らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

妹の状態

妹は私がブログを書いているのを知っている。共通の友人は、私のブログを読んでいる。だから、これ俺のことだな、とか、私のことだな、と思うことがあるのは、いたしかたない。

特定できぬようには配慮している。

それでも、個々に話をするよりかは、こうした広い場で、しかも記録残る形で置いておくほうが、まとまってていい。一から話をしなくても済む。でも、はじめてのお友達は、私のはじまり、から話していないので、ちんぷんかんぶんな話が多いのは確かなことだろう。ごめんなさい。

特に、Tくん。三帰おめでとう。でも、1ページ前に紹介した「現代の法難」は読み方が難しいから、今はとりあえずは読む必要はないよ。はじまった貴方は、本が読めるので、まず、「黄金の法」「永遠の法」「太陽の法」を読むといいでしょう。

ゴリ子はうまく説明することが難しいかもしれないけど、彼女の特徴は、ヒーリングと感性、感覚で、私も彼女に教えていただくことが多いです。頑張ってね。

 


で、昨日、妹への話は1時間に及んだ。妹がしたほうがいい祈願と研修の発案もした。それは、当たり前だけれども、ちゃんとした理由がある。宇宙世がある場合、地球に来る前の惑星での信仰をエルカン信仰に切り替える必要がある。おおよそ、宇宙世をもたない地球人はいないと思われる。地球での転生上にある信仰していた宗教分、エルカン信仰に切り替える必要がある。そして、それは潜在意識に眠り込んでいて、現在の私達は「無意識」にその思想を支持していて、認識することが難しい。

だが、たったひとつだけ、できることがある。自分の過去の人生において、信仰していないにかかわらず、触れてきたすべての宗教には「縁」がある。それを自分が冷静に見ていたとしても、嫌っていたとしても、「縁」があるから知るところにある。

そして、その上で、影響をくらわないで生きていたことはありえない。囚われているのに、変わりはない。祓えないなら。

宗教名がわかるのなら、そのほうが簡単だ。そもそものその宗教のよいところと足りないところを知り、いかに自分の人生がそれと近いようにできているかを点検して知り、絶望して捨てて、主のおしえたまう成功法則という仏法真理をいれこめばいいのだから。

宗教どころではない。今なんか特に、無宗教を謡いはじめて、宗教に無知なために、自分の思想がどの宗教と同じなのかを知ることすらできない。自分の考え方がどの思想に通じているのかを、社会にないから、知らないからこそ、「認識しづらい」または「認識不可能」な状況になっている。

自分の考え方や思想が、まったくのオリジナリティだとお思いか。

そもそも、思想というものは、「十人十色」の容態ではない。思想を「十人」が支持して、展開するとところには、「十色」はある。

思う、想う、と書くだけあって、その想うところは、心の容態のことであって、その心の容態は、摩訶止観にあるところの一念三千とは言うものの、3千種あるわけではない。想念世界はそれくらいたくさんあるよ、ということだが、3千種あることを問うたものではない。

たとえば、ある悪魔が統括する想念世界は、村がたくさんある。そのようなことで、100村の一国というふうに、もっと小さな単位で見ることはできる。一即多もそのようなもの、とも言える。

アマテラスが統括するのは日本かもしれないが、日本と言えば、ひとつの国ではあるが、その日本の神々が司る部隊はもっともっと強大である。だが、日本は、ひとつである。


さて、妹の潜在意識に住まうそれが何なのかまでは、妹はまだ外堀を掘る必要があって、特定が難しい。ぼんやりとは見えてきたが、加害者側なのか被害者側なのか、わからない。ヒントはおなじみさんや祖霊の状態、妹の人生の過去、それにまつわる彼女の一定の傾向というものはある。が、それを点検していても、「怠惰」な感じが抜けないのだと言う。「なんにもやる気が起きない」

(心の感じを言っているのであって、現実的に彼女が怠け者ではない。現実的にどうだ、という反省などはしない。現実を通して、自分の心はこうだ、という反省しか普通はしない。)


