らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

起きているスピードがいつもはやすぎて書ききれない。

寮から帰省する予定だった息子から、来週の金曜日に帰宅するというラインを受けてなんのこっちゃいと思いながら、息子の状態について寮へ報告する。息子を迎えに行く予定だった主人に報告をする。

そして、職場での自分をふりかえって、不満と疲労と怒りが頭をもたげてきていて、家庭のことが仕事に出やすいのはいかがなものかと、振り返った。でもうまくいかない。

与えられるものは与えてきたもの
与えてきたものは与えられる

そんなふうに見るのだが、いいことも悪いことも、本当にそうだなと思う。

先日、話をしていて、ふと気づいたのだが、この方の言葉と私のこの言葉はおなじものをさしていない、と思い、話している内容の捉えがまったく違うふうになっていた。なるほどな、と思いつつ、そうやって話を聞かねばならないのか、と当たり前のようで、気づきにくいところ、を感じたのだった。

そのとき、ふと、目の前で、AさんとBさんの会話でくいちいが起きていることに気づいて、Bさんの主旨を伝えた。Aさんは「そんなことが大事だと思えない」「なぜ、根堀葉掘り聞くのか」という気持ちだったのだろう。釈然とした面持ち。それを見て、私もそれはいつも思っていると心のなかで思う。

その私の「橋渡し」が気に入らないのか、私に話を聞いてきたが、暗に私の間違いを指摘してきたものであったので、私はこれとこれは条件が違いますよね、と言った。そしたら、今度はBさんが「同じこと」と言って、話を続けた。どこが違うのかと思ったので聞いたが、余計話がこんがらがることになるので、それ以降の話は、無視した。Bさんが指導するなら、私がかかわる必要がないからだ。

頭がいいとか悪いとか、で、マウントの取り合いをしていることは知っている。
だから、どうしても、どこかでピエロ役が必要なのも知っている。

そして、私はそれを「どうでもいい」と思っている。

頭がいいということは、話の言わんとするところが理解し合えるのでいいが、唯物論者のそれの多くは「不満」と「愚痴」と「危機管理」と「批判」に使われるので、そのコーピングで他者に「同調」を求めやすいために、いちいち疲れる。

思考視点が違うのはわかっているのだが、そもそも論じても仕方がないことと、不満を言っても仕方がないこと等に時間を費やすことに、私はよしとはしない。それでも、「どうしようもできん」と絶望したときには、愚痴も不満も出る。だから、「絶望している」ひとのそれは仕方ないものだと思っている。唯物論者は、そういうものだと思っている。目に見えるもので可能性を試算するので、「希望」や「奇跡」を論じようとしない。それは、目に見えないものの世界では、「理論」を以って実現することができるのに。

それで、あまりにも疲れているのか、あまり言わないようなことを言った。でも、それは、今、ここで論じるような抽象的に判断する、考える、見る、の話だったので、よくわからないと言われた。唯物論者は目に見えるものだけで思考展開しているので、そうした話をよく知ることができない。

それは唯物論者だからだと思うのだが、唯物論者だからだよ、と言っても、なんのことかわからないだろうし、そもそもそんな話にはならないので、話したりはしない。でも、わからないだろうなと思って話をする私は、さらに、その「状況」に疲れてしまった。

その後、息子に電話して、来週の金曜日に帰宅しようと考えたのは、ちょうど、私が悪撃をした時間だとわかった。本当に威力が半端ねぇな、と思う。

でも、息子の話を聞きながら、「締め」が必要だと感じられたので、とりあえず予習をさせておいて、帰宅する段になったら、実修にはいろうと思った。

サンガにいるひとにはいろんなひとがいて、いろんな修行スタイルがある。そのひと自身の人生に折り合いをつけて身を投じるひともいれば、そのために生きているばりのがっつり派もいる。それをとって、うんちゃらかんちゃら、と言われるひともいるが、さして、それ自体をとって、どうのということはあまりできないのではないかなと思う。

