らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

効率のよい勉強方法

時間がないから勉強できない、っていう子がいた。

やりたいの、やりたくないの、と聞いてみると、「難しい」って言った。大事なことは、やりたいか、やりたくないか、だけなのにね。


   

これに修行の3パターンが書いてあるけど、その3パターンから外れることはないと思う。確か、この本だったと思う。私は、はじめて読んだとき、在家でも出家でもないパターンがいいって心の底からつぶやいたんだよな。

それぞれのパターンには、その歩み方があるものだから、「限界」というものが必ずある。その「限界」も考慮したときに、このあたりを強調してやっていくといいよ、というものも必ずある。だから、それらのパターンを読んだとき、自分はこのあたりの線で生きたいな、って思うのなら、ある意味、ある程度は、「見込み」の上で「諦める」べきだと思う。

そもそも、在家が、出家と同じ生活などできないだろうし、出家もまた同じだと思う。求められるものも違う。お互いに協力しあう、が正しい。だから、お互いに向けて「主張」も出てくるだろうし、その「主張」は、お互いに高め合うものであってほしいな、と思う。

だって、目指すものは同じじゃん。

でも、それが互いに「求める」が大きくなると、最早、宗教じゃないと思うんだよね。形ばかりで、おもしろくもなんともないだろうしね。そうなると、よっぽど、仕事、と変わんないよね。全然、魅力的でないし、そうなってくると、ただの「お付き合い」にしかならないよね。だから、私は、どちらのパターンも心惹かれなくって、こういう「潜在意識の解明」に真剣なんだよね。すごくおもしろいんだもん。潜在意識と現実の関係、ってすごくおもしろいんだもん。なぞなぞだらけで、解明できると、エガちゃんになっちゃう。

でも、その3パターンに共通してあるのは、三宝帰依、なんだよね。
これは絶対。

でも、その法を学ぶのが時間がなくてしんどい、っていうのはちょっとおかしいと思う。だって、ほとんどの経典が「同じことを違う角度で言っている」だけだから。より詳しく理解していくという感じで、それほど膨大だとは思わない。全部覚えろ、ってのは土台無理か、って言われたら、それも違うと思う。

球体がある。
その球体は黄色である。
その黄色は、ふさふさしているところともふもふしているところがある。
その球体は、柔らかいところと硬いところでできている。


って具合に、ある「概念」に肉付けしていくだけなんだから、別個で考える必要ないよね。でも、別個で考えると、覚える概念が、1億個あるよね。でも、それは実は、一つ、だったりするんだよね。

情報を統合するまでがしんどい、ってのはあると思うな。

なので、具体的に私がした教学のスタイルを書いてみる。でも、同時に全部はやってない。今は、うーん、再来週、研修に行くよ!!本は、検索するために最近ひらいたかな。謙虚の本が早くkindleで出ないかなって思ってるよ。(記事書いた一時間後、友人から会内経典だってライン。愛されすぎだろ、私w)


<受験勉強型教学>
○宗教概念ごとにノートを作り、まとめる
例えば、正念についての記載がある経典から、その正念の特徴を表すワードを、全部ひろい、ノートにまとめる。大学の講義をまとめる感じだね。これ、結構、情報を統合させるのには役立ったかな。

○概念を可視化したイメージに転換する
落書きかな。自分がプレゼンすることを想定する。プレゼン用スケッチブックもある。アウトプットが一番効率いいと思うよ。

○表にまとめなおす。

長期休みでやることかな。これは。時間かかるけど、20年かけても統合できない、なんてことはないと思うから、少しずつやればいいんじゃないかな。20年で分かるなら、いい線いってると思う。

