らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

なんで幸せになれないのか

昨日、夫と話をしていて、幸せ、の基準が違うことがなんとなくわかった。

 

夫は、あれは悪霊憑依だとしか考えられないが、自然にやんだのは、信仰したからで、努力もしていない、今は悪霊憑依をその行為に感じる、という話でした。

 

それは、私も同様。

 

でも、自分がなぜ生まれてきたか、何を知るために、という事において

 

個々の魂の課題のところ

 

自分には無理、できない、わからない、手に入らないと絶望を繰り返してきたところにまさにそれはあって

 

それは確実に自分が真理に基づく成功を強いられるからこそ、それが手に入らない理由は、真理に基づく悟りがないからで

 

それを知るために今があるから

 

手に入らなかった過去すら幸福だと感じるわけで。私は特に、この人生で良かったと本当に思う。

 

今までの過去の集積物と向き合うから、そりゃあすごかったんですけどね。

 

そのあたりの話をしていて、もったいないひとはたくさんあるものだなと。

 

自分がやる。

真理どおりに自分をしっかり整える。

甘えないでまわりを味方にする。

信じる。

 

これを100%。

 

じゃあ、人生かけて何を成し遂げたいのか、と。

 

後悔しないために何を成し遂げたいのか、と。

 

 

何もかも捨てて何を成し遂げたいのか、と。

 

 

…最近、総裁先生の初期講演集を見てて思うこと。

 

最初から、この方は、自分が死んだあとに、自分をのこすためじゃなくて、自分がひとに、愛するがために、何を遺していきたいか、をぶつけてきただけなんだなあと。

 

自分が死んでも、その後に、遺したものが、ひとの心を救うだろうと、遺そう、遺そう、としているようにも見える。

 

 

霊的に知覚は、私は総裁先生ほどできるわけじゃないけど、対面で話をしていれば、どのようにも知覚はする。

 

魔がうねって吠えたつのも分かる。溶けるのも分かる。四六時中しているわけじゃないけど、四六時中相手にしてられないのもあるけど、それをイチイチ、善転しながら行くのは、かなりの体力と精力が要る。

 

だから、総裁先生のそれがどんな不惜身命なのは、見ていて、頭が下がるばかりか、涙さえ溢れるほどで

 

同じ人間とは思えないし、それをもって、神であるとも確信する。

 

霊的にどう、だけで、ひとは変わるものじゃない。それもさることながら、同時にひとをさとらせる言葉、は、愛以外の何ものでもない。

 

 

愛してなかったら、できることではない。

 

自分と考え方が違うからって、相手が何を言いたいかを見失えば、愛すらも、見つからない。

 

愛、とは、方法論でも、戦略でもないのだから。