神を調べる。
古代の神々のなかでは、神ではないのに、神だと偽ったものが奉られて信仰されてきた過去がある。
10年前、こうした霊的な世界があることを知った私は、知識が増えるにつれ、いろんな宗教の神々や信仰観、思想を調べた。自分の過去世が判明したり、指摘されたこともあった。
理屈が合わないから調べたというよりかは、判断ができないから、まずは調査した、と言ったところだ。私の伝道者は、霊能者だった。
私は、「へんなもの」が視えたり、ひとが普通わからないものがわかる状態になって、10年は経っていた。それがわかったところで、生きるのにもどうしようもないので、ほかって無視しておいたが、あるときを境にめまぐるしくコントロールができなくなり、仕方ないので、ちゃんとしなければならないと思い、信頼できる情報源を探したのだった。
おもしろいことに、耐えなく続いた頭痛は、彼にメールを送っただけで痛みがひいた。ものの三分だった。主人になにか憑けていると思ってメールで連絡をすると、眠いと言って、あれ?あれ?と言いながら、ソファに倒れ込み、いびきをかいて眠ってしまった。
何度も痛みがあるので辟易したのか、生理痛に悩まされた私に「感謝と反省をしなさい」と返信があった。そのとき、半信半疑だが、やってみようと思った。心からの感謝と反省だということはわかっていたのだが、ふと反省しようと思っても、私の何が悪いのか、まるでわからなかった。
なので、感謝しようと思った。
環境に不満しかなかった私は、感謝ができないと思った。だけど、感謝のハードルを下げてみた。生活が送れる、当たり前のことに感謝をした。ひとつひとつの出来事に、まずは、感謝した。もちろん、不満がある出来事にも感謝した。
当たり前な状況に、より高い幸福を求めるがあまりに不満しか起きないのは、普通のことだと思う。当たり前になっている、ということは、ある一定の成功がおさめられているのだからいいのだけれど、向上心が高いあまりに感謝ができなくなっていた状態、でもあった。また、私のその向上心が、現実の実態に適していない、ということもあった。そんなことは、ほとんどのひとに起きていると思う。
そうすると、なんだか情けなくなった。自分の状況や、環境の実態を受け入れることからはじまり、環境の理解が進むと、自分の思いの方向が、ひとにまったく伝わっていないことがわかってきた。それがわかってくると、伝えきれない自分がどんなに苦しんでいるかもわかり、ようやく不満ある実態の全貌が明らかになってくるのだった。
そうなってくると、ちょっとしたニヒリズムになって虚しくなってくるのだが、その虚しくなってきた瞬間、
激しいお腹の痛みが、激しい頭痛に切り替わった。
医学的?、科学的?には、ありえない現象だった。びっくりしすぎて、意識がふっと反省から驚きに焦点があてられると、頭痛が腹痛に戻った。
頭が混乱していたが、これは聞いていた悪霊が憑依できない状況にならないように、必死にしがみついているのだと思った。憑依箇所が、腹か頭か、といったところだ。
(頭は「考え方」なので、頭の部位のどこかと、他の肉体臓器と連動する。)
一生懸命、反省と感謝の意識に戻ろうとすると、また頭痛になる。深めようとする。頭痛と腹痛が交互に起きて、私はとんでもないことが起きていると思いながら、いつの間にか眠ってしまったのだった。
幻視というものがある。ずっと、そういう類のものだと思ってきた。でも、夫や妹が眠りこけてしまった事実や、私の肉体的な意味不明の出来事をとって、
「幽霊は存在していて憑依はある」
とはじめて実感した出来事だった。
(それまで、いわゆる心霊現象というものは、ひととおり経験していたのにもかかわらず、だ。幽霊が視えようと金縛りにあおうと、透視ができようと、未来視ができようと、幻視の一種だとも言える。それに、偶然の一致、という確率論さえでてくるし、経験から来る推論、とも言える。霊能者的な事実、って、それほどに、曖昧なものだと思っている。こうやって、現象化してはじめて、そうなんだとわかるのは、私だけではないはず。)
でも、本来、「あの世はあるんだよ」という霊能者が、ここまで、懐疑的なのはいかがなものかと思う方もいらっしゃると思う。
でも、それが私なんですよww
(じゃなきゃ、オタクばりに調査したりしない)
半年かけて、「あれは何だったか」が判明することだってある。なので、いちどきに、はじめて視るものは、信じたりはしない。このあたり、ちょっと、おおざっぱな性格が功を奏しているのかな、って思う。すぐに忘れちゃうからねw