らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

おおよそ、ひととは誤解でできている。

夕方、友達と話をしていて、真実語がどうのって、話になった。どういう反省をするのかって聞かれたから、私が気づいたことを言うてみる。

 

○まずは、ネガティヴな言葉をポジティヴな言葉に変えてみる。

 

これは、やってみるとわかるが、ただポジティヴな言葉を言い続けるということではない。場面によっては、ポジティヴな言葉が正しいとは言えないこともある。物事には流れが必ずあって、因果をしっかりよくわかったら修正する、という流れの最後にはポジティヴな未来を描くことができるはずなので、この過程をなしにせよ、ということではないのは強く言いたい。

 

その上で、冷静に、自分の使っている言葉が、その質感として「適正」かどうかを振り返ることは大切だと思う。

 

ひとの話を聞いてると、それ使い方が間違っているよ、と指摘することが割と多い。

 

向上心が妥当な使い方なのに、ちょっと悪びれるのがかっこいいと思っているのか、「反骨精神」と表現した美容師さんがいた。それで、ちょっと聞き取りをして、こうこうこういうことを言いたいなら、それは反骨精神ではなくて向上心だよ、と、良いことを言っているのにあたかも反発するような意味合いを入れちゃうとひとはそうしたいと思えなくなるよ、と言ったら、憮然として黙られたことがある。

 

例えばそういうことで、自分の使っている言葉が、本来、ひとが繁栄していく考え方なのにもかかわらず、あたかも、「より劣っている」だとか「よりやさぐれている」だとか、「よりあかん方向に向かっている」ような意味合いのある言葉を使ってはいないか、を点検するもの、と言った具合である。

 

ひとのほとんどが日本文化の謙遜文化にまつわって、自分やひとを貶めていることがあるので気をつけたいと思うこと然りである。言葉の使い方の反省では、これが80%くらいを占めている。

 

○ひきつれて、ポジティブな言葉を間違って使っていないか点検する。

 

↑の点検を80%くらい終わると、だんだん、逆にポジティヴな意味で使用していた言葉が適正でないことが自然とわかってくる。ちゃんとその質にあったポジティヴな言葉を使い始めると、言葉の整理箱が変わるので、どこに片付けたら良いかわからなくなってくる言葉がでてくる。それらの用途をもう一度再考しなければならなくなる。ので、ごく自然に、楽に、使い分けができるようになってくる。

 

○妄想を言っていないか点検する。

 

物事には原因結果の法則があるので、善因という原因をもたねば、善果はない。なので、善因がないのに、よい結果を得ようとする意味のない言葉を言っていないかを点検する。もちろん、目標や誓願を言い続けるのは大事なことなので、この「妄想」が誓願なのか目標なのかをしっかり心でとらえる必要がある。

 

妄想というのは、誓願や目標のように、善因を自分が努力している状態でないのに、言っていれば誰かがやってくれるだとか、の意味合いを含む。このあたりは判定が難しい。

 

真面目な人は必死に頑張っているのに、その頑張りを自分で認めたり、自分で褒めたりしないので、そういう方ほど「妄想」だと思索しやすい。頑張っているひとほど、もっと頑張らなければと思うことも多い。なので、一概に言葉だけで置きたくないとこでもある。

 

妄想というのは、原因結果を考えないで、自分の心の悪因をとりのぞきもしないで、よい結果だけ得ようとする怠慢だと言えばいいのだろうか。

 

何かしら、努力をしていることがあるのならば、妄想ではない、と思う。

でも、ひとに褒められたい自分の心があるときは、ちょっと気をつけたほうがいいと思う。自分の思い、が、ひとに褒めれたくて揺れていないか、は、反省に入る前に一番気をつけたいことなんじゃないかなと思う。ひとの定規が指標になれば、反省にならない。

 

ここまで来て、富の法はどうなのさ、と言われた。

 

私の感触としては、言葉が実体化して、現実化するのは、目で見てとれる。でも、それって、ただ信じるだけだと妄想になりかねないんだけど、それじゃあ、意味がわからないと言われたのでこう答えた。

 

可能性を確信しているものは、祈りの原則と同じで、時間を経て必ず実現する。

 

可能性をはっきりと確信していないのならば、実現しない。

 

また、言葉を置いたときに、どの神に祈るかでも、関係がある。レプラコーンを信仰すれば、レプラコーンと同等の人生になるように。だから、万能でオールマィティーな地球神へ向くことが大事だから、富の法なんじゃないかって話した。

 

でも、向いているかどうか、ってのは点検に次ぐ点検という反省行なしには私は無理と思うけどね。あとからやるか、さきにやるかは、あるけれどもね。

 

 

そう、誤解は「言葉」から起きることが多いんだよ。

だからね、「言葉」には、相手が理解できるような流れをつくらなきゃいけないんだよ。

 

でもね、私のブログは、、、、

 

あんまり、、、、、

 

そんなふうにできてないw