らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

ニーチェ退治

Y君の話の補完でもあるが。息子のギャースカ事件を書いたブログ記事を読んで、頭が痛くなったらしい。頭の痛みがどこにあるかを聞いて、外側か内側かも聞いて、話をした。

まず、ニーチェについて話をしよう。

彼は、実は、幼少期の頃、神の言葉を下ろす神童として、秀才として、村の評判の期待の星だった。母子家庭で育った彼は、母からも妹からも期待をされた。妹は兄に心酔し、兄の言葉を記録ししたため、のちにその語録を公開したほどだった。彼は、キリスト教の敬虔な信者であった。

そして、優秀な成績を治めていた彼は、奨学金で都会の大学へと進学する。神学科に籍を置いていたのにもかかわらず、彼は哲学系へと関心を強めていく。この頃、彼個人に何が起きたのかは、わからないが、そこから人生はうねって、優秀な哲学者となり、その名誉たる立場から、「神は死んだ」と発言しゆくことになる。

彼は、言葉をつかって、神を冒涜した。言葉を司るのは、前頭葉である。だから、その「知識を神とする」優劣思想は、「言葉」を間違わせる。

そして、私もまだ、その支配下にあるだろうから、言葉のコミュニケーションによる「誤解」というものに、さらされる。私の使う言葉、は、ひとに与えるものか、奪うものか、で、まだ「与えきる」ものではないという事実にも至る。

まあ、そんなのは一過程なので、現象として、今の実態の自分がそうだよ、という事実に対しては、ああ、そうだろうな、と思う。だからこそ、このブログは、私の反省日記でもあって、「正確なもの」ではない。

つまり、これがバイブルになることはない。私の体験から、自分の修行精進の参考、になることはあっても。自分を知る手がかりになる材料、くらいかしらね。私にもあるわ、納得するわ、でも、精進していることには違いがないのだ。

でも、あの記事を読んで痛かったということは、今すぐやったほうがいいので、こうした話をした。 言葉で神が存在する状態にするということが求められてないとして、生きていること。自分のなかにある最高峰が、神を語る言葉、神を伝える言葉として、それをじゅんじゅんに伝える自由自在に使えるようになるかの一過程として、それはある。でも、、、

言葉は神を伝えるためにある

と信念を置いてほしいのだ。これができるようになると、言語野の活動そのものが光が照らしてくるので、言葉の領域である「前頭葉」がうまく活動するようになる。(若干の伸び、である。)


私がニーチェを想像するに、彼は世間の「なにか」にさらされたときに、自分の秀でている分野の「知識」を選んだ。信仰よりも「知識」を選んだ。そこに、劣等感をもったのか、そこに自分の優秀さを認めたのかはわからない。だが、信仰よりもそれが、自分を生かすと考えたのだろうと思われる。

田舎から都会に順応していくとき、田舎を否定して都会を支持する心の働きはあっただろう。田舎が恋しくては都会を受け入れられないように、新しいことをするときは古いものを捨てることであり、そこにさみしさがおきるのか、哀しみが起きるのか、怒りであるのかはわからない。

でも、彼の言葉を知るにあたり、思うのは、神の光を語るのではなく、人間の愛憎を語ることが多いことだ。そして、向学心を追求するときの、孤独な排除思想によるものだということも、感じるのだ。それは冷たく、硬いようだが、人間哲学よろしく、「世界はそういうものだ」と最初から受け入れてしまえば、何も哀しみは起こらない。だから、生きることの厳しさを延々と説くようなもので、ある意味、痛みに鈍感になれ、と説くようなもである。

愛がわかれば憎しみがわかる。

憎しみしかなければ、憎しみを愛だと思っても仕方ない。その妄想に生きれば、「憎しみ」にさらされても「愛されている」と妄想に生きる偽の幸福が得られる。

「知」を追い求めれば追い求めるほど、「知」るものから見れば、無知者を「知」の領域に向かわせる難しさを知る。また、「知」によって、世界は構築されているようにも思われる。知があるものが、現実的に豊かであることもわかってくる。無知者の愚かさと、不遇さを呪っていく。

それは、神を信じていた頃の自分の無知さを嘆いたのかも知れない。神を信じていた頃の、自己犠牲による愛、は、自分に利をもたらさない、向学した先にある栄誉ある自分の未来をだめにするものだったかもしれない。

そうした心の動きが、母子家庭だった彼、妹に心酔されて迷惑こうむった彼、田舎から上京してはえある昇進を続けた彼、から読み取れる。そうして、自分を創っていた恩を忘れて、知を追い、キリストが死ぬことをとって、「神は死んだ」と曲解した。

それからキリストは復活を遂げるのだが、彼にとっては、その復活が信者にとって何をもたらすのか、神がさししめす方向に歩ませたいのか、歩んだとしても何があるのかの結論において、意味をなさないものであったと推測する。

それは、私やゴリ子が足踏みをしているところのそれ、とは近い理由ではないにしろ、「信仰」だけを武器にして生ききれない「結果」、の状態は似ている。生きている環境に感謝をどうやってもっていったらいいのかわからないからだ。

無垢に無知に感謝する、ことで、引き寄せられる執着を打破するだけの「悟り」を自分はもっているのか、それに自分は殺されるのではないかという恐怖すらある。結局のところ、怖いのだ。


でも、本当は知っている。


神の威光は最も優れ、その威光のもとに教えどおりに生きるということは、そんなに複雑ではないことを。


この世的な知よりも優れた解決方法があることを。


祈りにおいて光をおろすこと
悪撃において、相手を「知」で支配すること無く、主体的に気づき学んでいる様子を見守ること
祝福において、相手を未来の幸福へ向かう推進力となるように励ますこと


そうやって身近なひとを愛するということ
そうやって身近なひとをゆるすということ

そうやって神を信じるということ


これにまさる「智慧」はない。

この世的な情報
この世的な経験知
この世的なすべては
これらが生かされるためにあるのであって

決して、神を信じる理由として必要なものではない。
また、この世を豊かに生きるのに必要なものでもない。

私達が「幸福」に感じるところのそれは、

「ひとを大好き」だと無垢に思える自分、のやすらぎのなかにある。