているだろう。やり方がわからなかったからだ。でも、貴方は私を見て、一定のモデル、とその行き先を知っているはずだ。

わからなかったからこそ、どうしたらいいかが、現実でわからなかったからこそ、おおきく振り幅をとって、堕ちたり上がったりを繰り返している私を見ていたから分かるだろう。

そして、欠点を見る、ということは、どうしたらいいかというと、相手を低めて自分を褒めるようなことを天井とするものではない。その先にあるのは、「与える愛」の実践である。

その与える愛というのは、自分が与えたいものを与えるものではない。それは、勝手に自分が与えたいように与えているという自己中心性の強いものだ。

だからといって、ひとが欲しがるものを与えるものでもない。それは相手の欲に従って、一時的に満足させることであって、それ自体に何ら「正しく与える術」を持たない。

ただ、「与える」とはどうしたらいいかというと、過去の自分を救うことと同じなんだ。そうしたとき、どういうことがあるかというと、潜在意識で「与えられなかった」自分がせりだしてくるはずだ。

うんこを食べる夢を見たと言ったね。
(妹はこのブログを読んでいないので、読めと勧めた。)

ひとから間違った基準を与えられてそれを基準にして生きていたものが執着だ。その、基準がどうやって与えら得るかと言うと、それが正しいと思って傷つくことで執着となす。だから、ヒーリングを積極的に行うことだ。

(そこまで言って、妹は、ああって言って泣いた。聞くところによると、なにもやるきがなくて惰性でご法話を聞いていたら、光をおろしてくる、という話が大きく聞こえたそうだ。そう、ご法話はかけながしておくと、今自分にひつような言葉は、なぜか、おおきく聞こえる。そのうち、その大きく聞こえる御法話を探すのが困難にはなるが。)


そのヒーリングをしているから、口からうんこを吐くんだろう。それは間違った考え方を飲み込んだからだよ。正しいことがわからなかったから、のみこんでしたがったぶんだけの記憶という意識体が、潜在意識に「刷り込まれているから」よくわからなくなっている。

その潜在意識を積極的にヒーリングしなさい。

(ヒーリングのやり方を教える。バター瞑想ではなく、天上界の光の柱を太くするように、大きくしていくやつ。オートマティックに自浄作用を常におこしていくやつ)


心の距離は思っているよりも離しなさい。この前、貴方は私の心に寄ろうとした。そうすることはやめなさい。自分にたつ光の柱を太くしなさい。三次元があるのだから、肉体をもっているそれで、コミュニケーションをとりなさい。そこで、しっかりと、正邪を判断するようにしなさい。

劣っていること、優れていることというのは、誰にでもそうやって「在る」ものだ。それを仏のために生かすからこそ、善となる。悪となるものは、仏のために生かさずに、自分の考えのなかで、自分の思うように与えようとするそれにある。それ自体が実際に、相手のためになるかどうかなんて、わかりもしないのに。

現実のちからのことを言うているのではない。そんなものは、この世での戯れであって、ツールではあるが、ツール以上の働きはしない。


実際、貴方の力と私の力は違う。私は方向を示したかもしれないが、それには実は、愛が必要だった。光が流れ入る磁場が必要だった。その磁場を作ったのは他でもない、貴方だ。貴方がつくる磁場がなければ、その方向に向かう気力は、ひとは持てないものだ。

方向もわかるようになってきた今、私もできることが少なくなってきて、そのできないところを貴方がやるようになる。それは、貴方が劣っていて、私が優れているわけでもなく、私が劣っていて、貴方が優れているわけでもなく、どちらの精進にとっても、それが必要だというだけなんだよ。

それと、「与える愛」については、自分が考えるところのそれを与えるわけではないことは、この前の研修でも感じた。同じような体験をしているひとはいるもので、たいていのところ、それは、仏を信じて、仏の教え通りに努力して、仏の教えが指し示すところの反省をして、そうして、穏やかな気持ちになってきたところに、ふと与えられるものである。

その与えられるまでには、なぜ、自分が望んでいるものはこれなのに、これをやらなければならないのか、まったくわからない、というような状況が続く。

けど、人間が計画するところのそれではないものを仏は与える。順番がまるで逆なんだ。これができるようになったらこれをしようと考えるが、これをしようと考えたことを先にやらされる。それはつまるところ、宗教的な精進が先で、その精進をやって本当に与えられるとは思えないのに、

与えられる。しかも、最高の形で。


わかっていてもできないのは、私を見ていてもわかると思う。貴方のそれも、私は経験した。

まずは、怒れる。欠点がわかるようになってくると、怒れる。けど、それには、相手の立場にたって、そのひとの気持ちを考えれば、理解できるようになる。ここで、宗教をかざしてはならない。よく見てきただろう?

