ごりこのつぶやき
ゴリ子は、いま、なんだか、お年頃なのか、むくれている。
ゴリ子は、生まれてくる前に決めてきたと信じている、今生の指針である、潜在意識を綺麗にする、をあきらめてしまったという。
半分はできたかんじがあって、もう半分はできていないと感じる。
その半分をやるのにものすごい大変だったので、あと半分、できる気がしない、とのことだった。
なぜ、半分一気にできなかったかというと、どこかで嘘やろと思っていたからだと言っていた。
潜在意識は、無意識領域のもっと下にあるので、これにダイレクトアプローチするのは、難しいばかりか、やり方すらも限られていて、現実からやろうとするときの大変さ、を思ってしまうのだった。
このあたりは、密教的な秘技。
プラス教えに潜在意識のマインドを矯正するようなものなので、浮き出しも難しければ、セットもまた難しいのだった。
このあたりのなんというか、失速状況の自分に悪魔的なものを感じるとか、で、投げやりなこと、を言いなさった。
たぶん、自分に満足してないのだと思う。
はっきり言って、そのようなことに悪魔的なこと、は、はらんでなくて、ただ、やんなっちゃっただけ。
大きな壁をどうよじのぼれと言うのだと途方にくれているだけだが、本人は自覚していない、類稀なる向上心のせいで
自分はだめだ
と言いすぎているのだった。
なんだかんだ反省したりして、母親はいてくれるだけでありがたいとか気づいて、泣いてたりするくせに笑
そして、悪魔のことをぶつぶつ言うなかで、ちょっと待て、と伝えたことがあったので、なんとなく書く。
ゴリ子は
◯神様だけいた時は、悪魔はいなかった。なぜなら神様しかいないから。
◯神様がみなをおつくりした。そのなかで、神様に向けて、勉強しないと反発したのが悪魔だった。
◯神様がいなければ(勉強がなくなるので)悪魔はいなくなるが、神様はいなくなることは起きない。
◯悪魔がいなくなることはあるのか?でも神様がある限り、悪魔はいなくはならないと思う。
という話だったので、もう一度、おさらいした。
◯仏が、たくさんの御魂をおつくりになった。仏は、その御魂を内包する高次元の存在なので、御魂がなくなることがあっても、仏はなくなりはしない。
◯仏に向かって精進するように、御魂には自我を与えた。(仏性のことで、偽我ではない)
◯その精進が与えられる限り、御魂は未熟な状況にある。未熟な状況をとって、悪魔だとは言えない。
◯未熟な状況で、精進をしないで、仏になりかわり、精進をやめさせようとする、仏の方向と反対向きに動くものが悪魔の働きである。
(なくなるかどうかはわからないが、少数派なのは確かである)
◯なので、悪魔は、精進に向かって、失敗したり、衰退したりすることに喜びや興奮、幸福を感じる。それを積極的に行う場合、悪魔と同通箇所が大半をしめてくるので、悪魔と言えるかもしれない。ただ、魔と同様に、大物はわかりにくかったり、気づかれなかったりするので、気をつけたい。
◯未熟な御魂は悪魔ではない。仏に向かって精進をしようとする限り、失敗しても、絶望しても、悲しくても、精進をしていこうと続ける限り、悪魔と同通するとは言い難い。
◯未熟なために、精進を妨げようと悪魔の攻撃は受けたとしても、それをして、自分が悪魔だとは言い難い。無知な状況ではあるが、それは未熟なだけである。未熟な存在は、多い。
◯未熟で無知な状況である場合、悪魔に同通する箇所から操作が入る場合もある。ただ、厳密に言えば、それをして、上記同様、操作されたからと言って、悪魔だとは言いがたい。
ただ、あちら側の影響を受けているのは確かではある。信念として、お持ちにあられることもある。善人界に行けないか、と言われたら、神の存在を否定して、人に不信仰を説けば、善人界には行けないかもしれない。
でも、神の不在、について、納得がいかないことを人に吐露したくらいでは、その人の迷いでしかないので、特に問題はないと私は感じる。
信仰ある人を積極的に攻撃しようとする腹には、たいてい、魔がオーバーラップしている。けど、それは、攻撃対象である信仰ある人がねらいであって、入っている人云々ではないと思われる。
ゆえに、オーバーラップした人を攻撃された人が救わねば、誰が救うのか、と私は思う。
たいてい、オーバーラップ時の、言動すら覚えていないものだし、その様子は病気としか言えない。
信仰が、医療の技術向上や、科学の技術向上を否定するもの、この世的な豊かさを否定するものではないのと同じで
(豊かさを否定するのと同じだ
不信心が、そもそも現実の豊かさのせいでも貧しさのせいではないので
(貧しさや苦労、絶望のときには神頼みしやすいので信仰の入り口とはなりやすいが
そんなときには、今まであまりやらなかった精進をやるとよろしい。
理屈を理解してるだけ、ものすごくもったいなさすぎるので、私としては、清水寺の舞台から飛び降りていただきたい旨を伝えた。
魔が入ったりして無意識に操作攻撃された、教えが曲がる、未熟な状況にある人をとって、自分が闘うべき魔を確定するために熟考することはあっても
未熟な状況にある人を、魔と断ずることはあってはならない。
このあたり、丁寧に話さないと、理解が同じではない人と勘違いが起きてしまうかもしれないので、気をつけたいと思いました。
悪魔がいなくなれば幸福になるとか
神様がいなければ、悪魔はいなくなる、とか
精進がなければ、悪魔はいなくなる、とか
そういう話になってしまうので。