らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

人間関係について

私の人間関係の持ち方はとても特殊なので、参考になるかどうかわからないけど、お題をもらったので、書いてみます。

私、裏表ないんです。話していることと思っていることは、現実でも「同じ」なんです。話していることと「思っていること」がかけ離れているひとがほとんどですが、私は思っていることしか言いません。なので、結構、衝突があるかもしれません。

でも、私はずっとこうでしたから、思うことのレベルを上げるようにしました。言葉と心が一致しない行動をとることが「できなかった」ので、そうしました。

さきほど話していた元同僚に聞いてみると、「思っていることと話すこと」が同じひとは、らいらさんとAさんだけど、なんか違う、と話していました。それは、愚痴コミュニケーションかそうでないか、じゃないですか?とお聞きしたら、そうだ!と面白がってました。もともと、出口のない愚痴コミュニケーションに付き合えないので、今も付き合いません。つまり、解決をしない「不満」を言うだけのコミュニケーションは、ちょっとできないのです。

「目標」に向かって、これが困っているという相談はします。サクセスのママさんたちとは、このあたりはたくさん話すのですが、たいがい、ポジティブな意見がでます。「だからだめなんだよね」で終わるコミュニケーションの目的地がよくわからないのです。発展するものか、どうかという点で、発展しないなら、時間の無駄だと感じます。「君はグレーを許せないんだね」と言われたことがありますが、結論が要らない話なら、はじめからそう言ってほしいものです。

前にも申し上げましたが、「愛し合い」「睦み合い」「信じ合う」のが友達だと思っています。こちらが一方的に「そういう関係」だと思っているだけだとしても、私がそう思えている状態であれば、友達だと私は思っています。浅さ、深さ、はあると思います。言いたいことが言える関係、ですね。

それ以外は、友達ではありません。

ライバルと友達の違いはどうでしょうか。

そもそも、友達は、私とは「違う」ので、違った特徴を持ってますし、私より秀でている点がたくさんあります。その友達の武器は、「私の武器」です。私の武器も、「友達の武器」です。でも、ここで「武器」を依頼したり、お願いしたりするのは違うと思います。私の代わりにやって、というのは、私は一番嫌います。かかわりのなかで、自然とその方が与えたり、私が与えたり、という「武器」だと思うんです。あらゆる「組織」を、私はそういうふうにとらえています。

ライバルってワードが、どちらかというと、私のなかにありません。

自分より秀でていて、自分より優れた結果を出してくれるひと、は、自分ができないことを、かわりにやってみんなをよりよいほうに仕事をしてくださっている、と思うので、「ありがとう」です。

ライバルが自分の目標を達成するときの敵、だとしたら、自分が一番の敵だと思います。難しい試験を友人と受けるのですが、協力相手、同志、だと感じます。もうちょっと、大きな目でとらえると、同志にならざるを得ない、と思います。

このあたり、気質、というのがあって、私みたいな考え方のひともいますし、一番にこだわる方もいます。目標に向かう情熱の乗り方が違うからでしょう。ですから、より優れた方、を「意識する」のは間違っていませんけど、私はあまり「ライバル」と感じないかもしれません。

伝道師さんのところに通っていますが、「ライバル」と思いません。それは、伝道師さんと自分の力量が見合ってなくて、伝道師さんが「師」にあたるから、ではありません。「同志」だと思っています。なので、ある点では伝道師さんは秀でているけど、ここは私ができるかな、という冷静な比較ができます。

その比較を持って、優劣を決めることはありません。

私の研鑽として、ここはちょっと取り入れたほうが自分に楽だな、もっと自分がよくなるな、と感じることは積極的に意識します。私はちょうど「愛」が薄いので、「知」を薄めないまま、「愛」を深めたいなと思っています。その「愛」が秀でている伝道師さんのところに、かかわりに行って、与えてもらって、与える感覚を学びに行っています。

その上で、結果、はどうなるかわかりません。そんなの自分がどうしたいか、であるので、ロングスパンで見て、どこまでやりたいかを、毎日意識したらいいだけかなと思います。それが、「精一杯」頑張っていること、だと思います。あきらめてないし、努力しているじゃないですか。

すぐに結果を求める必要なんかない。

自分がその目標へのプロセスを楽しむことが重要だと思います。続かないしね。楽しめない場合は、私はすぐに放棄します。結果なんて、後からついてくるものです。「プロセス」の状態を楽しめているか、が、いい結果を引き起こす最大の要因だと思います。

そのための「人間関係」であって、その状態へマイナスに働くような相手には、同志であれば励ましますし、エンパワーメントを行います。けど、そうでないのならば、相手にしません。逆もしかりで、相手にされないこともありますが、そら、そうでしょう。

部外者、ですもん。

部外者への対応は、必要最低限のかかわりと、気遣い、で成り立っています。心の交流が難しいな、と思われる相手は、私にとっては部外者です。

でも、関係は流動的なものですから、今はこういう状態だな、こう変化したな、と行ったり来たりしますから、このあたりは柔軟に見ています。

つまり、何も考えてないのかも知れません。

人間関係をよくする、のが私の心の指針ではないからかもしれません。お互いに、益になっているかどうか、が判定基準かもしれません。好き、嫌い、は、本当のところ、こうした判定基準が隠れていると思いますが、ひとはざっくり「合わない」「合う」とお考えになるのかもしれないですね。

お互いに益になっているかどうか。宇宙の大調和から考えると、自分を肯定しないひとがいたとしても、それは自分が本当にだめなことになっているとは言えない。そのタイミングでは、そうなっているだけで、否定してくる、またはお互いに益にならないのであれば、そこにあえて、自分がつっこんで行く必要はないと思います。

お互いを尊重し合う、のなら、そういうものではないでしょうか。

大調和のなかで、自分が与えられている役割、を信じてみてはいかがでしょうか。