夢と潜在意識と魔と
息子が見た夢というのは以下
駄菓子屋Aにいた息子には、隣の駄菓子屋Bにいたある親子の会話が聞こえてくる。
はじめは何気ない会話であったのだが、その会話がだんだんと緊迫してくる。
5歳児くらいの子と母親は、仲良く会話をしていのだが、母親が「5歳児の犬へのしつけがなっていない」と怒り始める。悲しそうになっていた5歳児。息子がその5歳児を見ていたら、ひゅっと、息子が消えて、息子は5歳児になっていた。
「お母さんの犬へのしつけが悪い癖に」
場面が変わって、居酒屋で先生と酒を飲む息子(彼は高校生w)
先生が言うことには「お前はだいじょうぶ。何かあったら、俺に全部話をしろ。助けてやる。」。息子はあーでもない、こーでもないとガチムチ先生と話をしていると、居酒屋の店員がなぜか、濁った水をホースで浴びせてくる。
こんなところにはいられないと居酒屋を出ようとすると、出口がない。慌てて出口を見つけようとするが、邪魔をされる。なんとか、出口を見つけると、先生は「俺はだいじょうぶだから、先に行け」と救った。後ろを振り返ると、さきに、駄菓子屋にいた母親が、息子をずっと見ていた。居酒屋から顔を出して。
「お前は絶対に逃さないからな」
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こええ。
私が話をする前に、息子からこんな話をした。頭の中で、魔の構造を考えていたのだが、考えるまでもなく、「そのまま」であった。でもガチムチ先生がわからないので、その様子を詳しく聞き取った。その発言から、息子の身の回りにいらっしゃる先生かだれかであることは推測はできたが、魔というものは「そういうてい」を偽ったりするので、ちょっと丁寧に聞いた。
(誘導したかもしれないが)
ガチムチ先生は、あの黎明編のレイの変身スタイルだそうなw
なので、まず、そのレイを特定することにした。
実は、あの世に行けば、あの世での姿、で登場することもある、生きている人間のよくわからないアレ。私も、以前、10年前の読者さんから、「らいらさんを夢でみた」と不思議なことを聞くことが多かった。
なんか、助けに行っているらしい。
近所のひとも「らいらちゃんを夢で見た」とか言うてて、「安心したわ」と見に覚えのない感謝をされることもある。より現実で関わっている人は、私の肉体の姿だけど、ちょっとマジカルな感じ、で見るようだ。
かえって、あまり現実で関わりのない人、遠隔地にいて、肉の姿になじみのない方は、金髪か赤茶のウェーヴィーヘア(アイア人スタイル)で、ギリシャの戦闘神みたいな出で立ちで、ふわーーーーって、降臨したとか不思議なことを言っている。
(まぁ、よく考えるとおかしなことだ。)
そういうことは、10分の1くらいの「へえ」で抑えておいたほうが良い。
でも、彼のレイは、誰だか気になったので、その発言を言いそうなひと、そんな気持ちになってくれるひとがそばにいるはずだ、と言うと、担任の先生、と言った。
実は、私もそのひとではないかと思ったのだが、私が金髪絶世の美女よろしく、現実の担任の先生は、ガチムチレイとは似ても似つかない。さわやかスタイルで、一見草食系細身のイケメン先生である。
ほおおおん。地獄に救済に行く夢、は救済側は体験するはずだ。ひょっとかすると、夢は、両方が覚えていることがある。(あの世で会っていたと思うこと然りである。)その次元に、お互いが行っているからだ。もちろん、そこで体験したことが「同じ」なのだ。
担任の先生が覚えているかは別として、このレイの心そのまんまなのだから、本当に感謝しなければいけない、と息子には伝えた。そもそも、地獄夢を見たからと言って、嘆く必要はほとんどない。「救済夢」であるならば、胸を張るべきだと思う。
(私は最初、その違いがわからずに、地獄次元を夢で味わうたびに、不幸感覚がついた。平気でいられるなら、それは救済しに稼働しているのだと思っていいと思う。でも、魔を見破れることが前提)
お母さんはK。5歳児はH。お母さんにいじめられる5歳児。
そこから魔は発生している。
簡単に言えば、そういう構図なんだけどね。恐怖で支配しようとするから自由がなくなり、無知のままでい続け、やる気がでなくなり、めんどくさくなり、怠けるようになって、できなくなって、自信がなくなり、非行につながっていく。
そもそものはじまりは、「恐怖」であった。
まぁ、ものすごく、わかりやすすぎて、なんのひねりもないので拍子抜けした。とりあえず、息子に納得がいく説明をした。5歳児をイタコしたラインログがあったので、そのラインログを見せて、息子の思うこと、と同じだろ、と確認した。俺はこうだ、と言ったので、そうじゃない、お前のなかにいる5歳児という魔とまじりあって、自分だと勘違いしているだけだ、と言った。でなければ、ここまで、同じ反応をしない、と。
息子のラインログや、他のひとの潜在意識からせりあがってきた憑依状態のログを公開したいくらいだ。まったく、同一人物だぞ。世代も性別も住まいも違うっていうのに。
母親は恐怖だと伝えた。恐怖があるから、恐怖で支配しようとする。恐怖を使って支配しようとするが、自分がそもそもに、こうなると嫌だからこっちを選ぶ、といった傾向を持つ。絶望したくないから逃げるように頭を使って、生きているとこうなる、と言った。そして、ついには逃げられず、絶望し怒りくるいはじめる。
では、かえって5歳児はどうか?と聞いた。理不尽さへの怒りだと言った。いや、この5歳児ではなくて、この5歳児を憑依している自分のなかにあるものだ、と聞き返したら、「怒り」だと言った。その原因だよ、と聞き返したら、もう、見事にひとことで、しとめたねww彼はwww
「怠け」
そのとおり!!!頑張ったじゃんかwwwww
その上で、悪魔が嫌うこと1、2、3を言わせた。そして、それと対応させた。恐怖と明るく生きることは対応し、怠けは努力することと対応すると息子は言った!!よく、やった!!
