らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

わがままの正体

仕事で嫌になることがあって、試験で嫌になることがあって、息子の勉強したくない事件があって、それについて考えを深めていた。深遠なる悟りのある読者さんは、私のそれ、が、息子の姿としてあらわになっていることをふむふむと考えながら読んでいたに違いない。

 

でも、私から見て、それはそうであっても、周囲のそれもまた、私の姿と同様に見えるので、私もまた、起きてくる状態について、考えを深める必要があった。

 

また、ネガティヴの塊みたいなエネルギーが首元に重々しげにやってきて、私はそれと会話することもなく、ただ、その奥底にある結論として、「邪魔であること」のために、「死ねばいい」という言葉だけを拾っていた。

 

慣れたもので、来ているのだな、スパンが早いな、ちょっと面倒だな、と思いながら、自分をもてあましていた。できることは粛々と、淡々と行いながら、試験のことや仕事のことを考えていた。そもそもに、この試験には大学卒業時から考えると、たぶん、自分の人生にあるものが遅れてやってきたに違いない、とも思えて、期待と未来と新しいに胸はせる20代とは違っていた。

 

だいたい予想がついていて、だいたいどういうことかがわかった私にとっては、おもしろくもなんともない未来を予想し、「やるせない」状態でもあった。

 

だいたいにして、それは私にとって学ぶべきことがないようにも思えて、心は抗うものの、そこにあるとき、まるで習慣に体が動くようにして、職場のそれも散々に拒否的にまたは否定的に、または、抵抗を示す私の主張とは別に、行動した。

 

批判的な意見、思いとは別に、ただ、そこにいて、行動で動いたとき、ただ、思い悩んで考えていたときとはまったく別の視点を得て、まったく知らなかったことを知ることができた。

 

憑依はそれ相応に見られるものの、その憑依したあらわれを知るときに、内側にあるその他の心を知ることがない。だが、行動で示したときに、他の内側にあるものに触れて、その延長に、他の内側がなにかに反応して、その内側の、つまりの、その方の純粋ななにかがあわれれるような言動に触れたとき、

 

ああ、そういうことだったのか

 

と人の心と自分の心にある蓋をとりはらわれて、ついには、仏のひとを思う心のそれと、自分の心の蓋がとりはらわれたように、

 

はたと、その段において

 

自分とひとはそれほど違う立場にあったわけではないこと

自分とひとの心はそれほど違ったわけではないこと

それを知ると、自分のその思いは被害妄想であったこと

自分の精進のために環境はあったこと

 

おおくのことに合点がいき、その上で、なぜ、この環境に転生したのかの合点も、薄く納得がいくようになった。ああ、私は、また、こうして、20年前のやり直しをしているのかと思えれえば、やはり、やりたくないものだとも思い、かと言って、避けられるものだとも思えず、また、かと言って、それが定められた人生であることの確証もないまま、ただ、未来に与えられるだろう生活のよいところに、考えふけっていた。

 

また、はたとわかったとき、しばらくして、職場の近くで事故があった。大きな衝突音、救急車のサイレン、職場のざわめきを感じながら、ただ、ちょっと、まさかな、とは思いつつ、過去にあった、私自身の「己心の魔」が離れたとき、魔が逃げ去るそのとき、目の前で事故を見ることが多くあったために、もしかしたら、という思いもよぎったが、粛々と仕事に勤しんだ。

 

己心の魔が祓われると、タイムラグがあった上で、何かしらの「知る」ということが起きることもまたあり、ちょうど、半日経った今、わかったことがあり、あまりにも、自分にとっては衝撃的で、かと言って、だれに話したら胸がすくのかわからないまま、最近、ぐっと親しくなった方に連絡をした。

 

理屈は通るが、受け入れがたい

 

私もそう思った。そう思って、なにか言おうとしたら、隣人のおばさまが、うちの猫がぐったりしているから大丈夫か、と声をかけてくれた。私は起き上がりのパジャマで、わかったことをもって、呆然とした、オフの状態であったため、おばさまも、申し訳無さそうにしていた。

