らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

疲れてる

年度が変わり、新しい職場で、仕事内容も変わって、とても疲れている。

 

体力がないので、集中力が維持できない。

 

頭を使う仕事だから、体力が要らないわけじゃない。

 

同時に、狐、らしきもの、の攻撃もまた、わかりやすい形で出てくる。

 

経典で開示されてから、その内容にまつわまって、自己の人生のデータを使っての反省は随時、問われる。

 

たいていのところ、開示から、聞慧をおこして、意識した上で、数年またいでの反省作業が必要とされるのは、自分やひとを見ていて分かる。

 

ちょっと、この作業、スピード落ちてるなとは思うけど、

 

心の反省のち、自分の心を見つめた作業を経る中でその感じ、を知らないうちに、心の悪因を判断することはできない。

 

ひとの言葉、は、必ずしも、適正に表現できているとは言えない。それは、この世的な力の問題で、それで、心のそれ、を判断することはできないからだ。

 

心のこと、は、すべて、自分の心を理解する過程で、それをてがかりに、判断できるようになる。だから、心の反省できない人は、人の心の悪因を知ること、は、まず、できない。

 

自分の内から見つけてないうちは、外から、自分の主観で判断しているか、客観的なこの世から見た材料をてがかりに判断しているに過ぎない。

 

心の素因ではなく、素因に影響を与える複合的なゴミカスみたいな、潜在因子を明らかにするところ。

 

心、というものがみんなと繋がっている、のならば、同じ心のエネルギーを自分の内に体験したことがない、は、0パーセント。

 

だから、その一瞬、を振り返るような形にはなるけど、ひとから与えられて、自分がどう反応したかまでも、反省データの材料であり、他の責任追求していい理由にはならない。

 

生かす愛においては、他から一方通行の、その人自身の成長や理解の上で、与えるものであり、その人自身の理解の範囲を超えるもの、である。

 

 

過去という心のデータから、与えられたものへの自分の心と、自分の心が与えたものを何だったのかを判断できるまでは、現実で、法に基づいて、はっきりと判断したことにはならない。

 

 

が、その前の処理作業に時間がかかっており、私には意思しかないが、意思しかないにしても、情報は集まるもので

 

神様ってすごいなあって思う。

 

 

落ち着いたら、狐の話をしようと思う。

 

九尾を見たことがある。

霊狐、も、見たことがある。

 

霊狐にいたっては、私は、ものすごく怖い想いをした。野狐と善狐、両方知っている。

 

私は、九尾には、嫌われていた笑

接触は一回。でかい稲荷大社でのこと。

 

どちらも、あれらが現実でなんなのかは、いまは、少し分かる。

 

 

分かるように笑

 

指導も攻撃も同時に受けるから、少しずつ、分かる。