その上、かつて、加害者としての執着か、被害者側としての執着かは、ずいぶんに違う。恐怖の原因が違うからだ。実は、加害者も被害者も「体験」しているのに、「被害者」だと思いこんでいるのが常だ。そのまた、の先には、それらを理解したところの、仏を信じない他力を信じない偽我が自分を守るために編み出した「自己防衛」するための手立て、に執心していることを明らかにする。それを打ち払い、仏に委ねる、というのは、畏れなのか、恐怖なのかわからないが、手放すだけでいいのにかかわらず、体中が冷たく固くなるほどの呆然としたあきれかえった怒りと悲しみをはらむ絶望、が待っている。

まだ、加害者かも被害者かもわからない状態なので、それらを明らかにするだろう「イエスの霊訓」をリレー方式で二回ずつ、法友グループでまわしていこうという話をした。

この自己防衛と波長同通するのが、組織における自分のあり方をさすのは言うまでもない。そもそも相対比較と絶対基準の間で揺れるなら、なおさらそうだ。


ユートピア家庭を誓願した私は、根本から執着を抜くということが、どれだけの不幸にみえる現実の出来事から、それをプラスにすべて変えていくことを修練させられた。

(ありがたいと思っているが、あんなの正気の沙汰ではない。指導霊団がいてくれたから怒涛だったのか、指導霊団がいてくれたから成し遂げたのか、すら最早不明だ。)

それには、絶対に必要なのが、精舎研修と精舎祈願と毎日の教学と実践なのだ。実践は大乗部も含まれるが、おおよそ、小乗部にあてられる。精鋭隊と農民の兵隊部では結果がまるで違う。農民から精鋭部隊を目指すがごとく、教学と実践は、着実に「できる」ようになっている。


ブログに書いているように、私は「知」の鬼になっていて、「愛」が薄っぺらくなっている。そんなことは経典にも書いてある。「知」が優れているほど、「愛」が劣るものだと。そういうものなのだ。仕方ない。すべてができるわけではない。(でも、これでも抑えてきた。)

(原理シリーズのいずれか。)

私は、観察と調査、推論をかけめぐらせていたので、妹や家族の状態に「付き合いきれなかった」ことが続いた。食卓で妹が「不満」を言いたいだけなのを知っていて、冷静にものを見る脳みそのまま話をしてしまった。いらついた妹が、「バカにしているのか」と言ったので、冷たく言い放った。

「○○であるならば○○だとはそもそもに言い難い。それなお、可能性を考えるのは、普通のことだ。だけど、それ自体を冷静に考えられないで、言葉を発するのならば、そもそもに話すのをやめなさい。…言わんとすることがわからないのなら、なおのこと、言葉を慎みなさい。」

…裏で父が妹を慰めるように答えを言った。妹は憮然として、口を閉じて帰宅した。私からすると、もう、そろそろ、自分ひとりでできるようになる頃なので、距離をとって、ひとりでやりきるだけの経験をさせたかったし、褒めなくても方向性を示さなくても、真理を知っているものならば、与えるものの個性の違いはあっても、彼女自身に、心配などひとつもなかった。

その上で、彼女が、不満ひとつを「食卓の話題」にする下品さを、「おまえらしくない」と叱ったのだった。でも、彼女にはそんなふうに伝わらない。私は私で精一杯で、彼女にあった、彼女に分かるような言葉ではなかったからだ。研修から帰宅して、夫を連れて行った緊張がとけ、(就職活動のストレスも少し減り)、週末いくはずだったイベントに参加しなかった妹を見て、話をしなければならないと思っていた。

話をはじめても、憮然とした顔つきだったが、いつものように「方向」を示していくと、得心がいったのか、泣き始めた。彼女の言うところのそれは「相対基準」に生きてきた習慣から、「絶対基準」に生きる習慣を、対人において、「与える」領域での勉強だった。

私は、だいたいの仏のカリキュラムは山登りをイメージさせる。経典には、嶺と嶺を歩いていく、という表現をどこかに見たことがあるが、降りるという表現よりも登るが続くような感じを受けた。

(経典名わかったらおしえてください。復刻版シリーズのどこかにあったような。)

私は普通に山登りのように感じる。

すべては、進化と調和、調和と進化、といったふうになっていると書かれているのはこれ。反省と実践の急激なサイクルに入ったその状態を、山登りに似ているな、と思った。山を登るときは信仰を深めているときで、己心の魔をぬくがごとく、自分の心にある執着、つまり、間違った思想、を選り抜いて、仏を信じないところの、つまり他力を信じないところの、仏への畏怖とはほどとおい五毒、五蓋をせりぬいて、うきぼりにする。

