らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

Y君について

Y君は、霊体質だから宗教に入ったわけではない。彼は、親さんが三帰者で、自然とそこに通っていった。なんとなく通っていただけだったのが、自分というものがでてきたときに、ふと知っていた法で考えてみると、まったくそのとおりだと気づく。

親への反抗と宗教への反抗、が同一になってしまった時期もあるが、法の言うとおりだとわかったときに、ぐっと、教学や研修へと心が向いていく。

周囲の言われるがままに、心が救われた報恩のために、ボランティア活動に邁進する類まれなる若きリーダーである。知り合って数年になる。少しずつ、仲良くなっていったのだが、妹を通して、ぐっと関わりが近くなり、ラインや電話するほど仲良くなった。

でも、霊体質さんというよりは、教学どおりに考える、言う、話すに務める方で、自分が彼にとって有益な先輩になるとは思っていなかった。むしろ、私の息子を導くお兄さん、として支援するところがあればかかわりたいな、と思っていた。

昨晩、グループトークで、「禅定」をみんなでやろうという取り組みがあった。それに先立った夕方、彼とラインしていた。

私はネット伝道、チャット伝道をしてきたので、今のようなコロナ下では、その当時の体験やスキルが、彼にとって有益な情報であると思った。よく考えれば、それは類まれなる体験で、斬新で、急進的で、ありえないことかもしれない。実際、こういう展開をしていますと話した所、ある館長に「それはありえるのか」と言われたが、実際ありえるのだから仕方がない。ありえる根拠をいくつか、現実的な目線でお話すると、ああねとも言われた。まぁ、あの世的にも、この世的にも説明はつくものだ。

ネット、でのアプローチについては、口酸っぱく言ったほうが良いくらい、霊的な影響を受ける。武器をもたずに、単機でつっこむ、ようなことをしてはならない。

私は今ブログを書いているが、それを読んでいるひとの念をくらう、というのは当然。
ラインも同等で、ラインで「ともだち」登録をすると、そのひとと想念を受ける。

でも、私は本当に稀な「受け」型の体質なので、霊能者さんが全部そうだとは言えない。わりと三次元圏域に近いほうの、天狗とか鬼とか仙人系の「発する念」のちからが強い方々とは、ちょっと違う。私はそっちが弱い。ああ、「喧嘩上等!」にならなければ、発するはあまりない。

でも、Yくんはそういう「受け」ではないと思ったし、感知しないだろうと思われたので、まぁやることは、私が提案した「リモート輪読」とか、「リモート拝聴」なので、さして、気にする必要もないかも知れない。三次元的にラインを使うにはさして、気にするほどでもない。霊体質でなければ。

でも、そこに加えて、「心の医者」として、「お悩み相談コーナー」で、演習、訓練をはじめたので、気を付ける必要はあるよ、みたいなことは言った。まぁ、信仰生活がしっかりできていればいいだけだが、彼には杞憂であると思えた。

ネット伝道しているときに、養成じゃないけど、遊ぶことは多かった。イメージの訓練とか、禅定になかなか入れないひとに「気を抜いて遊ぶ」ようにして、イメージワークをすることが多かった。

マジで、普通のひとって、イメージする、がわからない人が多い。
イメージで遊ぶ、ということを知らないのか。

ってな具合で、自分のイメージを遊ばせることをした。こうした取り組みは、専門ではないが、心理学のワークショップでよくみかけるやつだし、私も「やらされた」ことはある。でも拒否権があったので、私は途中で棄権した。今から思うと、生存本能がそうさせたようには思う。私の守護霊は普段は放置だが、そうした場面ではとにかく強い。どれくらい放置かというと、死ぬか死なないか、くらいでしか動かない。宗教的ターニングポイントとかね。

で、今まで霊体質さんが対象だったから、できるかな、ってな具合で、私が、想念世界を念で作った。それをキャッチするか、自分の中にある想念世界でのイメージしたそれ、で遊ぶかは、自由にした。

自分のなかにある想念世界での遊びだと、初歩の方は4次元層のそれだ。つまり、自分の考えや自己中心性にある想念世界を感じる、遊ぶ、になる。最初はそれでいいんだ。遊びなんだから、こういう世界は。禅定って「遊ぶ」くらいの気軽さがないと、崩れてしまう。それくらいの「気軽さ」から、どんどん精妙にしていく、という過程をふまないと、できないこともわかるだろう。


