らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

質問の答え

瞑想にやってきた子とは、違う方なのだけれども、質問いただいたので、こちらで回答することにしました。私も疑問に思っていて、それでいて、経験的に理解したところもあっての話なので、「私の答え」だということを強調しておきます。

「悪魔って光がささないから生きていけない。生きている人間からプラグをさしてエネルギーw吸い取っている。でも、負の感情を糧に生きている、のは矛盾ではないか。仏の子なら、負の感情をエネルギーにはできないから。」

というご質問です。

この悪魔の部分を「黒いタール」という表現にしてみます。この「黒いタール」は五蓋だとか執着、偽我をコアとして、五毒をまきちらかします。核があって、その核からエネルギーを分散、放射している動きがあるものが、五毒、ですね。

私達は、仏の心を理想として精進しています。4次元、5次元、6次元と、近づくにつれ、魂自体も内側からぼよんとその次元領域が湧き水のように出てきて、大きくなります。

この精進は、大きくは「進化」と「調和」の複合的な修練、で高まっていきます。進化は「信仰」を深める動き、「調和」は利他を深める動きと考えたら良いでしょう。

「進化」においても「調和」においても、「愛」という意味、「信じる」という意味を、深く心で理解するのはとてもむずかしいことです。仏の愛、を一段深く知るとき、私達は、五蓋がはずれ、仏の光がさしこみ、法雨を流します。この五蓋は、私のいうところの「タール」です。

利他の心、を一段深く知るとき、反省によって正見を得ると、自己評価が正され、他者への評価も正されます。そのなかで、他者への想いが、与えられた「評価」によって制御されるようになります。仏の愛を知った貴方は、仏が自分を思うように、ひとを愛する、ということを学ぶようになります。それは、とても、心にとって「受け入れがたいこと」が多くあるように思います。それでも、他者の愛に囲まれていくと、ひとと自分を分け隔てていた壁が崩れ去り、また、「愛」に泣きます。

こうした繰り返しを精進だと私は認めていますが、仏→←自分 仏→←自分→←ひと というようなパイプができあがったとき、そこにはじめて、「信じる」「愛する」を踏まえた「信頼関係」というものが構築できるようになると、私は思います。

この蓋や壁を打破するのに、正しく見るための「法」が必要であり、正しく思うための「反省」が必要になってきます。この仏の光がさしこんだ関係、というのは、互いに高次の心を志した関係になるでしょう。お互いに「与え合う」関係にならざるを得ないと思うのです。

それを目標としたときに、仏への自分の心の淀みや、ひとへの自分の心の淀み、をタールと一時的に置いてみます。その核がある限り、悪霊や悪魔といったものは、そこをポートキーとして波長同通してきます。自分にとっては、無自覚に、現実的にも「不幸」への道を歩むようになります。

このタールが「悪魔の発生どころ」、だとすれば、悪魔は「タール」がなければ「存在できない」ということになります。つまり、タールが剥がれれば、その魂は、「仏性」を顕現するしかなくなります。

この「タール」を自分自身だと思いこんでいるのが「悪魔」です。それよりも「ひと」という認識がある霊は、どちらかというと「恨み」や「哀しみ」、「傷つき」を、その姿形、主張をとって表現します。「悪魔」はどちらかというと、「考え方」を表現します。悪魔の主張する「考え方」に行き着くように、耳元で、ボソボソと「恐怖」「不安」「焦燥感」「哀しみ」「絶望」を与えようとささやく存在です。

ですから、私達が、悪魔が主張するところの考え方に行き着くような、すべての手立てを彼らはとります。私達の傷つきや過去の体験、罪悪感、疲労、すべてを使って、悪魔の「主張」になるように操作されます。それは、霊能者だろうが霊障者だろうが、無自覚霊能者だろうが、鈍感体質であろうが、すべての人間が、その状況下におかれています。

魂があるので、ひとは、霊体質でなかろうが、そうした霊的影響を受けたとき、「無自覚」で受け取ります。直感や感情、は、そうした耳元でささやかれた言葉によって、影響しています。私は、その言葉を受け取ることができるので、状況を理解します。

例えば、私が、祓う側にあるとします。真理を話していき、相手の状況下で納得できるレベルで話をするとき、私のところに攻撃に来ます。その言葉の多くは、私を「操作」することはできないので、「死ね」という短絡的な罵詈雑言になります。こういう場面をとって、私は、イキイキとすることが多いです。相手は、「白旗」をあげたのと同じだからです。

例えば、私が、気付きを得る前にあるとします。これは、まだ良く知らないころに、自分の苦しみを以って、自分を責めているときに起きました。どうしたらいいかわからずに、いかに自分が罪深いかを、御本尊の前に立って懺悔をしていました。(やり方を知りませんでした。)左の耳元で、「お前のような罪深いものが神を信仰してあるものか」とささやかれました。氷のような戦慄が走り、私はその場から動けませんでした。