(努力は勤勉だけどなw)
2の正直さについては、その恐怖と怠慢(KとH)の間にあるもので、私には、はっきりと対応するものがわからないと言った。
でも、それはどうでもよくて、大事なことは、その悪魔が嫌うこと、123を毎日点検したらいいんだ、と言った。反省は自分の間違いを考えるだけじゃない。できたかどうか、というポジティヴな点数を高める反省もあるのだ。状況によって、反省の観点や基準は変えるべきだ。抜くときは、しっかり間違いを見つめるべきだし、積み立てるときは、プラスをどれだけ増やしたかを見つめるべきだ。
しかも、高校生にそこまでやれるとは思っていない。私の目が光っているうちは、うちの息子に手を出させたりしない。ただ、やれる努力をしない、というのはいかなるものか。
(その努力が、ちょっと普通かどうかはわからん。潜在意識に刷り込むように御法話拝聴特価週間とか、その聞き方の状態、とかは、私が編み出した。意識を向けて聞くのは最初だけ。音楽を味わうようにして、その言葉と音の感じの波長に体の波長をあわせて同化する、まで聞き倒す。)
ちなみに、あるひとが「ではKとHが反省すればこれが変わるのか」と言ったが、そうではない。その思考エネルギーは別に存在していて、その思考エネルギーを表現してるのがそれらなだけで、彼らのなかで消失したとしても、私達の魂には存在し続ける。そうなれば、消失していない誰かの魂が、代替者となるだけだ。
自分の内にあるもの、をひとのせいにしてはならない。
祓えるようになってなんぼ。(ひとによって目標地点は違うけども、私はそう。)
その後、柏手と悪撃をして、息子が受け取ったそれの感じ、を聞いた。
笑えた。そう、そのとおりだよ。彼にはレーザービームではなくて、元気玉らしいけど。
わかったみたいなので、若き精鋭にも言ったように、どうしたらこうなるのか、これから、息子はどういう取り組みをしたらいいのか、伝えた。私がやってきたやり方を習うようにして、これから、一日中、浴びる生活をする。
内から出たら、今度は外から来る。
今は、内から出すとき。
「御法話を拝聴して、できるかできないかは別として、肯定する」
(そもそもできないから弟子なわけで、自分ができているかは基準ではない。まず、教えを肯定するところから、しっかり行う。でも、、、は必要ない。ただ、肯定する、を続ける)
そこから「心のざわめき」が聞こえてきたら
「それは私ではない」と断じるのも効果があるし、
「私は主とともにある」もざわめきが減る。
「悪撃」も効果がある。
私は、なにかざわめきが聞こえたときは、「私は主とともにある」と静かに心でつぶやくのが好き。ちょっとね、おもしろいくらい、あの方々は怠け者なのに、ストーカーという努力は怠ることないのよ。
今は、反省するときじゃないわ。守るときよ。
そうやって、「私は主とともにある」とつぶやいて、主とともにあれるような行動をとろうとすることが一番、大事だと思う。(ここ数日は、そう過ごした。メンタルは落ちたりもしたが、いくつかのトラブル解決も、いい感じだった。)
でもね、いちばん大事なことは、何が魔で、何が自分なのか、その境界をはっきりと知るための知識と理性と論証なのだよ。根拠を持った判断は、覆らない。
「私達は主とともにある」