 

猫は、ただ、暑くてバテていただけだった。

 

心が拒否していたそれを受け入れると、だいたいの自分の未来は想定される。そこで、私が「よいところ」として与えられるなにかを考えたときに、

 

経済的に安定すること

余暇を創作活動に使える基盤が作れること

家庭を放置することはないこと

今までの自分のキャリアが生かされること

 

などが挙げられるが、余暇を創作活動に使える、というのが一番大きかった。創作活動に必要な資源も、経済的に安定することで、与えられる。

 

そう思ったとき、夫がなぜか執心している、「仁」というドラマを思い出した。恋人の手術に失敗した医者が、江戸時代後期にタイムスリップして、未来の技術を江戸時代に遺すことで、恋人の病気治療に繋がるように努力奉仕するドラマである。私は、世間のそうした流行りに疎く、また、連続ドラマという自分のスケジュールを管理される状態を嫌い、恥ずかしながらも、最近はじめて、このドラマを見た。

 

夫によると、

 

主人公はいつも全力で走り込んでいる

主人公はいつも泣いている

 

ドラマであり、私もそれを見て、なんだかキャラが固定化されているドラマだな、と思って見ていた。途中、試験に心が翻弄され、準備のために離脱した。だんだん、しんどくなって、週末に準備しようとして、やめて、見ることにした。まだ準備はできていない。

 

昨日、ちょうど、ようやく見終わった。私は、「仏法真理てんこ盛り」である、という結論に至った。信者さんは是非、どこに仏法真理が織り込まれているのか、よく見てほしい。

 

このドラマはなぜ見ようと思ってしまうかというと、ただ単に起きる出来事が多くて、どうなってしまうのかという観客の動機づけが高いことが理由である。製作技術、に関しては、あまり、それほど高いとは思えないが、ただ、役者が美しくみえるカメラワークは確かのように思えた。ドラマだからだろう。映画とドラマは違う。

 

漫画とドラマの違いもまた、「あらすじ」の違いをとって、納得がいくものでもあった。ドラマ制作にあたって、その「タイムスリップ」のからくりをどうしたらいいのか、万人に受けるように考えたあのラストシーンは、製作者側の苦悩を映像化しているだけのようにも思えたが、それでも、原作の訴えたいこと、を重要視したためのそれだと感じられ、原作者の心、を守ったようにも思える。

 

キーワードを考えていたら、ドラマのなかで繰り返される言葉

「神様は乗り越えられる試練しか与えない」だったか、「神様は乗り越えられない試練は与えない」だったか、忘れたが

 

「乗り越える!」

 

と苦悩する状況に、自らに課するようにして、「乗り越える」と言い聞かせてきた言葉がそれのようにも思えた。

 

文化というのは、無意識に教育を施すものだと思っている。文化人がこうして、より幸福になるためのヒントをドラマなどの娯楽に織り込むということは、素晴らしい教育結果を生むと私は考えている。

 

私は稚拙であるので、先人たちの智慧という今ある娯楽を見ては、その方向が、絶望と苦しみ、揶揄と不信に通じているのをとって、それでもよいところはなにかを考えるのに、6年は費やしている。それでいて、自分がおもしろいと思えるものを探した。

 

何が必要で、何が無駄で、何が素晴らしくて、何を選びながら、自分がおもしろいと思えるもの、がだんだんわかってきたところで、今という地点にある。

 

「仁」という話に出会って、江戸時代の風俗界隈にあった女性を救い出すような物語を作りたいとした原作者のそれは、私にとって、大きな理想となった。自分が作り変えたいものを作り変える、ウォルトのような発想でありたいと思う私は、そのモデルをこの原作者の思いと結果に見出し、その織り込まれる思想に感動し敬服し、尊敬した。

 

そこまで来て、平凡に生きるなかに希望を見出し、それをもって、息子の未来を観た。

 

ようやく、私と息子のそれがしっかりと一致ポイントをいくつか理解しつつ繋がって、彼が与えられている未来のために、どうやって乗り越えるべきか、が、はっきりと。はっきりとわかったのであった。

