らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

生霊のつづき

昨日、私はブログを書いていて、胸にわーとかざわざわした。ユダの記述のあたりである。

三次元的なものの見方で、宗教に生きる自分をマネージメントするように、お金という報酬を得る仕事を考える。それは消極的なものの見方で、仏法真理を体現した仕事をして報酬を得るではなく、組織の利益になるように務める、偽りの自分を表現していること自体が、宗教とお金の関係にある、ユダの思想の支配下にあるときづいたとき、胸がざわめいたのだった。

昔、ものの考え方、見方を反省修行したときに、ハエを霊視で見ることがあった。そのハエは、脳みそにたかっていて、ウジを産み付けていた。そのウジがひどいひとは、思う、が唯物思想に基づいて起きていて、そのために「心を苦しませる」こともわかっていた。光が滞留した所からみると、肉眼でも、その「感じ」は判別できる。

で、その頃、自分の霊体にも頭にハエがたかっていることがわかった。そのハエを消滅させるために、瞑想をするのだが、瞑想でハエが消滅していくと、漏れなく「寝る」。何度やっても寝る。ただ、ただ、惰眠が続き、起きると、またハエがたかる、というイタチの追いかけっこ、であった。数日トライして、これはもう、無理なことだと考え、違うことをしなければ、ハエへの抗体ができないと思った。

そして、引き寄せた情報に基づいて、論理的に「おかしくない」ことをした。それは、私の体内にある、構成された細胞が、世界に弾け散って、また、戻ってきて、私を再構成するようなもの、だった。その禅定をはじめる前に、私は支部長から「報告してください」と言われて、報告をした。その報告する、というものがとても重要さがあると感じられ、ゴリ子にも報告をすることを義務として行った。

それが解かれたときは、身体に若干のしびれ、があったが痛みがあるものではなかった。ただ、なぜ、今までその「考え方」で生きていたか、まったくわからなくなっていた。その日が明けてからの引き寄せのスピードは、早くて1時間、遅くて3ヶ月、といった具合に、思ったことがすべて実現するようになった。よいこともわるいことも。

でも、そうして、生きることは「へんなひと」でしかないことも認識していたので、「思いの管理」と「実現」の具合を、石橋をたたいてわたるようにして、よく観察して生きた。だから、24時間モニタリングするといったことに取り組むわけだ。

今は、そんな恐れもなく、普通に生きて、普通に、思いの実現の責任をとることにも慣れてきた。それが「わかっている」状態なだけで、わからないひとも「わからない」状態で、同じ構造にして生きていていることは、付記しておく。

胸全体があぶつく、興奮したり、身体の危機を感じるようなそれでなくて、霊感ともいえるのか、胸まわりが、ざわざわとした体感があった昨日、当時の、後頭部から入ってくる、ハエの大群のそれを思ったのだった。

ユダはハエと親しいものだ。


そして、さきほどの生霊の記事を書いていて、記事の最後のそれは、私への指導であることも読んでいてわかった。頭のハエを退治したとき、私には不幸な出来事があって、傷ついていた。ご飯もろくに食べられなかった。痩せるほどではないが。

それで、霊体が弱っているのを感じたとき、胸周りには、ブラックスクリーンと呼んでいた、黒いなにかが出現して、しくしくと傷んだことを思い出した。

「思う」レベルの部位で傷ついた、ことはわかっていたので、自分の傷つきによる痛みだということはわかっていた。内的な痛みなのか、外的な痛みなのかの見分けをつけさせるために、霊体質の法友に、さわらせたほどだ。

手の甲の痛みと、手のひらの痛みとを、私の患部?にあてて体感させた。

後頭部に手をあてさせ、家族からの生霊、つまり、悪霊をつけた上での愛情の念がつきさす、部位に手をあてて、手の甲のつっぱりを体感させた。

胸に手をあてさせ、自分の傷つきから、手のひらが重くなるのを体感させた。

あるお姉さま信者は私にこう言っていた。
「傷つくことは、相手を苦しませるから、傷つかないの」

意識的にそこに至ることはむずかしいと思う。でも、自分のスキルとして、サラサラと流すか、岩に刻みつけるか、という手立てはとれるはずだ。当時の私には、サラサラと流す、ことを覚えきれていなかった。それほど、私にとって、重要なところで、流していけるものでもなかった。

その、胸に刻まれたブラックスクリーンを今度は、ヒーリングしなければならない、という具合がわかった。悟性、理性、あとなんだったかな。裏をとらなきゃな。


まぁ、そういうことで、傷ついた自分の場所、から、傷ついた出来事を思い出し、どの傷ついた自分を癒やしていけばいいのかは、分かる。

でも、その「癒やし」は、仏の光でなければ癒やされることはない。仏の光を表現したもの、で代替することはできる。でも、その「癒やし」が、三次元的なものであればあるほど、「執着」となって、また、業をつくる。

その程度がどれくらいかってなだけで、完璧さは求める必要はない。なんでも中庸、がよろしい。