ご本尊の前で、そのようなことが起きることが、私にとっては「神からの最終通告」のように思えました。でも、のちにそれは、悪魔がどこでささやくのかを、経典で知ってから解消されました。悪魔や悪霊は「頭」と「耳元」でキャッチします。かえって、守護霊や天使、からのコンタクトは、みぞおちからわきでるような感覚があります。ですから、言葉を聞く、というのは、それなりの精神統一が必要で、その精神統一に至るまでに、相当な「反省」が必要だったりします。

悪魔は、「神」を知っている存在なので、「神」のことを語ります。神の教えすら、語ります。そして、その1%の間違い、つまり、修行している最中にわからなかった「苦しみ」がゆえに、その「苦しみ」を自分だと間違えているのが、「悪魔」です。

そのわからなかったこと、とは、「智慧」であり、「愛」であるために、私達が修行している過程で、大きく飛躍して進化しようとするときは、「必ず」攻撃に来ます。なので、あまり、怖がる必要もないのです。自然発生的に沸き起こる日常にでてくる自分の「考え方」が仏と一致しない事態そのものは、多発しているからです。

むしろ、その存在を認めたときは、逆に、今、一番いいとき、だと理解することです。
あとは、「その状況」で、今、試されているのは、「心からそう思えるか」「心で選べるか」ですから。

その「心からそう思えるか」というのは、例えば、研修や祈願で底固めすることもありますし、日々の精進で、迷いとしてよぎるけれども「意志」に向けて振り払うように逆らう、ことで積み立てられて払拭することもありますし、なにかしらの日常のイベントで、「意思表明」することや「実際に行動すること」で、払拭していくこともあります。

例えば、ホラー映画なんかもそうですが、あれは「恐怖」をまきちらかすためにある悪魔の一道具にしか過ぎません。多くの方は、スリルを楽しむように見ているものでも、強く「恐怖」を植え付けられたら、それは「悪魔の道具」に成り下がります。

私は、耐性があるのでギャグにしか見えないのですが、妹などは、「恐怖」の塊になってしまったことがあります。そのときに、「私の視点」を教えました。「悪魔はこんなに努力して努力して、たった与えられるものは恐怖しかないんだね。」って、笑いあげると、部屋でパンパンって音がしました。ああした相手は、逃げ出すときに、なにか「サイン」を置いていくので、律儀だな、と本当に思います。たぶん、ものすごい勢いで逃げていくので、とおりぬけたときに、霊圧がかかって、きしみ音になるのでしょう。すべてがそうだとは言いませんが、彼らが逃げ出すときは必ず、サインがあります。

でも、私達人間が、光をいただかないと、存在ができないように、彼らもまた光をいただかないと存在できません。なぜなら、彼らも、本当は仏子だからです。

精進するものは、無限に光を与えようとする仏から光をいただきます。それは、「信仰」というパイプから与えられています。ですので、ほかっておいても、大きな蛇口でないにしろ、「信仰」の蛇口からは絶えず光が流れているので、「時間」はかかりますが、だんだんとよくなっていきます。そう、タールが剥がれていきます。

ですが、精進をしないものは、どこから光が与えられるのでしょうか?それは、「ひと」から奪います。ひとの感謝の思いや、ひとの幸福、を奪うようにして、自分を満たしていきます。けど、それも叶わずに、三次元の事物をとって「欲」を満たしていきます。感謝、希望、夢、愛、、、、ひとを傷つけたり、強く批判したり、相手からごっそり奪うことで満足するようになります。

そうやっていくと、タールを核として五毒がどんどん増えていきます。

こうしたものに、悪魔や悪霊は「プラグ」をさしこむことができます。波長同通しているので、相手からはこちらが「見える」のです。波長同通していない場合は、あちらからは「見えません」。

霊能者はあちらに気づかれないように「視る」こともできますが、こちらが「視える」ということは、相手からも「視えます」。そちらの次元域にまで視点を下げているので、視えます。稀に、そういうことでもって、あちらに攻撃を受けることもあります。あちらの「考え方」を刷り込まれるように。

そうやって、「プラグ」をさしこんで奪う状態、が悪魔なのです。ですから、「プラグ」をさしこまなければ、その状態が解かれ、「悪事」のエネルギーの働きが行われなくなります。そうすると、あの世で言えば、「悪事をやめた」ことと同じことになります。

「悪事をやめた」らどうなるでしょうか?
いずれは、悪事をしていたことまで忘れてしまうかも知れません。
でも、そこで「課題」がつまってわからずにタール化した、という勉強のつまづきは残ったままです。

しかも、そのつまづきは、「仏」という師に出会わなければ、わからないものなので、おそらく、限りなく長い時間、そのつまづきは解消せずに、転生を繰り返すことになります。

つまり、悪魔も私達と同じ転生輪廻を繰り返す仏子である、ということです。光がなければ存在できません。だけれども、光を奪い続けなければ「悪魔」たらんとできずに、私達同様、また、精進という輪廻の輪に加わります。

ですから、生きている人間が「悟りを深めるように精進する」ことが望まれます。それは、質や数もともに、です。そうして精進する魂が増えると、だんだん、奪う前に「与えられることが多くなり」、与えられることに感謝するひとが多ければ、「天の邪鬼」に変わっていき、そうして、いずれは、野良猫が家猫になるように、お上品な生活、を送るようになるでしょう。

