らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

何をしたいのか

未来の自己像を描くことができなくて、困ってきた。それは、自分の価値観が180度変わって、また、180度変わったときに、起きた。

 

どうしたら、180度変わったところの理解が、また180度変わったところの地点に融合するのか、全くわからなくなったからだ。

 

それまで、人生観が変わったことはよくあったにせよ、部分的で、全部でくるっと回転したわけではなかった。

 

全部でくるっと変わったときに、地上で生きてきたすべては失われてしまった。

 

 

それを、ゆっくり再構築しながら、地上で生きてきた自分をゆっくりと、ゆっくりと、形づくるような再構築を、

 

180度回転したところのそれと織り交ぜながら、再構成をしてみると

 

まるで赤ん坊のように、どう生きたらいいかわからない恐怖がついてまわって

 

とにかく、とにかく、普通に生活すること、が必死だった。

 

ゆっくりゆっくり勇気を出して、ゆっくりゆっくり、人生観に織り込んでいった。

 

そこに魔はあるもので、織り込まないように妨害してくるものだから、180度回転したところのそれで維持したがったが、それは、認知症のような症状さえでるもので、生きているとは思えずに、バランスをとるのが難しかった。

 

認知症は脳波がθ波を出すもの。θ波を出すだろうホワイトアウトと私が呼ぶものは、日常茶飯事に起こすのは異常なことだった。

 

だから、180度回転位置に維持すると勘違いしていた時期を経て、再構築に進もうとしたとき、どうやったらいいかわからないで数年かけてきた。

 

数年経て、自分は小さきもの、だと安心するようにもなった。自分の精進を固める、でよいことに安堵もした。

 

ゆっくりゆっくり指導は入り、まるで、光の渦がうねりひろがるように、それを見てきた。

 

なんと幸せなんだろうと、なんと幸せなんだろうと。

 

そのゆっくりな時間に、私の傷をゆっくり癒した。癒されていくと、光の渦は広がっていった。広がらない場所もあった。広がらない場所は、自分が考えてそこに自ら投じた場所だった。

 

何もせずとも、何も考えずとも、うねりに身を任せて時間の流れに身を任せて生きているだけで、広がっていく。

 

わかったこともたくさんあった。

 

果てがないとも思えた。

 

 

でも、時間があるからわかっていく、のであって、自分で分かろうと思考せずとも、ただ、自分が何をしたらいいか、何をわかったらいいか祈れば、分かることがわかった。

 

自分が残らなくてもいいから、何かのために、何を遺したいか、というシンプルなテーマになるまで

 

自分が何をしたいか、どうなりたいか、どういう未来のためにどう努力したいのかなどという試行錯誤があった。

 

今までは、そんなこと考えずに、神様のことを人に知ってもらいたいという情熱だけだったのが、よく言えば、思慮深く、自分を考えるようになった。

 

簡単に、楽しいことをする、って感じの取り組みじゃなくて。

 

 

自分に何の財産があって、何ができるか、を、よく見つめた。

 

 

この世的に、よく考えた。むしろ、それが普通だろうと思う。今までもそうだったし、180度回転したところでも、やはり、その癖は抜けず、織り込んだものもよく考えた。

 

霊的人生観で生きるって、そんなにも、そんなにも、簡単なことじゃないと思えた。

 

目の前に起きたことで、何をしたらいいかのメッセージがあると思えて、よく観察したりもした。そこでも、よく振り回された。

 

そして、三帰してしばらくした頃と同じ感覚になった。よく判断できるようになった。でも、違うのは、真理がそこにあって、因果もよく見えるようになったことだ。

 

もともと、なんでかはわからないが、過去と未来は、わかることがあって、そのとおりになることを怖がって、わからないようにし、口に出すこともやめた。

 

でも、霊的に見なくても、分かるようになってきた。

 

それは、私に、一種の絶望感をもたらした。

 

でも、信じて、あきらめずに、手立てを知ろうとして祈れば、必要なことはいつでもわかった。でも、不安で、不安になるたびに、また、魔が来て、よく魔とたたかった。

 

私の道にないものは、花を贈るように祈ることを覚えた。今まで、通りすがるすべてをあきらめなかったようにして、自分の道を歩まなかった事実を知った。私は自分の道を歩くのを怖がっただけだった。

 

それもそうだろうと思う。目覚めたばかりの私は、夫を怖がった。夫を神のようにして、導かなかった。私は霊的だから信仰せざるを得ないと思ってきたから、霊的でない夫には必要がないと、夫を導く必要を考えなかった。

 

霊的だろうが霊的でなかろうが、私に起きていることは、ひとしく起きているとは思わなかった。信仰で、信仰が、幸せにする、とは思わなかった。愚かなことだ。

 

でも、今は、現実を信仰で生きるようにしたら、気づかないうちにくだせることがわかった。だから、現実を信仰で生きることにバランス比重を置くようになった。

 

魔をくだしたサインは、今までやってきて起きたことのデータがあるから、分かる。

 

 

あと少し。あと少しだと思う。

 

 

あと少し。あと少し。

 

 

何かがゆるされるまで。あと少し。

 

 

あと少し。あと少し。

 

 

はじめるまでにまだ足りない。

 

ようやく、自分の決めてきた人生に戻ることができる。