らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

指導ってよくわからないでしょ?

指導ってよくわからないことが多いと思うけれど、それが分かる私としてみれば、祈願がかかっている状態なら、もう、めっちゃ指導霊か守護霊かわからないけど、頑張ってるじゃんって思う。

霊的なひとは、まぁ、これ、私だけじゃなくてね?

そう、私の最初の頃って、ほら、やっぱり、自分がつらかったぶん、霊体質のひと、に声かけることが多くてね、つまり、私の法友の半分は、霊体質さんか、霊能者さんのどちらかなの。

もちろん、霊能者さんだからって、霊能者を飯の種にはしていなくて、皆様、普通に仕事してて、漏尽通力で生きていますのよ。まぁ、このあたりは、「痛い」に耐えるが如く、励まし合って生きているって感じかな。

でね、やっぱり、受け取るときって、同じ現象が起きるの。

聴音検査で聞こえるようなピーって音が、耳への圧なしに、聞こえるとき。
もちろん、右と左で意味が違ってるんだけどね。
(意味がわかるほど、毎日あって、その後にちゃんと気づきがある)

おそろしいと思うわ、マジで。


でね、ピーって音のときは、あの世で守護霊が「天使にアイムファイン」みたいに、神様に祈ってくれてての上での、心の「奇跡」のような気付きがあるのよ。

(現実的な意味での奇跡ではなく。奇跡は自己変革後の自分が起こすもの)

まぁ、それとは違うやつね。自分の体をアンテナにして、「受け取ること」ができないときも、頑張ってくれちゃっててね。例えば、私はだいたいアマゾンプライムの動画からぎょええってなることが多いわ。

夫はね、いま、「あひるの空」を見てるの。

私もはたから見てるんだけど、これって、夫の高校時代の反省材料じゃないかって、ちょっと思ったのよね。たぶん、じゃっかん、彼も感じてたと思うのよ。でも、私は何も言わなかった。

で、神様が来て、「それ、指導だけど、気づかないふりしちゃだめだよ」って教えてくれたんだけどね、夫に言ってみたら、やっぱり、そうじゃないかなって気づかないふりを決め込もうとしていたみたい。


そういうかんじで、ちゃんと、目に見えるところから、教えたくて、見せてることもあるのよ。

でもね、やっぱり、「なりたい自分」を描いてないと、信号を送るのはあちらも難しいかもしれないなとは思うよ。

私?なにになりたいかって?

こういう話ができるぶん、学校の職員には気質的に難しいから、個別指導塾みたいに、そのひとそのひとに寄り添って、ご精進をより密着した形で寄り添いたいなって思うの。指導霊だとか守護霊の通訳が必要なひとって、体質的に夫みたいなタイプのひとには必要だと思うの。

でも、体質的に夫みたいなタイプは、指摘するとマジギレしてモラハラしてくるから、それもなんだかなとは思う。(もちろん、現実的なひとからしたら、私みたいなひとは、規格外過ぎて、人間らしいひとの感情をバカにしてるって思うみたいね。それは理解できるわ。)


なぜって、ひとって弱いから、潜在意識にある黒い自分を一気に知らされると、めっちゃ怒るのよ。でも、後からそうかとわかるときもあって、かと言って、それが重要ではないのよね。

重要なのは、「幸福な自分」に必要なものを手に入れようとすることと、その障害になっている「自分の黒い部分」を除去すること。

この黒い部分を、「法による自我の死滅からの無私への昇華」なしに、除去するのは、私はできないんじゃないかなって思うの。まぁ、その除去は、反省による降魔、なんだけどね。

Mちゃんがもだえているけれども、安心を主に求めていない心の領域、つまり、主が不在の状況で、与えきりでいなくていい、与えてもらえると思っている人間関係、のところを消滅させて、主から与えてもらう意識にするところ、が「最後の希望」だとか「本当の願望」だったりしたら、もうちょっと、大変なのよ。

与える、っていう概念と、与えられるっていう概念が、根底からひっくり返るの。


指導を受けたら幸福になった、はたしかなんだけどね、反省なくして、ナチュラルなエクソシストなくして、幸福になれることなんか、あるのかなぁって思うの。

反省って、自分を責めることではない、ともう一度言わないと駄目な感じもするね。

法の正しさを、自分の心の因果関係を見て、理解すること、かな。


つまり、夫は、高校時代や10代20代を惨めに思っているけれども、仏法から言えば、そんな状況からあなたができた正しさってなんですか?がわからないと、今を成功させることはできないし、正解がわからないと足を一歩前に進むこともできないでしょってことなの。だって、正解がわからないなら、また同じことを繰り返すでしょ?

行動だけ正しくても、心が入っていないと、動かないこともあるのよ。
逆も然りで、心だけ正しくても、行動が適切でないと、だめにすることもあるのよ。
(私は行動が弱いタイプ)


できていなくても、正解が曲がりなりにもわかっていなければ、自信にはならないでしょ?
間違っていてもうまくいくって妄想でしょ?

(ここらへん難しいよね。正解なんだけど、なんで成功しないか、が全託していないからだっていう信心を問う場面なのかのくだりもあるから、それが適宜、自分でわかるといいんだけどね。)



でもね、主への感謝を深めてこそ、だと思うの。
あとね、反省って神に許しをこいてこそ、だと思うの。

私、まだ傭兵だった頃に、反省しても湧いてくるから、どうしたらいいかわからなくて、聖書をあさっていたことがあったの。めちゃ読み込んだわけじゃないんだけどね。そしたら、ある修道女に金持ちの男のひとが相談するお話があったの。どれ、かはわからないんだけどね。忘れちゃった。


「私は、自分を傲慢だと思うのです。妻や子も、私のことをそう感じていると言います。私も認めて、一生懸命自分を変えようとして日々努力を重ねています。でも、毎日毎日、どれだけやっても、傲慢な私が見え隠れするのです。そして、毎日、残るのは、今日もまた、ひとつ傲慢の罪を重ねた、というこという深い自分へのどうしようもなさ、ふがいなさ、苦しみ、自分はもうどうしようもないのだとさとることしかできないのです。このような私がどうしたら、いいのでしょうか。傲慢の罪を神に許してもらえるために、私ができることは何でしょうか?」

「自分を変えられると思うなんて、貴方はなんと傲慢な方でしょう。私が貴方と一緒に、神に貴方の罪を許してもらうために祈ります。さあ、一緒に祈りましょう」


10年以上前だな、これ。

こういうような内容だったんだわね。私、まさに、この金持ちの男性だったのよ。自分が変わるから、反省になるって思っていた。だから、修道女の言っている意味がわからなかったんだよね。

でもね、宗教が言わんとするところって、こういうことなんだよ。


現実、から考えるんじゃない。
心、を見るんだ。
そして、神に心を委ねるように、心のことを主にすべて捧げる。

そして、その後、現実に向き合うんだ。
ここからが、勝負。

(でも、夫はまだつかめていない。歯磨きくらい行動がパターン化すると精進は早い。)