らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

1時間おやすみした

帰宅してみると、身体がちょっと楽。


疲れてたんだな、とか

貧血ぎみだったんだな、とか


いろいろ思う。


私の仕事って、いろんなことをやるんだけど、そのいろんなことって、大学での授業の経験がちゃんと生きてるなあって最近思う。


会議で発言を求められたり、自分の立場で挨拶を求められたり、要旨を伝えてみたり、資料を作成したり、判断をしてみたり。


たくさんの知識を吸収しながら判断して発言すること、が求められる仕事って、どうやるかを学んでないと難しいのかもなあって、短大や大学を卒業していない大人の行動を見ていて思う。


(私の友人達を見てだけど。どんな人も失敗しながらできるようになってるわけで。お手本があって、自分なりにやって、、を繰り返すわけで、その経験がなければやりようもない。)


逆に、私ができないこと、は、生活感のあることが多い。タイヤを交換したり、とか、家屋のメンテナンスとか、道路の工事作業とか、帰宅途中で農作業してる人たちを見ていて思った。


美しいなあって見ていたんだけど、両親がもともと兼業農家だった時期を思い出して、やってる当事者は、美しいも何も、わしゃわしゃやっているだけだ。


私もわしゃわしゃ仕事してるけど、わしゃわしゃしてないように見えるだけで。わしゃわしゃしてるときは、わしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃ、わめきちらかす。


ある児童書に、商人の挨拶について、おもしろく書いてあった。


お客様をほめちぎらかすのに、ながったらしい描写で、しかも100倍オーバーに、ご挨拶として数分使い、


そのオーバーな描写の人間なら必ず買うべき高価な(ブツは必ずしも価格に見合ってはいない)この商品


と、なんのへんてつもない商品を高価だと表現し、高貴だと謳った一般人をマッチングさせて、たくさんお金をいただくのだ。


仕事しているなら、ビジネスマナーってあると思うけど、そのビジネスマナーって、こんな感じだなあって思う。


その、ご挨拶、が上手にできるか、は、スキルなんだろうけど

(前に立って話すこととか)


この商人の言語文化みたいに私は感じる。


なんの変哲もない物品と人をマッチングするのにお金が媒介するのと同じで


なにかがなにかをどうにかなるのは、シンプルに考えれば、なにかの活動をしてるだけなんじゃないかなって。


仕事って、お金をもらうために労働することって教えられて、すごく嫌なことだとか、すごく我慢した対価だとか教えられたりしたけど


(仕事が好きな人もいるだろうが)


やってることは何かの活動じゃないか


って最近思うんだ。職種によっては、何かの活動の一端かもしれないけど、何かの活動であるのは間違いない。


嫌なことを我慢した対価やご褒美としてのお金って概念がなくなったら

(わしゃわしゃすることはあるが)


活動をしていたらお金がもらえるんだろうか、って不思議に思った。


人間関係のあれそれ、は、もちろんどこにでもあるが、最近は、人間関係の何これ、も全く気にならなくなり、自分の仕事が適正にできているかだけに考えが置かれるようになった。


そうなってくると、なんだかスッキリしたので、(周囲の役に立つかどうかだけでいい)



お金ってなんだろうって最近考えるんだ。


感謝の量とか徳の量とか、いろいろ聞くけどさ。



お金って実体がないからわからないな。

お金って紙なのに、紙の扱いを受けてないしな。保険証書は、紙だけど、制約状況が明らかになってる。


お金の価値は、国内外の情勢や動向に左右されるけど、使う人の云々は問われたりしない。


持ってるか、どうか、だけ。

お金は活動で泳いでくる。


不思議なやつ、だ。