悪魔、や悪霊をどうにかしたい、邪魔だ、怖い、と思う必要はありませんし、排斥する必要もありません。自然淘汰されるものであって、もっと言えば、私達の精進の残りカス、のようなものです。


私は、「天使」も「神」も「悪魔」も「悪霊」も視えます。

神様は、驚くほど「厳しい」です。天使は、とても無邪気で子供らしいです。
悪魔は、狡猾で人間には「優しい」です。悪霊は、とても傷ついていてかわいそうです。

タールのほとんどは、「人情」的なところにあります。ひととしてそんなふうに思うのは当たり前だからそれでいいよ、なんて思わせてきて、自分の負の感情の理由を、いつの間にか、環境のせい、ひとのせい、にさせてしまいます。悪霊も、たいていのところ、理解できるマイナスの感情なので、かわいそうだな、と思います。

ですから、精進、って難しいんですよ。でも、精進が深まっていくと、自己責任の法則については限りなく自分に厳しくなりますから、幸福度は高くなるような気がします。与えられていることにも多く気付けるような気がします。

多くの人は、こうしたマイナスの存在を怖がりますが、神の光にこそ畏怖するものです。悪魔のほうを怖がりすぎると、あちらからみれば、「神として見ている」のと同じになります。何に支配されているか、が重要だからです。

はっきりと言ってしまえば、悪霊・悪魔への恐怖、が心に支配されると、それは、悪霊や悪魔を信仰していることと同じなんですよ。

こうしたことを「法力」で分かるまでは難しいと思います。私なんかは、今、「お金と愛」をやっています。「愛」については、今までも、霊的な指導は多く受けています。


ここからは、私の今の精進のメインベースについて話をしていきます。なので、与える愛をしましょう、とか、教学しましょう、とか、祈りをしましょう、とかの信仰生活自体の反省ではありません。そのあたりは、一生懸命やっているわけではないですが、習慣化はしていると思います。まだ、研鑽の余地はあります。こんなふうにやっているひともいるのです。


植福の心がわからないとお祈りしたときに、コーヒーカップの底にハートが現れました。あれにはびっくりしました。コーヒーがまだ残っているのに、上から何か吹き付けられたかのように、歯磨き粉がついているかのように、または、牛乳が固まった形が浮き出ているかのようだったからです。実際、気味が悪いので、カップを傾けましたが、形が崩れないのです。コーヒーをサーヴした方の不手際か何かかと思って。なにかがこびりついているのかと思って、何回も傾けて、ようやく、それがハートだと気づいたときに、私は固まりました。植福は「愛」だそうです。

まぁ、夢での天使の指導は見事です。彼らの努力も本当にすごいです。私達のために、「天使の寸劇」をやってくれて、いい悪い、を教えてくれるからです。同じ出来事でも、心でこんなに違うよ、3パターンを同じキャストでやってくれるんですから。

何回もぐるぐると螺旋階段を登るように、「愛より金」の考え方をしていた一瞬を思い出しては反省し、練り直し、そして、また深める作業をしていくと、当然ながら、悪霊ははがれるばかりか、祖霊もはがれていき、おなじみさんがでてきます。そこを外して感化していく、を繰り返していくと、何年かかかりますが、ようやく、その部位の「悪魔」がコンニチワしてくれます。

ここから勝負どころなんですよ。

想念体のむこうにある、過去と現在と未来がつまった領域下にある潜在意識では、自分の心のすべてがコンパクトに「象徴」で見せてくれます。ここへのアプローチは、「瞑想」でしかできません。瞑想でも難しいでしょう。結構、毎日ヒーリングしていますが、ここを癒やすのはとても時間がかかるんです。日常への劇的な変化は、ヒーリング中は認められません。このヒーリングが素晴らしいのが「伝道師」さんのところのヒーリングです。あれは、研修や祈願、教学とともにやっていくと、潜在意識のところからのせり上がりの相乗効果で、今よりも精進がすすむ、と思います。だいぶ、宣伝したいです。

ヒーリングが飽和してきてその領域がゴールドになったときに、はじめて、「悪魔」がコンニチワしてくれるんです。でも、また、ここから、反省がはじまるんですね。その状況下で、自分が選んだ選択は常識的に間違っていないと思われるのに、なぜか、「悪魔」がコンニチワしているんです。

これね、難しいんです。だいたい、潜在意識に蓋がある場合は、そこのタールに一時的に自分も「憑依」を受けています。その潜在意識を「憑依」したまま、正しく心で選ぶ、をしたときに、「勝ちます」。

そう、常識や倫理観、道徳観を捨てて、愛の心を選ぶとき、ですね。実際の行動を問われているわけではないこともあります。ただ、その選択をしたときの自分は、「仏の愛」と近かったかどうか、を、今の自分から見て、反省するだけなので。または、「仏の理想」に近い視点で、自分をばっさり切っていきます。

自分の思いなんかに寄り添っていたら、それはできません。選んでから、心に問えば、思いすら変化していることに気づくでしょう。

そういう、やり方もあります。