らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

予告

昨日は、私の信仰生活における反省作業のうちに、必要な一過程をものすごくざっぱに書き起こした。書き起こしながら、読んでいて分かる人は少ないだろうな、と思った。ひとにとって本当に必要な話は、あの世がどういうことになっているのか、の詳細や、祓う、成仏をさせるその詳細を知ることだろうな、とも思えた。

その霊的な体験をしたからこそ、なるほど、と分かることが多かったのだと、そうではない方々と話をすると思う。例えば、研修室に霊人がいるとか、霊流を可視化して視えるとか、金粉が舞っているのが視えた、とか、私達にとっては、日常茶飯事でごく当たり前のことで、「日常」に近いものだ。でも、そうした体験を自慢顔で話をされたり、どうだと言わんばかりに聞かされると、どういう反応をしたらいいのか、まるでわからなくなる。

そういうことをもって、キラキラした目になる方、は、ちょっとどうかとさえ、思う。そうしたことは「驚愕」するものではあるが、ありがたがることではないと思う。補足資料、でしかない。

でも、そうした体験のさなかに、自分の心がどうだったかを振り返るとたしかに分かるものがでてくる。こういう心で生きるというこが重要なんだな、とか、こうした心だとこうなるのだな、という現実化した事象も含まれた、縁起そのものを知ることができるからだ。

先日の祖父を背負って歩いた夢の話でも、その「体験」を通じて、はっきりとわかることがある。それは、その体験を、とても丁寧に描写しないと伝わるものではない。そして、その体験の話を軸にした話のほうが、有益なのではないかと思った。

それにしても、昨日の話は、総論に近いコンパクトにまとめすぎた話で、なぜ、その思考展開になるのか、なぜ、そういう観点になるのか、すらも、伝えきれずに、今、私が生活のうちに取り組んでいる「己心の魔との戦い方」の流れを書いた。それでも、その流れは書ききれることもなく、総論ですら、「書き残し」て終わった。

たぶん、一日に、普通に生活していても、その戦いをするためのアクションは、ひとつひとつ、拾えるのだが、一日のくせにあまりにも数が多くて書ききれない。(起きて寝るまでの、心の揺れをモニタリングしながら生活する訓練もしたことがある。)

そのうち、はたと、昨日の妹との話はある種、「どんなひとの心の働き」と同じであるから有効である、と思われたので、そちらを書くことにした。家にいただろう悪霊のルーツはこの地域の因習から来ているという仮説を提示し、家族の縦断的調査研究の要点を各視点で列挙し、現在、この状態にあるのではないかという推測をたて、戦略の思案をしていることと、それができるようになるまでの、私自身の己心の魔への取り組みをシェアしたのは、ものの10分である。

もともと、毎日のようにひっついてならなかった妹だったが、話す内容は「接心」に近いものだ。それでいて、そのとおりにやると、左目から涙が流れ、右目からは涙が流れない、などいう体感を観察しながら、右目から涙を流れないことをもって、やりきれていない箇所を探す、というような、なんとも私にしかわからない彼女にとって「必要な話」をしてきた。

そのついでに、昨日のように、戦略を伝え、うまくまわるように「仕組んできた」。最初は、あまりにも稚拙な仕組みだったので、大いにさばいたし、大いに一刀両断することが多かった。それだけ、私は、相手に怯えていたのだった。なので、10分で終わるということは、それだけ積み上げられた共有した謎と解決があったからできた。7年も積み上げてきたそれを、ちょっとした記事で話すこと自体は無理だ。

でも、その後に妹に伝えた話は、どんなひとでも「そうなっている」ので、いいのではないかなぁと思う。


でも、私のものの見方を話をするときに必要なのは

○霊的世界の詳細な本当のところ
○引き寄せはどうやって起きているか
○常に起きている引き寄せならば、どうやって潜在意識と現実を対応させて見るのか
○悪魔を祓うというプロセス
○悪霊撃退の他視点から見た実際
○光の展開とはどういうことか

を、もっと詳細に説明する必要があると思った。私は、こうしたところに一定の納得と理解があるが、あるのとないのでは、そもそもに、「精進」とは何かがわからないのではないか、と思うのだった。

暗闇に灯されるろうそくの火は、実は、ドラえもんのラビリンスでうごく目的地までの導き、なのに。動くのに、自分は持っているだけだと思いこんでいる。だから、当たり前にいるだろう天使も、視えた、感じたことに「奇跡」を感じる。


