らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

繁栄思考

幸福の科学で学んだことで、一番感嘆することは、繁栄思考である。

 

どういうことが富を産んで

どういうことが貧乏思想なのか

 

誰も教えてくれないし、確信がないぶん、判断したり、選択することが難しく、相対比較で、自分をフィードバックするしかない。

 

一番優れた技術として、お金の使い方である。

 

人は、よく、お金を、自分を喜ばすために使う。喜びが少ない人は、自分を癒すためにお金を使う。その使い方を誤ると、節約しているつもりが、その節約のために巡り巡って、またさらに消費を産むことになる。

 

コスパがいいのは確かに重要である。

 

 

でも、自分がどうしたら満足するかを知らない人は、我慢できること、我慢したらいけないこと、が分からない。

 

 

未来に投資することと、自分をよく知るために、消耗にしかならない無駄遣いを知ることも大事である。その用途について、何が投資になり、何が無駄遣いになるかは、

 

実は、人によって違う。

 

たとえば、私の息子のお金の使い方は、私にとっては無駄遣いだが、私の息子にとっては、満足を得るために必要経費になる。

 

最近、やっと、二次元嫁、から卒業したらしい。だが、その名残はもちろん彼に残る。

 

けど、その活動を通して、彼が学んだのは、県外までの電車の乗り方だったり(アニメイトに行く)、本を読んだり(よくわからない小説)、ラーメンのこだわり方だったり。好きなことを通して、ひとりで、何かの社会に触れることができた。

 

ネットトラブルも小さく経験して(バカなことで少額の詐欺にあった)、社会勉強もした。

 

それらを一つ一つ見ると、くだらない失敗や青春らしい活動にも見えるが、何ひとつかけがえのない、彼の経験である。その経験、に、お金が生じているだけである。

 

例えば、留学費用があったとして、留学という経験にお金を使うわけだが、留学という言葉だけが先立つように感じる。

 

留学という経験、がいいものになるか、悪いものになるかはわからないし、その経験で何を味わうかは人によって違う。

 

私の場合、外国生活というより、自由にならない生活の息苦しさや、日本にはない自然の匂いとか、裸一貫で何もない自分だけで生活する図太さだとか、語学ではない方の、人生における開き直り、を経験した。

 

それを得るまでの鬱は、ひどかった。20キロ太った。少し話せるようになった頃、帰国して、今はほとんど話せなくなった。

 

でも、あの60万は、確実に、私の味わい、として、組み込まれた。そういうふうにお金を見ることを、高額研修で理解したときに、日常的に、そういうふうに、お金を見るようになった。

 

必ずしも、自己投資という名前にかこつけて、優れたる自己投資、のみに使う必要はないが

 

何か本質的な前進を見込めない、無駄な経験だとか繰り返しの経験でしかないものには、消化とか、消費、として考えるようになった。

 

前進、とは発展的なもの、を意味づけて考える。

 

その発展とは、心的な発達もあるし、生活の発達、関係の発達もある。安心という維持は、ケアと考える。

 

ものごとをいつもそうやって見ているのではなく、研修を受けて、自然と、そうすることが息を吐くのと同じようになり

 

ときとして、発達が見込めないものに関して、私が許容する時間がオーバーするときには、ひどくイラつくようにもなった。そのイラつきには、ときにはあきらめると同時に、その時間の目標をリフレームすること、も、いつしか習慣にもなった。

 

それは、楽に生きること、だ。

 

何にお金や時間を使うのか、よく考えるとき、自分の習性をよく知らねば、何が自分に有効なのか分からないので、自分を楽に生きることだと思う。

 

それは、何がしたいか、何を欲しているのか、自分の心の本当を自分に聞くこと、でもある。

 

若い頃の無駄遣いの最たるギャンブルに投じたお金について反省したとき、高額研修で、指導霊は

 