そんな光も与えられない、悪霊が憑いている、考え方も触れたことのないひとに、どうやってそれがわかるというのだ。だからこそ、私達がまっさきに行うのは、祈りばかりである。そして、自然体に自分はそこにいて、いるだけで祓うように、「時間」を使う。その時間が一定に満ちれば、自ずとそちらに向かう。

貴方は見てきただろう?○○ちゃんは、私と仲良くしていただけだ。私はとくに何も法施すらしていない。彼女の過去の話を聞いて、具体的に、それは憎しむようなことではない、として、その状況にあった過去の自分の周囲の立場にたって理解させただけだ。それがごく自然に、自分が反省でやっているからこそ、そうした質問をするし、そうしたところに悪人はいなかったとして、質問することができる。

もし、そこに善悪を用いて、彼女の話に同調すれば、彼女は「ゆるす」ことはできなかった。でも、「ゆるす」ことができたのは、現在の彼女に光を流し続けたからだ。彼女を理解して、彼女の立場煮立って、彼女の気持ちを代弁したからこそ、私が言わんとするところはまったく違うのに、私の言葉をとって、お門違いな意見すらした。

そういう、安心して、自分をさらけだす場所を、少しだけ、与えることができたから、彼女は自分を振り返るまでの余裕ができた。最初から答えがあって、そのとおりだと思って改善することができるひとなんて、いない。

自分のやり方や、自分の考え方が通用しない、いろんな考え方がある社会のなかで居心地の悪い気持ちになっているひとばかりで、そんな余裕はない。だからこそ、自分のやり方を捨て、自分の考え方を捨て、仏の光をたなびくようにして、ただ聞いているだけで、相手が解決にいたる、ときは、相当に、自分の反省が進んでいる証なんだ。

そういうことは今までにも起きているはずだ。それを自分がやれていないと思うなんて、自分への公平な評価ができていない。その公平な評価ができないところに、うんこを吐き出す潜在意識の貴方がある。それをすべて吐ききったときに、最初のその心に決めたなにか、嬉しかったなにか、その後傷つくようになっても捨てられない自分を愛してくれたなにか、が明らかになる。

それが、貴方が、自分の長所への、または新たな幸福に歩いていくべき自分を肯定するような、公平な評価ができない根源だ。

その根源は、ひとから与えられたものだから、相対評価の基準で見るをやめられない。そのひとから与えられた「自分の喜び」、それが反転して、傷つきを作っているのにもかかわらず、無意識にやめられない相対比較の軸は、ひとを愛しぬいた記憶でもある。仏なしに、ただ、自分がひとを愛したという事実、そのものでもある。

こうした場合においては、ひとが自分を神のように見ることもある。でも、それは、自分の信仰がしっかりしていれば、自分のなかにある主を相手が見るようになる。それは、○○ちゃんがそうだったように、仏の光との親和性を高めるために、仲良くしておく必要がある。そのうち、仏の光に自分で出会ったときには、馴染みのある暖かさを知ることができるので、自分からいずれ、仏の光へと歩いていくようになる。


それまでの一時的な拠り所という縁でしかない。だけど、それを大事にしようとするとき、ひとを愛する心に幸福が訪れる。相手に執心しても、それは「与える愛」に生きていない。もし、相手が拒絶したとしてもサラサラ流していきながら、絶えず、目の前に現れるそれに「与える」。それはたいていのところ、「祈り」だけでいい。自分には精進しか要らない。相手の精進は相手がするもので、自分を理解してもらう必要もない。

こんなことをしていて、貴方がしたいことが叶うかどうか、は、いつになるのか、と貴方は不安に思うのだろうと思うけど、時間の問題であって、あなたが、そうやって「与える」に専心すれば、早くに与えられる。

私なんかは、わからなかったから、失敗をたくさんしたし、怒れたり、欠点がよく分かる状況で何に頼ってもいいかもわからなかった。でも、そうしたときには、貴方はいつでも、貴方を褒める、相手を褒めるを問われているのではなくて、「与える」とはなにかを試されているということを知りなさい。


あなたが「与える」ができないと思うだけ、「やりきれない怒り」と「身体が動かない重さ」と「やるせない涙」が心に大きく刻まれ、怒りきったまますすめば、それだけに時間はかかる。

どうしたらいいかというと、調和のとれた生活だ。今まで頑張ってきた努力してきた分、その調和とは「怠けている」ように感じられる。安穏としたのんびり屋の、仕事をしないようにも、見れる。