そんなもの、奇跡でもなんでもなくて、当たり前のことなのに。


昨日読んだ本は、「現代の法難1」「現代の法難2」である。
 

そこでなにをしたかというと、いつものようにユダという悪魔を研究していた。ユダをとって、反省の観点項目にラインを引いた。根本原因ひとつを見つけて自分と一致させることはできないほど、多くありすぎた。ので、多くありすぎることだけを知って、しまいにした。今から、このひとの主張と一致するだろう心の点検をスタートさせる。その上での根本原因になるだろう、この方の「嫉妬」のエネルギーと自分の中にある同調するだろうエネルギーを見つける。

「自分のなかにあるはずがない」という前提で精進するのは、同じくらい愚かなことで、砂粒だろうとも、いっぺんたりとも、あることを赦してはならない。あるものを見て抜きさり、主をすえおく、というプラスで撃ち抜く作業が必要なのだ。

マイナスを抜くのを重視するのは、「自分が悪い」を前提にする性悪説ではない。自分は小さきものだという前提において、主が明らかにされるものには意味があるとする。自分のなかに住まう悪としてとらえるのではなく、自分がようやく対峙できるまでの「力がついてきた」と考える。

どうしてかというと、ラスボスを倒さなければ、ゲームはクリアができないように、自分の中の魔を打ち払うこと自体が、主への信仰を深める、からである。


そこまでして寝たのに、私の指導夢では、ヒトラーのそれが先にあったようで、自分を理解してくれるひとを正義としてはならない、という夢を見た。そして、本日、それは職場で現象化した。正しい行動をとれたかどうかはわからないが、私は、ちょっとだめだったな、と思いながらも、流されないで、自分の心のあり方を見るようにはした。まぁ、なんとも言えない結果だった。おおむね、失敗かもしれない。ただ、冷静に見ることができたのは成果のひとつだろう。

そのあたりは、「実践」で裏をとるべきだ。現実の見方と、必ず一致させることが必要。


それはやまと言葉と同じ理屈だ。どんな状況でも、どんな関係でも、どんなときでも、どんなふうにでも法施はいかようにもできるのだ。それが「主の言葉」を伝える、のではなく、「言葉」のみをおいたとしてもだ。


日本のいいところはなにかと聞いた私は、日本のダメ出ししかはじまらない父を見て、少し腹を立てた。いいところを見る練習をしてもらおうと聞いてみたのに、怒涛の日本の悪口だった。


短所と長所は同じもので、その特徴しかとらえないものなんだ。それを、あるとき、ある状況、ある場面などでは、こうであったという結果を以って、悪かった、良かったということはある。だけど、それをとって、本質的にそれがいいとか、悪いとかは言えない。あるものさしではそうかもしれないが、違うものさしではかれば、違った結果になる。

良いか悪いかは、いろんな要素で決まるもので、ときが流れる限り、いつも同じではないので、いつも同じ結果になるとは言えない。だから、そうしたことを考えるより、冷静に特徴を捉えるべきだ。


この話は、人、時、処、の悪の発生原因の話でもある。それをTPOでしかないんですよと伝えたこともある。適材適所の話でもある。ディズニーランドのマーチング・バンドが、どうして感動させるのか、と父が問いた。オペラでひとが泣くのがなぜなのか、わからないとも言った。

なので、このVを見せた。


いろんなひとの意見があると思うが、この子の高音域の波長が好きだ。この高音域に波長を乗せると、涙がでてくる。聞いたら、父はへらっと笑った。あまり感性がないのかもしれない。

エンタテイナーというものは、相手にどんな印象を与えたいか、で振る舞う。
かえって、自分がどう思うか、自分がどういう考えをもっているか、自分がどう見られるか、に振り回されるときには、ひとにどういう思いをもってもらいたいか、の観点で考えようとしない。

どういう思いを持ってもらいたいか、それだけに集中して、自分は何ができるか、何をしたらいいのか、どういう力をつけたらいいのか、それに執心してふるまったひとの心が、ひとの感動を呼ぶんだ。


与える愛、の話をした。そうやって、主に嫉妬していると自覚してやまない父に、私は話をする。家族をとられたのが同じ年代の男性となれば、そう思って当たり前だと言う父に、そうやってでしか伝えられない父の不遇さに、いつでも私は泣けるのだ。

こんな私の、こんな即興の話で、しか、知ることができない。直接聞ける、学ぶ機会が与えられているのにもかかわらず。

(それでも精一杯父を見守り、具合を見ながら話をしている。父が崩壊しないように。)


そうやって、いつも生きている。


追記
ちなみに、なぜ「ユダ」を読んだかと言うと、「ユダ」の特徴を全開にだしてきたひとと触れ合って、怒ったからだった。怒れるということは、そもそもに負けてるんだよね。