<瞑想型教学>

○御法話をかけて寝る。
○車で御法話CDをかけ流す。5年もすれば、全部覚える。
○音楽CDをかけながら、毎晩瞑想する。
○御法話CDをかけながら家事をする。

これ、実は、一番効率がいいと思う。なぜならば、自分に課題となるフレーズだけが、大きく聞こえる、から。もし聞こえない場合は、自分の課題にヒットしていない。だから、3時間も御法話CDかけてみて、同じ部分が自然と聞こえてくる場合は、そこを集中的に、自分の過去の人生をふりかえる。教学って、自分の人生を振り返るってことだって、みんな、わかってんのかな。ひとへの評価だとか、さばくためにあるんじゃないし。まず、自分への正しい評価ができなければ、ひとへの正しい評価なんて、できないでしょ。

同時に光をいれないといけないから、波動のよいCDをかけながして、波長をあわせるようにして寝る。ちゃんと、指導霊に祈れば、反応がある。ひとに与える、自分を振り返ることを主たる目的としない場合は、基本的には、指導霊からの指導なんて入らないと思うよ。

でも、一度、そういうことがわかると指導を受けることがどれだけ容易いかわかると思う。無償の愛にて生きたいか、自分を振り返るための教学をしているか、で、まず、心が満たされているかが点検項目になるでしょ?できるか、できないか、じゃないんだって。それが心への反省項目になっているかってことが重要で、できない自分を受け入れることからだって、ずっと言ってるじゃんね。できない自分を受け入れるから、できなくてもいいや、って開き直るタイプのひともいるけど、それもおかしな話だと思うけどね。

もうちょっと、丁寧に自分へ、努力しなよ。
自分は自分で癒やすもので、環境から癒やしてもらうなら、もう、それは苦しみだと思うけど。

だから、そこから、やりたいなぁって思うか、なんだよね。後は、全託でよろしい。タイミングが来るまで、教学してたらいいと思う。このタイプの教学なら、家にいる時間を全部、教学に使える。教学ってね、言葉に全身全霊で向き合うことじゃないんだよ。もっと、心で味わうものなんだ。だから、頭で、全部拾おうとするから意味わからなくなるんだよ。言葉で心を溶かすんだよ。

今の自分の課題にピンポイントな言葉だけ、を拾える、で十分なんだよ。

これがわかって反省はいったら、わかっていないひとの10年分の反省になると思うよ。ずっと、効率がいいと思う。ただ、自分の時間を大事にしたい、それ以外のことで癒やされたい、っていうなら、受験生と同じで、単なるわがままだと思う。優先順位をつけようぜ。その優先順位で、自分の信仰ポジションは知っておくといいとは思う。無理しないで時を待てばいいんじゃない?

それすらも、自分の状況のせい、にしたら、アウトだと思うな。
世間でも、そういうもんでしょ?
なんで、それなのに、そこは「宗教を学ぶ私」なら許される、の?
私にはわからないな。ちょっと厳しいかな。でも、別に、自分の教学程度に劣等感なんか持つ必要ないと思うけど。おもしろいから、癒やされるから、楽しいから、やるもんでしょ?

やらされてやるのが宗教なの?違うなら、何がしたかったの?
その、自分の判断に、他者は関係ないでしょ。自己責任でしょ。むしろ、そこを見つめたら、何かわかるんじゃないかな?

私だって、ドラマや漫画は見るけど、見方はきっと、宗教よりで観察してると思う。あとは、私のツボを探してるんだけど、私の笑いのツボ、ってちょっと変なんだな、って最近思う。

そういえば、旦那が見てたアニメの中で、真言をとにかく言い続けるシーンがあったのだけど、コレ。何話目かは忘れた。

ぽこぽこやってたのに、体が反応してさぁ、すっごい気持ち悪かったww
真言って何言ってるのかわからないくせに、体への反応はかなりあるから、私、あんまりむやみやたらに唱えたくないのに、聞かせられてビリビリなるとか、ほんと、やめてほしいww
(いやなかんじはなかったけどさ)