でも、それが一番はやい道でもあるのだ。どうしてかというと、貴方が今そうなっているように、貴方の潜在意識の奥底にあるうんこを吐き出している貴方が解決しなければ、ひとに「感化」することは絶対にできないからだ。

貴方が仏とのパイプが貫通していないところで話をしても、仏の光は相手には与えられない。貴方が仏よりもひとの考えを選んでいるそのところは、仏とのパイプはできていない。それは、植物のそれのようで、師管や道管がいくつもあってできているようなそれで、その細いパイプをひとつひとつ開いていくからこそ、天上界との柱が太くなっていく。つまり、信仰心が太くなっていく。

精舎に行けば信仰心を感じられやすいが、日常で生活していれば、目の前にあることに集中するのが普通であるし、それが生活であるからいいのだが、そうしたとき、いつのまにか、信仰心を感じにくくなっている。

その感じなくなっているのは、「仏は素晴らしいんですよ」とかいいふらしまわらなくなったからではない。お門違いな場面で、宗教を話し始めるのは、相手の状況に寄り添わないで、ただ自分の言いたいことを言い続けている「私を理解すらしない議論」にしかならない。そんなものに愛はない。

そのひとの考えているところのそれを、貴方が代わりになって解決する必要もない。と貴方っ話をすると、自分でなにかに気づくことができるから、いつでも連絡してくるようになる。法に基づいた話、となれば、また違う。しっかりと、法をあてがって、自分が成功まで導いたそれ、を以って、話をする。具体的な行動ではなく、考え方の話をする。その考え方さえあれば、指示待ちにならない。

だから、自己改革をともなった反省がなんにせよ必要だが、そこに善悪があるとしたら、仏に近づこうとするもの、仏を支持するもの、仏に…といったように、仏を頂点とした、何かしらの階層があって、それを以って、ひとは「仏」を軸とした善悪があると感じるかも知れない。

でも、よく考えてみればわかると思うが、すべての魂が、仏とおなじではないのだから精進しているのであって、そういう基準であるならば、仏以外すべて皆悪、となる。つまり仏が他のものを悪と断じているという様相になる。

それは、悪だと言っていない。仏の言わんとするところの悪は、仏子、仏性にさからう自由があると思いこんでいるそれ、を言っている。つまり、悪魔、と呼ばれるところにある。では、ひとはすべては、悪魔であるか?

そうではない。悪魔とひととの関係はそうして、仏への道を歩もうとするときに、逆らう最もな理由として、常識的で道徳的で倫理的で、人情に厚い優しささえ呈する。

悪魔は仏の光のもとにして、ようやく、その牙を剥く。わたしのように「どうしろ」とといったような悪態をつきながら、そうやって、腹を立てる。それが人間心だと思われる。

悪魔の言わんとするところは、悪しき自分を慰めるように「ゆるす」。仏のゆるしとはそういうものではない。当たり前なんだよ、でもね、、、と繋がっていくときに精進がある。そのままでいいよ、とは絶対に言わない。

なぜなら、それでは、その自己変革した後の幸福を与えませんよ、という未来が待っているからだ。


自分が変わらなければひとは変わらない。


ひとを変えようと思うことこそ、魔の仕業だと思うほうがいい。

それもできずに、ただ、やる気の起きないそれには、魔があきらかになるまでに必要な研修と祈願、教学が必要と思われる。貴方の今の状態、を考えれば

○イエスの霊訓
○福徳増進祈願

が望ましいと思われる。そのイエスの霊訓とは、過去世の一時的な自分の学びのために信じて研鑽してきた宗教からエルカン信仰に切り替える重要さを説いている。それがどこまでの深さでできるかはわからない。でも、二回重ねれば、ある程度見えてくる。見えてきてから、また、考えよう。


福徳増進がよい、と思われるのは、中道である八正道、に「与える愛」を組み込まれた徳目がそこにあるからだ。八正道を常に意識してきた貴方が、そこに与える愛をやるというのならば、福徳増進がよい。

富の法もいいのではないかという意見には賛成する。でも、かならず、ものごとには、プラスをいれこむこと(聞慧に値する)とマイナスを抜く(思慧による反省)が必要だ。悪撃だけではなくて、新更新を深めるための祈願が必要であるし、経済的な成功の祈願でも、貧乏神追い出しの祈願を必要とする。

反省なくしては、その潜在意識の場所に仏がいてくださることなんてないんだよ。
その反省を経て得てきた「与える愛」に生きたところに、貴方の個性は明らかになる。それまでは、萌芽としてしか見ることはできない。その個性は、執着になっているものだから。

まずは明らかにすることだ。ヒーリング特化でよろしく。