らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

最近のこと

なんだか気になる方と、距離が遠くなっていく方と、いろいろいる。

 

距離が遠くなることは悪いことじゃないし、気になって近づくことも、悪いことじゃないと思うんだ。

 

ただ、やっぱり、気質として、騒がしい、かしましい、やかましい、のは好きじゃない。

 

私が授業するときは、まるで正反対だから、私を知るひとは驚くかもしれない。騒がしいし、やかましいし、いろんな意見をせりださせて、まとめる感じだから。

 

落ち着いて、自分のことを話す、が好きかもしれない。いろんなひとの言葉の癖もだんだん気にならなくなってきた。

 

癖になってる自分を不幸にする言葉ってあるもので、私にもある。そういう言葉って、背後でひたすら、ストーカーのようにわめいてる霊的存在に影響されてるのは、見ていてわかるから、気にしてしまうんだけど、そろそろいいかなって思えてきた。

 

本人が知りたいなあ、分かりたいなあ、変わりたいなあって考える余地がでてきてからでいいんじゃないかなって思えたとき

 

ちょっと心配だったけど

 

ま、いっかと思えたとき、自分がすごくちっぽけな存在になってちょっと寂しかったけれど、随分と楽になって、自分のことを考える時間が増えた。

 

それは、とても、緩やかな時間で、その緩やかな時間の流れが、それでいいんだよ、と言われてるよう。

 

夜中DVDかけ流しを昨晩再開したのだけど、ある部分で必ず起きて、同じフレーズを聞く。できることを粛々とやっていく、というような内容。

 

私ができることは、そんなに大きな展開になるものではないけど、もっと身近なところで、愛したいひとに伝える係だなと思う。

 

真ん中妹が、両親への反省と感謝の研修でガチ泣きをした、とか、友達のはじめて精舎宿泊とか、チケットお渡しのお礼をいただいたりとか、、、、

 

今日は、お母さんが確執のあるAさんのところに行ってきたし、ああ良かったなあって思う。

 

かけ流しで、よくわかったこと、は、なんか、まだ、いる、ということ。

 

生誕館でも、睡眠中、光が与えられるものの、同時に、自分から流れて、、、つまり、光を吸収されてるエネルギーの流れ、が見えた。それは、もしかしたら、マスターの条件にあるように、一時的に私を媒介にして、主と繋がっているひと、かもしれないし、悪たる霊的存在かもしれない。

 

どちらにせよ、いいことなのか、普通の状況なのか、悪いことなのか、判断は難しい。

 

私は、よく、世話好きね、と評される事もあるんだけど、それがいいことではないのは、ちょっと分かる。

 

なんだか、まるで、私が一方的に与えているような形をとるそれは、よろしいことではない気がするのだ。

 

人と人は

 

愛し合い

むつみあい

信じ合う

 

互いに与えあう存在なのに。あたかも、一方的なこちらからのそれで、導くことがなかったように、一方向のそれは、人として、おかしいと思うんだ。

 

そんな自分を傲慢だと思う。

 

なんだか伝わった感じがしないなあと思う人から学ぼうとしてみたら、私の視点から伝えていることは確かにそうかもしれないけど、私こそが学ぶことがあったので、特にそう思える。

 

その人の人生の煌めきは、その人の力の特徴とか個性だとかで、良きも悪くも、確立してある手立てをとる。

 

祈願の功徳を確信している人とお話をして、私は、自助努力とか冷静になって物を見ることを伝えたんだけど

(背景を思うとそう感じた)

 

でも、私こそが、他力の偉大さを信じられていない部分を見つけたので、そのお相手のお話はどういう着地点になるかはその方の精進だと置いておいて、私は、その他力の偉大さを知らない自分への反省に入った。

 

そういうものの見方は、とても、楽に思えた。

 

 

フロンティアさんとは仲良し、で、幸せを感じる感覚器の違いを見つけておもしろかった。ひとを知るって、自分を知ることと同じことだね。