悪魔がたくさんでてくるアニメなのに、どうなんですか、って言われたら、ちょっとだいじょうぶですか?と私は言うと思う。そもそも、悪魔が好きなわけでないならそれで十分だし、そもそもに、アニメに出てくる悪魔がそれにぴったり通じているかっていうと、まず、そんなことはないね。悪魔があくまであることを表明しているなら、もうすでに、悪魔じゃないしwだけど、悪魔を可愛らしいとか、優しいとか、素晴らしいとか、共感がもてる、みたいな印象にさせてくるやつは、そういうつもりで見たらいいだけじゃん。世の中は、「こういう認識なんだな」みたいなさ。どう判断するかは、自分次第でしょ。

そもそも、悪魔って悪魔っぽくない。常識人にさえ、見えるもの、だよ。

常識的に教学しなくたっていいんだよ。心を溶かすために、教学するんだから。そもそも、教学が癒やしにならないとしたら、それこそ、問題だと思う。「〜ねばならない」の世界で生きているから、そうなる。それで、心と現実を成功させたひと、おるんかねw

<経典は友人から借りる>
自分だけで揃えるなんて無理でしょ。だから、お互いに経典を貸し借りしたり、智慧を交換したり、祈り合ったりする。たぶん、これ、「マスターマインド」だと思うけど、いくつかの「マスターマインド」を私はもってる。

まず、ぐだろうでしょ?(私の法友ライングループ)
サクセスでしょ?(前所属していたサクセスグループ)
もう少しで、白魔女部隊ができるかな?(今の支部での法友)

あのさ、楽しい、が大事なんだよ。お互いに高め合うことができる信頼できるつながり、が大事なんだよ。相手のすべてを受け入れて、信じられる関係、っていうのが大事なんだよ。互いをコントロールしたり、感情をぶつけたりすることも経てきて、ぐだろうはできているから、もう、かけがえのない絆、なんだよ。だから、祈願には、「ぐだろうメンバーのことは全員書く」。だから、ぐだろうの誰かの祈願にはみんな入っているから、最低年間総額50万くらいの祈願はかかってる。この相乗効果がやばいんだよ。友人への祈りも真剣だし。誰一人として、とりこぼさない。互いに学び合えばいい。

その友人を誇りに思い、イイシラセを知ったとき、主に、自分のことのように感謝して涙を流し、心から祝福し、幸福感に満たされれば、、、自分にも起きることがわかった。こつは、ある。スピードを早めたいなら、しっかり泣くこと。イイシラセを体験した友人を、心から愛すること、尊敬すること。


ぐだろうに入ったなら、上昇するしかない、と思う。
(今は過疎化してるけどなw)

たまに、グループ電話するけど、みんなわきあいあいとしてる。
そんな様子を見て、私はおばあちゃんのように、してる。

あ、経典を貸し合うだった。ぐだろうは遠隔地の友人たちで構成されているけど、郵送で送るんだ。
あとは、経典を読んで、何を反省してわかったか、を共有することにはしてる。

みんなその都度のパートナーがあるから、反省を共有する相手、とはコロコロ変わるけど、互いに支え合ってると思うよ。Mちゃんの豪快さは、いい味だしてると思うし、かなり要るよね。

けど、互いの課題を考える、指摘するは、みんな真剣だけど、くだらない感情に付き合うことはない状態はできていると思う。慰め合うもないかな。笑い飛ばすはある。愚痴はあるけど、なんか、今は、振り切った感じに思う。幼稚園のママ友との付き合いとか、職場の話とか、家庭の話とか、過去の話とか。年長者もいるから、学校との関わり方とか教えたりしてる。まるで、ユダヤ教の日曜日、だね。
ユダヤ教ではそういう習慣がある。年齢関係なくホームパーティし、知恵を交換する)

サクセスは、今は距離置いているからわからないけど、時間のないキャリアウーマンたちが、よく活動しているなぁって感嘆する。私は今、所属が違うから距離を置く形にはなってるけど、こういう現実的に一緒に研修を受けていける仲間って、いいなって思う。実際、養成、となると、このあたりのチームワークがかなり重要だと思うしね。現実的な悩み、はこっちで私はするほうが多いかな。だって、仕事できる女性の集まりだからw