それが当たり前じゃないか、と憮然とするなら、多分、それ以上のことはできない。ほんのていで、そういうなりふりをしても、できない。心がそういう状態になることではじめて変わる。どだい、心が何もしないで「想う」レベルに変わるわけがないので、行動から心へ影響させるように努力することも大事だ。そのひとつが「土下座」儀式。対人関係調和の瞑想よろしく土下座したこともあるし、本当に土下座したことすらある。

それは、相手への謝罪というよりは、自分の心をそういう状態にもっていくための儀式だ。それを取り組まないのなら、人生のライフイベントでいやというほど味わう。その自分の「いや」に耐えられるか、自分の「いや」は他と比べると楽なほうだと思ってやり過ごすか、その「いや」を幸福という妄想にすげ替えるか、は、ひとによって、「幸福の追求」のスタイルが違うからなんとも言えない。

が、どれも私は幸福だと言えないと思っている。ユートピアへ向けて、自分ができることは全部やると思っている。(が、見通しがつかないのはとにかく嫌。こわいから無理、と思うところで足踏み状態である。)

だから、反省とは、そんなふうな自分は常識的は当たり前じゃないか、と腹を立てて、涙を流しながら、自分を殺すかの勢いで、仏を見上げながら、仏の心を学ぶ自分として間違っていました、赦してください、と心から仏に降参の意を唱えるのが、反省なのだ。

もっと言えば、大悪人に申し訳ないと謝るようなものなんだ。仏をなじる大悪人へすら、だ。そんなものはどの視点でやればいいのか、わからないと思う。それは、「使命に生きるものとしての責任」があれば、謝れるものだ。

この世的なものさしで見れば、おろかなことだ。善悪を問うならなおさらだ。社会のルールを根底に覆す、罪悪の肯定でもある。

だが、ゴリ子だって、謝った。目をまっすぐに見て、憎しんできたひとに向かって、謝ってきた。現実でも。そういう実践は、本当にものを言うと思う。

そして、それなしに、個性というのは出現しない。なぜならば、使命を帯びる個性とは、光輝くを常に大きくするようにして進むものであって、「今の自分のまま、個性を表現することはない」からだ。つまり、山上りの段階では、個性は出現しない。


妹はずっと反省し続けてきた。ちょっとずるい、とFOBには言われているが、もしかしたら、本当にずるいかもしれない。反省は必ず体感を伴う。身体の違和感を聞かれながら、調整をかけられながら、ピンポイントで自分に必要な「法」を納得する形で与えられるのだから。強化するべきものと続けるものと打ったほうがいいものを理由をつけて与えられる。ふたこと、みこと、言うだけで、全部与えらえるのだから。

毎日、ごはん食べに来るから、ほぼ毎日。
(おかげで、父のいない外で話すことが恒例になっていて、その外のある区画はとんでもない磁場になっている。だから、たいてい、そこで夫も、自然に反省に入っているだろう。)

それでも彼女は結婚できない。だけど、あと少し。
回り道したけど、結婚が不幸になるようにできているおなじみさんの集団を見つけたからね。後は、それをうまく使いこなした魔を確定せねば。

精進は「仏に向かっての自分」を研鑽するもの。ひととの間にあるそれで四苦八苦すること自体が、執着。判断ができずに四苦八苦することはあってもいいが、それは自分の執着を知ることを目標として、その四苦八苦する問題自体をどうにかすることはほぼ、無意味である。

それができないで、さんざん、妹は涙した。彼女がひどいパワハラをされたときも、私は、「ゆるしなさい」と言った。「自己研鑽」できるところを探しなさいって言った。

私自身がパワハラ職場に出くわしたときは、自分の判断がおかしいのかと思って、パワハラ職場がいかにおかしいかを周囲に語った。それはおかしい、と言ってくれる周囲がいて、それでも一定のパワハラ上司を理解するというおしえを促すように話をしてくれることもあった。いろいろ調査して、何が正しいかを考えたが、途中で考えるのを辞めた。

「どちらもただしくない」
「やり方が違うだけで、どちらもたいした内容ではない」


つまるところ、仏の弟子として、仏の代わりになってお届けものを届ける係になろうとした。伝道しようとして、丁寧にお断りもいただいた。じゃあ、どうしたらいいのかなとふと考えたとき、光を流す、だった。ああ、家でやってきたことをここでもやれと。そうやって、やってみると、2年で、まったく質が異なる職場になった。霊的にも、どちらかというと、輝きはじめた。