支部に顔を出さなくても研修に行く人は多いし、支部活動はバリバリだけど研修には行かないひともいる。セミナーに行く人でも経典を全部読んだことがないひともいるし、信仰していても教え自体を知らない人もいる。支部での姿、だけをとって、どうのと言えることもないし、支部以外の姿、をとって、どうのと言えることもないし、ましてや、自分への態度だけをとってどうの、と言えることもないと思う。

そんなの、死んでから分かることだろw

そんなこんなで与えた予習は、それにまつわることで

○ひとの精進を見てひとをさばくな
○自分が努力していることがうまくいかないからって、だめではない。ましてや、その努力を「できない」と笑うひとがいたとしても、それをとって、貴方ができないというわけではない。
○あなたは神を信仰しているひとの精進を見て腹をたてているだけであって、それが神を捨てることの理由にはならない。

とそこまで来て

○外側にある神をみるときは、ひともめに入るから、ひとを感じやすいが、魂の在るみぞおちには、信仰があるために感じられる神がある。そこに意識をあわせることを覚えなさい。


と話した。それを話しながら、勢いが良すぎて、息子だけでは飽き足らず

○職場をかえたいひと
○伝道ばっか言われて支部に行きたくないと言うひと

とコンタクトをした。職場をかえたいひとは、一昨年三帰された方だが、ちょいちょい連絡があって、仕事帰りに話をした。それで、いろいろ話をして、帰宅されたが、ほっぺがまっかになったばかりか、私が話をしているときに眠くなってしまったらしい。何事かw

そしたら、伝道ばっか言われて支部に行きたくない人も眠たいとか言い出す。

あるグループラインでは、グループ電話するときに、必ず一名「眠くなっている」。

そんなに私の話がおもしろくないかは知らないが、そうやって一日を過ごして、ふっと気づいたことがある。私は、Dさんに、聞き方がおかしくて勝手に誤解していたことを。Dさんは、間違ったことを言っていなかったことを!!!!!


誤解はすぐに解け、と。


私は、そこに誤解があったことにまるで気づいていなかった。Dさんは優れたひとで、私は所で一番頭がいいと思っている。でも、「唯物論論議でいうと、「寝かせる」ことよりも「危機管理」をすることが大事なので、彼女のように「寝かせる」意味がわからない。責任者の「責任」が、彼女と「唯物論者」では、意味がまるで違うのだった。

でも、私は、どちらも大事なので、どちらも採用したいと思うが、昨年度「危機管理」の戦いになったとき、Dさんはいろんな攻撃にあって、霊的にはとんでもないことになっていた。それで、私もその渦中にあったので、巻き込まれながら、自分を見失っていた。

ここで、頭の良さを支持することをいったんやめようと思った。もちろん、法友やお姉さま方のなかには「知性」が高くないひともいる。でも、「知性」が高くないからと言って、心の鍛錬ができていないとは言えない。むしろ、法を学ぶ、ということは、心が賢いので、頭の賢さを、ゆうに超えてしまうのだった。


そこに来て、今更「ユダ」。

ええ、ユダを研究すると私言いました。

なぜなのか。


ブラックナイトが夢に出てきて、悪撃したら、ピエロになって、また悪撃したら、蛇だね、ヤマタノオロチみたいな形の、蛇がたくさんいる形になったやつね。あの後、リアルで、プレアデス男子の「迷惑な出来事」に遭遇したのね?

でも、もうひとる「腹が立つ出来事」に遭遇したの。そのひとも知らない人なんだけど、話を聞いているとどうも、おかしいのよ。その言葉尻をひとつひとつ、とっていくと「ユダ」なわけ。職業とか、何が気になるのかとか、その方の「不満」を聞いていたのだけど、後から、それが「ユダ」の考え方そっくりだとわかってね、それで読み直すことにしたの。

で、状況としては当たり前よね。ユダは「現実的な3次元の目線」で生きているひとだから。三次元的に事象を解決しようとする手立てに固執すること自体が、ユダだって言えばわかるかしら。