仏言を話すひとは、個人的に仲良くするように努めている。つまり、法を話すひと。そういう方々って、学びまくってるから、おもしろいことがたくさん聞ける。イイシラセもやばいくらいある。仏言が言えるって、そのひとがその法を指針にして、反省しまくって、意味がわかったから、話せるわけ。わかっていないひとの言葉は、的を得ないから言葉が空を舞う。誰しもが、その仏言をひとつは言えるはず。インからアウトまで仏言なら、もう、すごいよね。
(宗教ジョークはのぞく)

それが、楽しく、おもしろく、かつ、さわやかなら、もう、それはプロだよ。

そう、プロとは仲良くしよう。おもしろい話が聞けるし、助言どおりにしてもいい。だって、こういうひとたちが言う助言って、どう転んでも、仏への道だもの。つまり、どんぴしゃでないにしろ、知恵にはなるってこと。

私、実践が大事だと思うから、こういう具体的な展開、を詳細に教えてくれるひと、がすごく大事だと思うんだ。母へ、父へ、息子へ、夫へ、妻へ、、、、どういう反省をしたか、それをするために、何の祈願だとか研修をしたか、を具体的に調査…いや、インタヴューするのが好き。おもしろいくらい、善因の糸のつながりが、見えてくるんだもの。

そうやって聞いたお話は、相手を好きだと思っていれば、自分に必要なときに、かならず、私は思い出す。思い出せるように守護霊が直感を与えてくれるとも、私は信じているしね。

<通学・通勤時間が一番だいじ>
○祈り
○反省
○感謝
ひとりでの運転中は、これを必ずやる。やらなければ、この時間が、ただ時間経過に耐えるだけになり、時間がもったいなくて苦痛。


こうしたことを前提とした上で、の話をする。
守護・指導霊が指導するときは、天上界で、彼らは必ず私達のために「祈っている」

このサインは、体で見つけることができる。

ピーっていう、耳の聞こえの検査用具から聞こえるような音が聞こえる。しかも、左耳、右耳によって、どんな学びをするのか、種類に分かることができる。

なんで、わかったって?
守護霊何してるのかな、って霊視してたら、何か祈ってる姿が見えたんだよ。
なんかありがたいけど、何祈ってるんだろうか、って思ってたんだよ。
その後、ピーって聞こえたから、なんだろうな、って思ったんだよ。
そしたら、半日以内で「ものすごいこと」がわかったんだよ。

それで、たしか、この音って、あるとき、頻繁に一日に何回も聞いてたな、って思い出したんだよ。ゴリ子と一緒に、「美オーラ」受けたときだよ。あのとき、もう、これでもかっていうくらい、反省動画を見せられて、心で認めると、もう泣くわ、泣くわ、泣いたら、自分がめっちゃ変わった、というあの時期だよ。あの頃は、フラットなんて無理無理無理ww感情という感情を嘔吐しながら歩いてたわw

たまたま視た守護霊の祈りで、あの「反省動画」は、私の守護霊が、天上界で、「めっちゃ祈りまくって」、やらされたことを知ったんだよね。

つまり、まず、守護霊とちゃんとパートナーになるべきだよ。学びたい、って、ありがとうってお話するべき。それも毎晩、心を窓口にして。守護霊の支援なしに、反省なんてありえない。要は、ちゃんとやるかやらないかは、行動域だけでは判定不可能。質を高めればいいだけでしょ。

つまり、教学って、聞慧、思慧、修慧、って続くけど、どれも、自分だけでやらないほうがいいんだよね。学び合う、って「愛し合い、睦み合い、信じ合う」じゃないかな?

私は、そういう世界が好きだから、そういうふうになるように、自分を変えてきたよ。
相手のことは、さばいたこともあったけど、好きじゃなかったら、そもそも、こんなに長く付き合えない。