やったことは、祈ることと自分の精進を重ねる、だった。

そう、精進とは、「現実的なこと」と言えば、大乗船が提示する目標達成が一番わかりやすい達成である。それができるほどの心の精進を重ねた、ということである。


それは、仏に向かって、仏と同じ心を持てない自分の執着を捨てるという心の行為の深さ、である。
自分が正しかったとか、悪かったか、なんていう反省は反省ではないし、そもそもに、仏と同じ心を持てないなんて当たり前だと分かると思うが、その当たり前を飛び越えて、それに取り組んでやる、やるだけやってみる、が宗教の世界なのであった。

(もちろん、在家には限界がある。K君はいつもそれは言うかな。でも、、やってるひとはいるんだよ。与える愛ができているひととそうでないひとがわかると言ったけど、与える愛ができているひとはきっと、そうだと思うよ。)

そこがわからないのは、肩だけど、たぶんルシファー系だと思うわ。まぁ、強敵だと思うわ。信仰のところ、だしね。

ここを重ねていった妹は、自分を絶対基準で見れるようになり、あれだけ嫌がっていたいろいろな布施行を進んでできるようになっていった。7月頃、K君がご本尊を拝受した折に、礼拝堂で世話する妹の顔つきを見て、そろそろ、できるな、とシフトしていったのが大きい。そうスタートから数えて、もう、半年たっている。

まぁ失敗はしているが、おおきくうねって右階段を登り始めたのは確かなことだ。でも、それは、やっぱり、今までの自分には新しい道なので、習慣のために「古い自分」を出してきて、あえて「まちがってみる」を試したりもする。「私はそんなんじゃないのよ、そんな優れていないのよ」

でも、6年、彼女もまた怒涛の修行だったので、「私はそんなんじゃないのよ」とも言い難くなってきたのは、彼女の本心から言えることだろう。ひとと比べるまでは、「自分はきっと劣っているに違いない」と勝手に思い込むのだが、そのひとと話をしていくうちに「私は劣ってはいない」ことを実感をもって理解してしまうのだった。それに対面するたびに、どうしたらいいのか、わからないで、「ひとを褒める」ようにする。

「ひとを褒めるようにすると、今度は自分が劣っているような感じがする。自分なんかってなる。例えば、お姉ちゃんが言ってくれたから私は活動をする、活動の方向性だって、お姉ちゃんが示してくれるからやれる。私にはそんなことはできない。だから、指示に従うだけで。でも、その指示をちゃんとすれば家族の役にたってることはわかる。

それに、お姉ちゃんがとりなしてくれなかったら、この家は誰もなんにも自分たちで答えを見つけることはできない。お姉ちゃんがとりなしてくれるから、出来事をとおして、痛い目にあって、体験しながら学んで、そうやってきた。あれはお姉ちゃんしかできない。だから、私は何も役に立ってない。でも、そんな自分はだめだとは思っていない。○○家は頑張っていて、本当にすごいと思う。

でも、どこかで自分は不幸だったっていう気持ちが拭いきれない。そうじゃないよってわかってるよ。わかっていても、ひとを褒めたりすると、不幸だったって思えてきて、自分は何もできていないなって思うんだよ。

自分はだめなやつなんだ、って思うほうが楽なんだよ。自分は優れていると思うと、ひとが劣っているという気持ちにどうしてもなってしまう。

○○のことだって、そう。
○○ちゃんをずっとすげえと思ってきた。自分なんか劣っているからってずっと思ってた。スペックを聞いてもずっとそうだと思ってた。でも、蓋をあけてみると、全然そんなことなかった。それが分かると、○○の悩みが分かると、そうじゃないってわかるんだよ。

それを思ったら、もうどうしたらいいかわからなくなるんだ。自分は優れていると分かると、ひとの欠点がわかるようになってくる。でも、欠点を見るのはすごく嫌なんだよ。本当に嫌。それに、欠点が分かるとどんより何もやりたくなくなってきて、どうしたらいいかわからなくなって、この状態の何もしたくない、はすげぇよ?

どうしたらいいの?」


(妹よ…それは、もう、魔がそこにいるw)