らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

資格試験

友人から、初級資格だとか上級資格とか、本当のところ、どうなんですか?と質問が届いた。上級まで行って、反発心が大きくなって、投げ出した、と聞いた。

そりゃああああ、そうだろうなあああああwwwww

私自身も資格自体に、なんの有益な意味も見いだせないで、受けなかったもんなあwww

特に高い金を出すわけでもないのにねww

今は、私は中級資格を持っていて、上級資格試験の回答を提出しなければならないのに出していない、というところです。で、なんの意味も見いだせないのに、なぜ受けたかと言うと、ただ、自分が伝道した子に必要なことだなと思ったので、お付き合いで受けたのでした。今年は、初級資格維持で、試験を受けました。

資格維持の試験は、仕方ないので、受けるようにしているけれど、初級資格を維持していただけなので、ランクが上の試験は受けていない。ランクの上の試験も、なんとなく、力試しで回答するけど、勉強はしないで回答する。あんまり、いまだにやる気はない。でも、研究員資格維持の要件を満たすくらいの得点はそれでも今年は、はじき出した。今年は、あとで見直しするために両方書いておいたら、なぜかそちらで採点されていて、それでわかったことだけどね。

うーーん。

実際、上級コースまで受けてみて思ったことは、うーーーん。


当たり前のことだと思うww

だけど、それを説明する「言葉」は、宗教用語なので、宗教用語を学びに行っているようなかんじかなとも思う。私は、自分の過去をふりかえって、相手に有益だと思える情報を提供するので、宗教用語で説明することはあまりない。だから、自分の言いたいことが、宗教用語では何かな?と分かるために行くのと、それを実際に体験した方の動画を見るために行くっていうかんじ。思いの変化を起こして、行動してどういうことが起きて、どんな気持ちになったのか、という体験レヴューは、とにかく感動する。泣ける。

でも、お付き合いした方の様子を見ると、ちょっとついていけるかな?とも思えて、こわごわ一緒に受けたのだけれど、やはし、中級で精一杯な様子だった。それでも、映画を見て、号泣が止まらず、何回もリベンジしたが、インからアウトまで、なんで泣いているのかわからない涙を流した。だから、中級でちょっと小休憩しよっか、ということになった。まぁ、実際、ハイスピードで学んでもらっているんだけどねw

自分が、その思想をまっとうするかのように、自分の心をふりかえって、動画ででてくる方たちのように、障害がある自分の子の奇跡を祈り続けて、ネガティヴな感情を出すことなく、毎日生活している様子だとか、どんな思いで、成長を見守り、喜びをともにし、愛にあふれた生活を送っているのか、を見るだけで、そうでない方はきっと唖然とするに違いないと思う。

反省や祈りや愛、心からの思いやり、そんなふうに満ちた生活を見せられたら、自分の小ささをどう受け止めたら良いかわからないと思う。

そうした動画をいくつも見せられて、そうでない自分と比較して、自分がそうなれないことをとって、心に巡りくる思い、というのは、現実に反応するしかない自分の器の小ささを明らかにするものだったりする。現実を変えるのは自分の心、だというけれど、それだけで現実がどう変わるのかの過程を体験したことがないと、頭で理屈を考えるしかできなくなる。

そう思うように「妄想」に生きているんじゃない?
現実は変わらないのに、「妄想」で「幸福」なつもりでいることこそ、哀れじゃない?

wwww
現実をコントロールできるひとが、この世に何人いるのだろうww

はっきりと言ってしまえば、心が変わっても起きてくる現実の出来事、というのは、そう様変わりするものではない。ひとは死ぬし、老いるし、病にもなるし、そして、生きていかねばならない。そうだよ。変わらないよ。

でも、その変わらない人生を、どういう気持で、過ごしていくのか、という点だけは、大きく変わる。

自分の心が変われば、目に見える世界の感じ方は明らかに変わる。考え方を変えて見ることができないのであれば、現実を変えようと四苦八苦し、怒り、嘆き、絶望し、責め立て、周囲を変えようとするのは当たり前だと思う。自分の苦しみのために、周囲を変えようとする、わけだ。

いや、実際、それが現実的に不幸であるならば、不幸だと感じるのは当たり前じゃないか。

でも、貴方だったら自分の子が障害を持って生まれたらどうするのか、という点で、いろんな受け止め方がある。

私はこのあたりの界隈の事もよく知っているのだが、本当に受け止め方はひとそれぞれだ。私自身の子は、霊体質という障害を持っているが、それとは違う障害を持った子のお母さんというのは、その障害を考えない日はないと思う。でも、それを「よいこと」とも「わるいこと」とも判断するのは、私は愚かなことだと思う。なぜならば、自分の子と自分という親は、かけがえのない、親子関係を過ごす人生を送っていて、それは死ぬまで続くのだが、死を意識したら、どれだけでも時間が足りないと思うくらい短いことは誰だってわかると思う。

