らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

わめいた

一番嫌いな仕事が片付かないので、一日中、その仕事に浸かってみたら、夕方たまらなくなって、お姉様方に甘えてわめいた。


お姉様方は、現実的な助言をされたが、私の脳みそはすでにキャパを超えており、どのような観点も、うけつけやしない。


耳を傾けて、聞かれたことに答えてみたが、もう心も受け付けなくて、嫌いだ嫌いだとわめいていた。


わめいていたら、私が助言を求めていたのではないとお姉様方は即座に気づき、励ましをもらった。賢い人たちである。


ちなみに残業した。


一日中、何をしていたのかよくわからない。夜20時になって、ようやく筆がなめらかになって、いろんな文章を削除しはじめた。


まるで、昨日にようつべで見た、岡田斗司夫氏が宮崎駿氏について語ったことと同じである。


100作ったら1しか描かない。


私もそうだ。100の情報から1の評価をするようなものだが、1の評価を表すのに、100の情報を並べ立てるわけにはいかない。100の情報から、100の情報のいずれにも矛盾しない表現で、かつ信頼性のある根拠を論理立てて、一文で仕立てる必要がある。


今の私は、その100の情報を羅列し、結論を仕立て、100の情報を削除し、一文を作ることでしか、矛盾を生じさせないように作ることができない。


まるで、大学一年生のときに、文献研究の論文を作ったときのようだ。文献を理解し、自分のテーマに基づいて、論じることに、いちいち文献の要旨を作成すること、をしていた。

四苦八苦したが、三年にもなると、レポート作成のセンスが磨かれ、要旨を作成することなく、短い時間で、主張に基づく文献をピックアップし、容易に論じることができるようになった。

会心の出来、不出来にかかわらず、論文評価は最高評価をもらうようになった。


しかしながら、卒論はクソみたいなものを書いた。


そもそもに、自分の武器のように、根拠資料から文字をとらえられなければ、よい論文など書けない。


また、今の文書作成においては、その根拠資料から作成することも含まれるので、発狂ものである。


レポートは、だらだら長いものほど不良であるし、短く正確な表現であらわすものほど良であるので、この私の大嫌いな仕事もまた、同様である。


今の仕事で一番重たい仕事が、この文書を作成することである。私の作る文書は、決められた体裁を守っていないので、そこから直しが入る。


その決められた体裁から学ばなければならないが、その体裁を学ぶ時間も、体裁の決まりが書かれた教科書を選ぶ時間さえない。休日は、泥のように眠る。


身体を動かさない仕事なのにもかかわらず、だ。


根拠資料の信頼性は、私の知識や経験の熟練度に依存しているのにかかわらず、文書を作成する数と根拠資料作成数も同じであり、この二つの経験量は比例している。


つまり、私は、根拠資料作成と、その周辺域の知識や経験を同時に学び積み上げているわけだ。


しかし、私は、この思考や文章作成作業について、どちらかと言うと嫌いではない。のにもかかわず、本日、嫌い嫌いと言いまくっていた。


つまり、この過渡期を越えれば楽になるはずである。


ものごとというのはそういうふうにできている。


だが、どうせ100作って1になるまで削る作業をするなら、お話を作っていたいと思う。


ただ、やはり、文章を書くときには、まわりがざわめかない夜でないと無理があることや、一発書きの難しさを感じる。


ちなみに、このブログは、一発書きである。気楽なこと、この上ない。しかし、後から読み返してみると、話し言葉での表現が多く、文章の途中で、主体が切り替わってしまったり、助詞の間違いが散見される。


助詞の間違いについては、日本語の難しさを痛切に感ずる。英語の前置詞は、間違うことは稀だ。


英語の前置詞には、対象物と主体との距離や関係性をあらわすので、動作を伝えたのちに、その対象物との関係性を感じて選択すればよいのに対して


日本語の助詞には、述語が後に来るので、述語という締め括りを表現する前に、助詞を選ばなければならない。


つまり、日本語は、動作や形容をする前に、それを意識した、助詞を選ばなければならない。


速効性のない、なんという難しい言語なんだ、、、


つまり、難しいことが、私にはたくさんあるのだった。


唖々、好きなことを自由にてきとーに書いていいって素晴らしい。