少しずつ
あの後、母が何かを反省したら、母の妹が少し様子がよくなったのを見て
こういうことか、とわかったと言っていた。その顔つきは、哀しみが含まれていた。
自分の反省と改善、だけで十分だとわかったときの、厳しさへの理解は、ちょっとした、表現がしづらい哀しみが起こるのは、少しわかる。
自分の愚かさだとか
今までの無駄な時間への後悔とか
神様へのごめんなさいとか
人へのごめんなさいが
いっぺんにひっくりかえって
途方もなくなる。
リアルの私達親子間にある出来事を通して、私の立場から主張することをもって
この観点はおかしい
って娘の立場から言われることに、そういうことかって受け止めるなんて
そうそうできるものじゃないと思う。
でも、やられたらやり返す、を根っこから抜き倒すのには、必要なものの見方の修正が細かく細かく必要なので
その都度、はっきりと反省するのも、本当に大変だと思う。
けど、私も、自分の社会に対する甘えや、かけひきを感じることがあって
ものの言い方とか、場面の選定とか、ひとへの行動を慎重に考えるようになった。
主に行動を考えるようになって
めっちゃ自分の想いを中心に行動してきたなと思うようになった。
自分の想いなので、ひとのためにと思って行動していても、理想の目標に基づいた、理性的な行動ではなく
思いついた自分の想いを遂げるための行動だったなあと思うのでした。
その想いが遂げられることが、理想に叶うことに繋がるか、を考えたことがなかったから、そうなっていった、ことは分かる。
でも、反抗期だとか、一歩前へ出るいろんな方がいるけど
やる前に一度、タールのような不満が、ぺじゃああって出るのは
…受け手がこんなふうに感じるなんて、思わずに
過去、自分も、自分にはできないと絶望しかなかった数年を想う。
めっちゃ吐き出した。愚痴も怒りも涙もとまらないで、いつでも流れ続けて、ずーっと吐き出してた。
吐き出しながら、泣きながら、頑張ってきたことを想うと
私はそのタールを受けとめるご恩返しをさせていただくのだなあと想うと
私もまた、哀しみの涙がひとつぶくらい流れる。
流して、味わってみると
母の、因果を理解した絶望と表現した哀しみとは、
未来の幸福を知るような、哀しみでもあった。