あと、何年、この子のそばにいられるだろうか。

そうすると、毎日がキラキラとしたかけがえのない時間になり、子どもとのかかわる時間に起きるすべてが愛おしくなってくる。そうでないというのなら、いろんなことを考えすぎて、疲れているだけだ。だって、そんなこと、つけ焼き刃でどうしたって、すぐに変わるわけ無いだろww

ゆっくりとした時間の流れのなかで、どうやってかかわっていくか、その時間の流れのなかで、自分と相手の化学反応を何回も起こして、相手も自分も、変化しながら、そうやってかかわりあって、いろんなことにチャレンジしていく。

奇跡、というのは、その育みの時間のなかで、愛が飽和していくときに、自然と「学び合う」ことが起きるからこそ、起きる。

どんな奇跡を見ても、その因子を見てとれる。

ひとは、それをとって、あのひとだからできた。あのひとはこういう環境だったからできた。そんなkとを原因として考えることが多い。そんなことはない。自分が変わるからこそ、環境が変わっていく、環境が変わってくると、ひとが変わってきて、自分がまた変わる、、、といったように、変化の絶え間ない連続が奇跡を起こす。

だから、考え方がより良い方向に変わることができないのならば、停滞するし、奇跡だって起こることはない。だから、幸福になりたいひとは、より良い方向に向けて、自分の幸福を得るために自分がどう変わるのか、という反省を絶えずしていく。

自分にはない理想を手に入れたひとへは、自分がそれを真似ればできる、と考えれば、いてくれるだけで感謝もするし、祝福だって、自然と沸き起こるだろう。それを手に入れた軌跡を考えれば、普通は感嘆し、普通は称賛するし、普通はありがたいとも思える。なぜならば、その自分が描く成功を手に入れたひとが成功のエッセンスを教えてくれるから。そのエッセンスをどう見出すかも自分次第だし、そのエッセンスを真似て研鑽し、自分の成果と努力の因を常にモニタリングして、近づいていくのは、当たり前のことだと思う。

壁にぶちあたったとき、ひとからのアドバイスは、ほぼあてにならない。なんでかというと、そのアドバイス自体が、そのひとの生きる指針だったりするから。成功、とは成功者しかエッセンスがわからないもの、なので、私はだから伝道師さんのところにお勉強がてら、私を整備してもらいに行く。しっかり、お得に、お勉強しに行っている。タダで学ばせてもらうとしたら、自分の観察眼がものをいう。…私はそのほうがストーリーがあるので吸収しやすいので、そちらで行うほうが多い。つまり、伝道師さんのお店、に、あしげく、美容サービスを受けに行く。

私の導き手もそんなふうにして、ただ、かかわっただけだが、そこから、自然と身についたことほど、大きなお勉強はない。ああだ、こうだ、と教えてもらっても、たいていのところ、ストーリーがないので、手がかりとなる感覚、がわからないものだ。それは、どんな仕事でもそうだと思う。タバコの休憩所のほうが、有益な情報が手に入る、そんな感じだね。

かかわりのなかで学ぶ、ということほど大きなものはない。

だから、自分が学んで、愛していけば、相手は自然と学ぶ。

そうでないのなら、どこかに、おかしな問題点、が必ずある。そこを反省してみたり、自分のこだわりを捨ててみたり、相手のことをもっと深く理解していいところを見つけたりする。それができなければ、相手だって、自分のいいところを見つけたりはしない。

人間って普通、そういうふうにできてない?

してくれたから、お返しに、相手にしてみたりする。

それを良い方にやりましょうね、頑張りましょうね、よい方の積み重ねをたくさん積んだら、よいものがたくさん返ってきますよ、っていう簡単な理屈があるのに、それができないとなれば、やはり、問題がある。

自分が「良い」と思っているものが、実は「慈悲魔」だったり、「自己中心性の愛の結論」だったりする。「無償の愛」だと思っていたものが、「自分が納得することがない、ひとのせいばかりにした自分の人生への無責任」という愛だったりもする。

そもそも、「無償の愛」とは喜びしかでてこないはずなのに、「苦しみ」がでてくるとしたら、自分の「愛」の形は、やっぱり「見返り」の形をしていると思わざるを得ない。

まぁ、愛とは、誰しもが未熟なものだから、そこそこ自分を責める必要はないが、どうしてそうなのか、は知っておくほうがいいと思う。知らないままでいることは、自分をいたづらに責めやすい。納得がいく理由を知れば、自分を責めることもひとを責めることもないし、自分のものの見方が、あまりにも「普通」だけど、「大きく」はない、と分かると思う。別段、それで精一杯なら、それでいいと思う。

私は、これはと思うときは無理することもあるけど、普段はそんなに無理はしない。特に、自分の状態をとって、無理はしない。自分がこういう状態だ、とも受け止められないで、自分を変えようなんて、言語道断。自分の小ささを知って、周囲と比べて、自分はまだだいじょうぶ、とかってのも、どうでもいいww