私のつくる想念世界を曲がりなりにもキャッチするのなら、5次元以降にタッチしているとは言える。自分の外側のもの、だからね。


「扉の色はなんですか?」
とかって、ラインで遊ぶんだけど、答えるまでがとにかく長い。

遊びなんだから、ちゃちゃっと答えていくといいのにって、こう「できない」が強い人だとこだわりぬいて、逆にイメージが浮かびにくいからこまるな、とさえ思った。寒いし、ストーブに足をあてて、ソファーに寝っ転がろうかぁと、私のイメージを解いて、ソファーに目を向けた。

そしたらね、扉の色をあててきてね、しかも扉の向こうのシーンが、私の意識が向いた、私の部屋にある「物体」を自分のイメージに取り込んだのよ。

まさかね、と思いながら、当初、扉の向こうにある空間に連れて行こうとしたら、自分から言ったのよ。

「でも最初はもっとひろかった。」
「草原。水色と黄色の花」


そこでやめてもらった。あなたが今したのは、マインドリーティングよ、と言って。

私は慌てていて、慌てているだけだが、あまりにも衝撃で怒っているように見えたと思う。
彼は愕然として、「気をつけます」を連呼していた。

私は怒って、「そんなの気をつけようがないじゃない」
彼は「やらないようにします」

私は慌てて「やらないようにしていたって、そういうのは体質だから無意識にやってんのよ」
彼は「気をつけます」

堂々巡りだったので電話した。私は喋りまくる慌てぶりで、彼は頭が真っ白になる慌てぶりで、第三者からみると、大パニックだったと思う。パニックは、固まるパニックもあれば、しゃべりまくるパニックもあるし、怒りまくるパニック、というものもある。なんか変だな、って思うときは、そのひとはパニックに陥っているのだから、「落ち着いて」とぜひ、声をかけてほしい。


彼の「慈悲魔」と、「気がつく、気がきく稀にない若いひと」と、寄り添いすぎて「生かす愛」が難しいところの原因はここにあったのだった。

霊的なことはかかわらないようにします、というような内容を彼は主張してくるのだが、そんなことは霊道がひらいているのに、今更無理な話だ。まず、漏尽通力を読むことだし、観自在力も読むことだし、秘密の法、ああ、全部読み直しだぞ、それ。

今まで読んだものは、おそらく三次元に視点をあわせて、自分の現実をよくしようとして、自分の現実への思い方を修練したもの、に違いない。彼が読み直す視点は、仏に向かうときの自分の心という、真っ向宗教修行の心の鍛錬のところになるだろう。

このワークをやる前に、彼のある反省に付き合った。それはニーチェ退治でもあるので、そこが理由になったかはわからないが、とんでもないことがわかった。一大事だ。何年もかかわってきたのに、今更かと。でも、宗教修行していれば、どうしても若干の違いはあれど、「霊的感覚」というものはでてくる。その現れは、本人は気づかない、のに、すごいなと、思うものだ。それを伝えても、本人は気づかないままだし、気づかないけどあまり必要がないと思われたので、特に、そこを基調にはしない。

法を学ぶことが第一前提なのは変わりはない。

「お悩み相談コーナー」の訓練で、彼が回答したのは、信仰、のほうにいきつく回答というより、衆生むけの「手立て」論に近い、ものだった。それが間違い、というわけではないので、彼らしいなと思うばかりだったのだが、まさか、こんな。。。。


霊体質のひとは、無意識に、全体のなかにある個の想念を複合的にそのまま受けるので、不調和に気づきやすい。また、自分の立場、を置いておいて、その不調和を整理するように、「無意識」に調整しようと動く。

ひとの想いに無意識に気がつくことが多いので、先回って、それをお膳立てするように、仕える。

それを重ねていくと、「慈悲魔」ができあがるし、法で見るよりかは「調和」を基調とした動きをとるばかりか、必要以上の「自己犠牲」をして、仏に向かう自分の精進自体を放棄していることに気が付かない。

それは私が経験しているところでもあり、今もまだ、それをコントロールするというよりは、努めて精進に向こうとするくらいである。「マネージメント」がそもそも難しいのだ。オンオフはできるにしろ、ちょっと「不具合」があると、乱れる。課題を乗り越えていく、ことに集中することが一番いいと私は思うが、それもなかなか難しかったりする。

彼は、研修にも精舎にも行く方なので、これが判明したからと言って、特に障りはない。そう、そうしていれば、だいじょうぶ、なものだしね、結局の所は。


なんとまぁ、びっくりだわ。

息子もそうだけど、早く、霊的感覚がわかるひとが行う修行処を作って欲しい。霊体質の方が「理解してくれない」と感じることがないような、指導者が必要に思う。


…よく考えれば、反省してる最中に「体感」が伴うって、そういうことだよねw
あーーーびっくりした