まぁ、それくらい、本当は厳しいものでね。だから、神は偉大だとか、素晴らしいとか言う前に、その「三次元的な手立て」は偽我の自己防衛の手立てになっているのか、ってことが大事なのよ。その偽我は、一度殺して、また蘇らすことで、個性になる。

大死一番経祈願がいいわよね。祈願じゃなくて、講義も聞いてね。


そうなのよ。殺した分だけ、信仰の意識に変換するのよ。殺すって言っても、肉体的に殺すわけじゃないんだけど、人間の「生命本能」みたいな生理的なものをですね、滅するので、本当に、殺されるような気持ちになるのよ。それを捨てて信仰を選ぶ、ということは。

だから、唯物論者は、自分の心を殺すことはできないひとなんだな、とは分かるのよ。でも、このあたりをとって、「無償の愛」「自己犠牲の愛」というものを言うんだけどね。現実的なこと、が先の人もいるけど、そこから、心に入る人もいるわね。

どっちからでもいいのよ。でも、それは八正道よろしく、いろんな側面から精進を重ねていくと、いつか、根っこの潜在意識の「自分の顔をした魔」とこんにちはとするわけ。精進を重ねたからでてくるのだけど、根っこまで堀り上がったのだけどね。極悪人なわけじゃない。そこまでくると、ちょっと鬱っぽくなるかもしれない。迷いが強烈に感じられるからね。

まぁ、そこにナイトがいたのか、外から来たのがナイトなのか、わからないんだけど、対応者がユダだとは思わなかったな。

ユダにいじめれたブラックナイトは何が「わからなくて」何を「はじめた」のだろう。
ユダはどうしてブラックナイトをいじめたのだろう。


そこを考えたんだわね。

ああ、ユダはキリストを殺したんだよね。お金で。

ああ、ユダはお金を悪に使ったんだよね。
なるほどね、と思うのでした。

そして、本日夫に悲劇が起こりました。本当に慌ただしいイベント祭です。でも、これが本当は「通常」なんです。みなさんは拾わないだけで。

で、夫は気づくんです。
「出来事」への反応、が、夫も息子も同じだということを。


また、実は、友人が私の電話に確認をしてきたのです。研修や祈願を受けると、マイナスからはじまるのか?植福もそうか?と。

答えます。

ただしさを知るには、ただしいさを理解して間違いを修正するところからはじまります。でも、紙面ならわかりやすいのですが、心のことはよくわからないということで、その自分の心の反応がでやすい「出来事」が起こります。

どうして「起こせる」かというと、守護霊が頑張ってくれる、からです。

私の場合、守護霊は、私を動かすこともできるし、ひとを動かすこともできます。それは「おもいつく」をとって、でしょう。そのたくさんのひとを巻き込んだ「思いつく」を使って、出来事を起こすのです。

夫は、たいていのところ、「お金」がからむ出来事、が多いです。本当に多いです。
私は、たいていのところ、「人間関係」がからむ出来事、が多いです。

なので、なんとなくおわかりかと思いますが、私は最初は、それをとって、伝道型、植福型、とタイプわけしてたんですよね。そんなことありませんでしたね!!!!

伝道やろうと思ったら植福しないとできなくて、
植福やろうと思ったら伝道しないとできないんですよね。

これね、伝道という定義が「三帰」だと、もうだめですね。伝道に必要なスキルすべてが伝道ですよね。それって、技術的なことよりも、心の技術から、ですよね。あと、伝道って自分がしているわけではなくて、自分を使って、実際は仏がしてくださる、くらいなことなんで、あんまりねぇ・・・


植福という定義がこれまた「寄付」だと、もうだめなんですよ。結果として、生活する以外の余分なところを寄付することはできるんですけどね、富はそもそもに、「お金」だけじゃないんでね。お金、ひと、時間、空間、物、情報等、いろいろあるんですけどね。

伝道と植福っておんなじなんですよね。

植福が好きな方は、植福が伝道なんだ、って言ってました。私は、よくわからなかったんですけど、今ならわかります。「行為」だけを見ていたら、それはわからないと思います。

ということで、次、ニーチェ退治について書きます。