らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

疲れている

忙しくなって、余裕がなくなって、疲れている。

 

若い時は、周囲の期待に応えるのに精一杯でショートしていたが、おばさんになって、自分の状況を大事にするようになった。

 

それはそれで。

 

ふと思うのだが、褒められたかった、自分、が強く出ていたのではないかと思う。

 

今は褒められようが、感謝されようが、おかまいなしで、ただ、立場に適正かどうかと、自分の欲求が満たされているかどうか、にシフトした。

 

自分の欲求といっても、体力的なこと、や、自分の健康管理にまつわることで

 

じゅうぶんに睡眠がとれたかとか

食生活が乱れてないかとか

体力がととのっているかとか

 

自分の状態のマネージメントに伏している。

 

 

今、ちょっと体力的に余裕がない。

 

だけど、仕事柄、資格獲得として、知識は必要でYouTube垂れ流しを再開する目処がたった。

 

それでも、YouTube垂れ流しがせいぜいって笑

 

能力、を、よく考える。

 

 

能力が高いということと、社会性の獲得ということ、をよく考える。

 

自分のこと、ではなくて。

 

 

ひとの想いと社会性は一致しているとき、次に課題となるのは、能力の向上だということ。

 

 

この、人の想いと社会性の一致は、いろんな軸があって、いくつかの要素、を見ていかないとならないが

 

宗教的要素のうち、利他、と、社会性は一致しているのが、実は第一象限になると思うのだ。

 

社会に有益であることと、仏の理想、が一致すること、をみいだしたとき、正道において、自身の精進にならざるを得ない社会活動は、

 

欲にまつわる不幸(心も現実も含めて)は、一掃されるだろうと思うのだった。

 

 

そのうち、行動にまつわる、現実の、つまりは、自己防衛としての偽我の所産たる、この世的戦法は、愛が欠けることがまま見られる。

 

そのあたりの心の精進を問うとき

 

現実の行動改善を主眼としがちで、心における自分の魂の修行を置き去りにしてあることは、

 

その人自身が菩提心を持たずしては、取り組めず、だがしかし、やるとなれば

 

不幸だと思う実態は、心が変わることで不幸とはならずに、生産性のある社会活動(家庭も含む)に組み変わるはずだ。

 

それは、己の心と向き合わねばならない結構な心の苦しみを通過するもの、だと思う。

 

それなくして、利他、などが起きるとは思えない。

 

だから、自分を知る作業、人を知る作業、世界を知る作業、仏を知る作業を丁寧にやって、自分の苦しみを捨てることは重要に思う。

 

自分の人生をどうやって布施するべきかは、その作業の過程にふんだんにあらわれるものでもある。

 

 

何を捨てたのか

何のこだわりを捨てたのか

偽我はなんだったのか

自己防衛に使っていたものはなんだったのか

 

自分を守るために秀でたその力は、第一象限ど使われるとき、善となるのは必至だが

 

その自分を守ることが自分の人生のうち、どうしたことだったのかを見つけられなければ、善の力に転換することは叶わない。

 

だから、人と自分の間に善悪だとか、喧嘩両成敗だとかで判断することは、この世的な処方でしかなく、魂の精進にはなりえない。

 

ただ、そのまま、で安寧し、そこから何かしらできること、を布施すること、は、精進に値する。

 

どれを選ぶかは、人にもよるし、気概にもよると考える。

 

ただ、私は、人をさばいたまま、さばいた人への対処法を得ただけの反省には、意味がないと思う。渦中にあるときはなかなかできないが、ゆるすことを経て、愛するにいたるとき、ようやく自分の精進を考えるものだと思う。

 

それを経て、ようやく、リテイク、にも似た、同じような場面で、あなたはどうするか、を心身ともに見られるテストらしき現実がつきつけられる。

 

このあたりは、一人生で通しでやる人もいれば、人生でやりきれない人もいるし、神仏の力を借りて何回も成功させる人もいる。

 

何回ものカルマをクリーニングするのに、神仏の力を借りずしてできようか。

 

何回も救っても手からこぼれると仏がおわすように、横目で、伸びが停滞する様子を見ては、私は、火に身をこがすように

 

仏が与える何がしかの、自分にとって無理難題と思われる事項に

 

疲れていても、取り組んでいたいと思っている。

 

少しずつしかできないのは、慣れる、があるからだ。慣れ、がなくては、恐ろしくて向き合うことが難しいことがあるから、

 

 

スモールステップをたくさん入れている。