自分はどういう心をもっていたいか、だろ

そういう気持ちになれるまでは、愚かな自分と付き合う。ひとはその状態に、あまり耐えられないな、って見ていて思う。霊能者やっていると、感情を外に追い出して、フラットでいるという、針の上に立つ心地というのは、基本中の基本なので、私はわりと容易い。これ、できるまでに、相当な苦労はあったとは言う。

はじめて霊能者さんにも、この「心の針の上にタテ」と必ず言う。

心の針って、向きだけじゃなくて、どれだけ小さな点に立てるか、っていうのも問われる。


自分の感情にのまれることは私もあるけれど、あれってつかれるんだよね。針の上に立てるようになると、感情にのまれること自体が疲れてしまう。でも、どうしても周囲がとまらないときは、出す。今夜も出したけど、守る、ときには勢いよく使う。でも、「守る」ときは、「まもりの攻撃」も出るので、あまりやりたくないんだけどね。

資格セミナーの内容を当たり前に思うのは、霊能者だからだとは思わない。「幸福な結果」を手に入れようとして、ろくに何も勉強もせず、武器は祈りだけで、単機決戦で挑み続けた時期がある。支部にも行ったことがない時期だね。

チャットしながら浄霊したり、メールをもらってやりとりしながら憑依を解いたり、悩みの話につきあったり、結構な体験をさせてもらったことがある。あれは、あの時期だからやれたとは思うよ。数うちゃあたる、と思っていた。私の脳内は、どうやって救うか、しかなかったので、効率のよい方を選び、あとは、玉砕覚悟で真剣にひとりひとりに、向き合ってかかわって、導いた時期があった。

その頃のことを、上級セミナーを受ける前に、うら若き精鋭部隊とモーニングしたときに話した。成功ポイントをかいつまんでね?これはこうだから、こうしていくといいよ、という根拠を話していった。とくに、過去の体験を話すこともなかったけど、成功法則だけはしっかりと私はもっていて、特に経典を必要としなかった。

中級セミナー後、若き精鋭部隊は、笑いながら、予習しましたね、と言っていた。こういうことは、よくある。なぜならば、研修やセミナーなんかは、指導霊の指導をちゃんとさきまわって受けているからである。講話を聞きいこうとしてドライブ中、妹にあーでもない、こうーでもないと語った後、渋滞で講話に遅れてしまったのだが、ほぼ、私が話した内容だった。別に、そういうことを話そうと思ったわけではない。日常の話をしていくと、「この後行われるセミナー話の筋」になるだけだ。

ひとえに、私へかかる光が入っている、だけに過ぎない。


こういう光は、ほぼ、セミナーや研修を受けるひとすべてに起きている。私は感応度が高いだけだ。だから、セミナーとか研修に行っても、あれ?と思うことはある。先回ってすでに反省をしおえた内容だったりする。だから、変な気持ちになることもある。でも、御法話は違う。そういうことは絶対に起きない。

法話は、実際は、その会場の前席にいらっしゃる方と心をつなげて、それに対応するようにお話をされる。本会場前席、にいた私の心の叫び、に間髪いれず、次の言葉で「答え」を言われたことも何度もあった。しかも、何回か。私は、わりと自由人なので、聖黙を意識せず、父に会うつもりでそこにいるので、律するというより、「もう会えないおとうさん」に会うつもりで行くからだ。本会場、前席にいらっしゃる方は、向こう3年、その御法話の研修をやらされていることを自覚したほうが良い。

私が導いたひとをとって「○人導いたよ」って報告した本会場では

「もっと連れてきてください、もっともっとです」

と間髪いれずに言われた。愕然と、口があんぐりとなった。いや、まじで。まじか、と。あのシーン、見直しても、ひといきいれて、前の文脈に脈略がないんだよ。しかも、その翌年から、いろいろ変わったんだよ。引き上げられたんだよ。まじかよ。パねぇよ、ダディ。

まぁ、そういうことで、霊能ってそんなおかしいところがあるので、資格セミナーどうですか、と言われても、当たり前じゃないですか、としか言いようがない。自分の心がそれを拒絶するか否かではなくて、見せられた体験動画をとって、こういう世界が全部にひろがったら、幸福になるか?という問い、で考えるべきだ。

YESとなるならば、

拒絶自体は、そもそもに自分の問題だ。そこが勉強するところだ。まずは、そういう意味で、動画の方々は幸福か?で、YESと言える自分を肯定することだと思う。でも、、、はない。

そういうことはセミナーで問われていない。それ自体への、選択の責任は自分にある。そこに他者への評価は、なんの理由もない。

常に、問われるのは、自分はどういう人生を送りたいか、だけだ。


資格だとか、いろんな制度に何かいいもんでもあるのかな、と思って、試したところ、そういうことで、私の体験はおおよそあてにはならない。でも、これだけは言える。

精進の基礎、は、そのカリキュラムにこそ、コンパクトにして、ある。
(漏れがないようにやる、って感じ。)