 

あとはどうやって伝えるか、どういう戦略をもつか、そして、私自身をどう生かすかでもあった。それがわかったとき、神は自分に多くの負担を強いるものではない、ともわかった。

 

負担を強いるものではないこと

かと言って、ただ楽しいだけではないこと

精進の実態は、自分を成長させることではあるが、この世にモデルはあっても、それに習うようにして自分の使命はあるわけではないこと

ひとはひらたく公平に精進があり、精進を推進させるものとしてはあるが、自己は自己がマネージメントするようにあること

ひとと自分を比較し優劣をおいて見ているうちは使命を発見することはできないこと

 

使命を果たすことが重要で、自分が何をするかは重要ではないこと

使命は精進のそれに必ず通じていて、自分の精進の状態を知らずして、使命を理解することはできないこと

 

 

言いたいことはたくさんあるが、それは言葉としては、私自身も3年前に言えたと思う。でも、私が3年前に理解していたことと今の理解はまるで違っていて、具体的かつ視点が精密にあるということは明らかなことだった。

 

息子の主張、は、生きる者から見て、あまりおかしいことではない。私がわかったことを話した御方も、それは間違ってはいない、と話した。私もそう思う。では、それとどう折り合いをつけるか、が問題の焦点であり、折り合いがつかなければ去る、と思ったのだ。それでいいと思ったのだ。

 

でも、違っていたのだ。

 

あの世のそれ、とこの世のそれ、の複雑な仕組み、を考慮に入れてなかった。あの世のそれ、から考えると、息子の主張、過去の私に通じもするその主張は、仏の目からみて、「わがまま」であるとわかったのだった。それは、息子や私の使命に通じるものでもあった。

 

息子を見ていると、夫と私の課題を写して見せてくれるようにあるので、夫も私も、自分の精進に対して、息子という慈悲を見る。でも、この世も同時にあるので、子を思う親という普通の面々を見せることもあるが、実際、息子の苦悩は、私達が悟らないからであるという無力感にいつも苛む。また、息子を愛するあまりに、他を攻撃することもあった。

 

ここしばらく、家族の文化として、どういう思想を保持したらいいのかを、激変した家族の実態を見て考えていた。父も母も、妹二人も、夫も変わった。大人が大きく変わった。大人が変わればこどもも変わる。そのなかで、長男は色濃く苦しみを、こども代表として請け負っているようにも見える。この世的な力があまり高くないので、私はそれを心配して、この世的な地力を同時に付けることが、防衛術になると戦略を置いた。とても常識的な結論だった。でも、そのなかでもがく苦しみの意味が、ようやくわかった。

 

彼らは、この世的な力や肉体は未熟ではあるが、精神的にはリーダーである。だから、わがままを抑えつつ、本来の使命、を歩むことが望まれ、それ以外の局面では、わがままを抑えるように、他のわがままか未熟さに付き合いながら愛を与えるようにするよう望まれている。

 

自己認識とそれがずれたところ、または、思いとそれを実現するだけの実力の客観的評価、歪がおき、「自分のやりたいこと」が使命から微妙に外れ、「世間の苦しみ」に正義を突き出し、その歪に、自分への劣等感と不信、暴力、恐怖などといった攻撃を受けていること、がようやく視覚化して、根拠を以て、説明できるたけの、私の理解が追いついたのだった。

 

自分の人生を、自分の使命を、知らないということは、不幸なものであると思うが、それを受け入れない心が、おそらくは、それを知ることができない蓋になっている。

 

・・・正直言って、あまりにもそれは厳しく、あまりにもそれは難しい、と私は思う。

 

 

でも、自己責任だとも思う。

 

 

自分を知りたいという希求が、「自分はこう思う」が強すぎて、仏が自分にわかりやすいようにオーダーされたそれを気づけないだけ、だというのは、そのとおりだが

 

三宝に帰依する部分もそうではあるが、人生としての実際、つまり個人に課される実際のありさまの話である。)

 

 

ちょっと厳しいのではないか、と思う。

(いや、これがわがままかw)