アラハンとして
そういや、精舎には禅定しに行くわけだが、結構な雑念がひどいなかで、瞑想もしてきた。
そのときのメッセージが以下。
おおきくものをとらえて
おおきく動かそうとせずに
小さく隅によって
小さくして生きなさい。
何かをしようと表に立たずして
まずは、アラハンの境地を高めなさい。
実際の言動に目を向けるより
アラハンとしての精進に重きをもっとおきなさい。
(感触として、現状は、その状況が全体の三割なので、8割まで高める。そうすると、まわりへの影響に無駄がなくなるそうだ。もちろん活動域は減らさずに、だ。このあたりは言語化はされずに、直感でいただいた)
そうした先の未来のこと、も話されたが、職場のいろいろが浮いてきたので、それを眺めていた。情緒的介入の、話だったかもしれない。現実に翻訳すると、個を尊重する話だったかもしれない。
確かに、そうあること、は、主人を置き去りにしてきた過去を見ると、大変に後悔があるので、恐怖してある。
私は変わったので、どんな人にも、導きを、と動けるようにはなったので、それでも大丈夫だと思える。
そうやるとなると、どんなに自分が楽か、よくわかる。その状態にあるとき、光が流れ続けるので、自分は楽なのだ。
那須で、人を世話しすぎ、といただいたのも何年も前。でも、私は、家族が心配だったのだよ。
でも、家族も、もう流れにちゃんと乗っている。