「どろんこまみれになって、サンドボックスで遊ぶのと同じ。あなたは、生活のなかで、どれだけお金を使えるかの感覚を磨いて、投機の感性を磨いた。サンドボックスで。だから、無駄ではなかった」

 

と、私を褒めたのだ。あの経験は、私は忘れない。あの、ぶっとんだ二日は、ぶっとんだ考え方のオンパレードで、富を集める感性とは

 

人間らしくない感性

 

だった。

 

今日、私を変わっていると家族が私を評していたが、私もそう思うが、最初からそうだったわけではなくて、こうしたありとあらゆるジャンルの指導霊の叡智に触れたからだと思う。

 

お布施や植福は、愛で行うと教えてくれた指導霊もいた。

 

愛がすべて、という意味のわからない夢で教えてくれた指導霊もいた。マトリックスの映画みたいに、文字列の雫がおちるような、文字の流れのなか、スロットマシーンのように、文字のブロックが左から、ズドンズドンと落ちてきて、何が書かれているのか、ジッと見ていたら、それが

 

愛 が す べ て

 

と表記されたときは、苦しくて毎日泣いていたので、愛をひとにくべろ、と言われたとはわかっても、私には無理難題で。最終的には、存在してるだけで影響を与えるようなすごい指導霊が自宅に来て、数週間立ってらっしゃった。コタツのあったご本尊部屋に。その間、家族は喧嘩ひとつしなかった。

 

とんでもない加護を受けることが、指導だと思う。良いことの感覚、を身につけられるように、幸福を指導してくださるとは、そのままの意味で

 

神の加護を受けて幸せを味わう

 

だと思う。その加護、つまり幸せを通じて、過去の自分の拙さを、初めて反省できる。

 

その神との出会い、指導霊との出会い、が、幸福の科学との出会いと同義である。

 

 

私は、本当に神様から愛されていて

(本当はひとは皆同じくらい愛されているが、みんなは知らない。私は知っているから、少し人より受け取る量が多いかもしれない)

 

お金の使い方も、無駄遣いが減るように指導もされる。月の祈願を忘れた今月、祈願代と同額の医療費がかかった上に、顔には傷が残っている。また、先ほどの話ではないが、先月、無駄遣いはかなり大きくなっていた。

 

でも、気づきとして、おもしろいことがあった。なんか、朝の起き上がりが違うと思って、なんだろうかと理由をさがした。もしかしたらと思って、支部のスケジュールを見たら、前日に月例の祈願があった。

 

こけた際、顔から行けと頭に響いたので、日にちも確認せず、祈願書を出してきたのさえ、忘れていた。

 

実は、月例祈願は毎月かけると決めていたのに、年末年始で忙殺され、すっかり忘れていたのだった。戒として、月例を習慣にしなければと肝に銘じた。

 

昔は、その月例祈願を無駄遣いだと思っていた。一般的な感覚だったので、毎月、祈願というものにお金を使うこと、が、私にはあまりにも、理解できなかった。

 

はっきり言って、どぶにお金を捨てるようで、お金に申し訳ないとさえ感じていた。気持ちのもちよう、に、お金を投じるくらいなら、宝くじを買った方がいいとも。

 

祈願は、気持ちのもちよう、ではなかった。

 

(最初は、祓ってもらうこと、で体験したのだが、あれは、おもしろすぎるもの、で

 

幽霊が見える人、見たことある人なら、私ならうまくガイドして、光の流れを見ることができると思う。)

 

あれを体感してもなお、加護を受ける、が、神に申し訳ないとなぜか感じていたが

 

今はもうそんな感覚はまったくない。

 

ご飯を食べるのと同じことだと思っている。

 

 

起き上がりが違うと感じたあの日から、起き上がりが悪くて、朝出るのがギリギリで、仕事場に到着するのもギリギリだったのが

 

ちゃんと起きてるし、同じ時間に家を出ても10分早く到着してる。

 

 

そんなことだったりする。小さなストレスフリー。

 

ダラダラ書いて疲れたので、おやすみなさい。