らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

エンパス

ふろんてぃあさんのコメントを見ながら、普通はそうだろうなぁって思いながら、ひとからどう理解を受けるのかを考えてみた。ひとが難なく読める記事、は、たぶん、人間視点で書いている記事なんだなぁとも思った。霊能者視点で書いてみると、てんで、理解が追いつかないんだろうなぁとも。

そりゃ、そうだろうな。

でも、私は「それ」に付き合っていかなきゃいけないし、だからと言って、一般的な感性をもっているひとが理解できないのも当然にして分かる。ただ、私自身が「それ」を拒絶して生きることは、もう、無理なんだろうな、とも思う。

ヴィジュアライズされた霊能者世界って、昔はよくやっていた「本当にあった怖い話」のドラマの延長上なんだろう。あれは、いい、スピリチュアル教育だったに違いないw

でも、あんなふうに、亡くなったひとの霊体を、生きているひとのように、肉眼で見えたことはない。(たぶん。)

霊視って、もっと、違うんだよな。自分は前を向いているのに、背面にあるものを感じ取って「わかる」ようなものだし、腹のあたりを見るように眉間のあたりにあるものを感じ取るようなものだし、背面を見ながら前を感じ取るようなもの、だったりする。だから、その映像が展開する部位は、肉の目ではないんだよな。

霊能の体質、もあると思う。

例えば、御本尊で祈る、ときに、私は眉間から光線がでるイメージなんかはほぼない。

でも、夫は、御本尊で祈る、が極まると、眉間からピーって光線が出たりする。
(本人が感じる。どえらいびっくりしたようで、あれは何か、って言っていた。)

まぁ、ここらあたりがレプとプレの違いそのものだと思う。


どちらかというとプレは仙人気質で、研究熱心なタイプが多い。ゴリ子だって、美に関する関心が強いため、いろんなデータを集めては、究めている。勉強が大嫌いだと言っていたが、こと関心事については、「あなた、それ、レポートですよ」と言った具合。

私の研究熱心な気質は、この記事を読んでくれるひとはもうわかっていると思う。海外のWIKIPEDIAやHP、怪しいスピ界隈の記事、もあさりまくっては、目を肥やしてきた。現実的には何の益もない。ただの娯楽というわけでもないが、関心事については、熱心に究める。

でも、レプ系は違う。

調べる、調査する、考える、をものすごく嫌う。シンプル イズ ベスト。なので、夫は、私が話をするときには「すぐに疲れる」。話を聞いていることができない。で、結論は何?といったふうに、結果だけを知りたい。そう、本当に「結果主義」。なんで、そういう結果に至ったかなんて原因を考えることなんて、たぶん、したことないと思う。ひとのは、責める具合にはする。

なので、昨日、それは「貴方の過去にもあるはずだ」と言ったら、潜在意識で見ることができる「殺人鬼」の波動がびやーと出た。この殺人鬼の波動は、残念ながら、私からしてみれば、誰にでもある。生きている「普通のひと」が、要求を通したいときに出る。一日一回は見る。

でも、それって、おかしなことなの?と聞かれたら、おかしいことはない。普通にある。

でも、それって、悪魔飼ってるよ、とは、普通に思うよw

でも、だからって、悪人ではないんだよね。犯罪者でもないし。
でも、潜在意識にいる「それ」は犯罪者だよw

こういう話をすると、普通の人は、普通にパンクする。でも、私の反省は、その潜在意識にある「もの」を追い出すための「智慧」を要するもので、おおよそ、潜在意識にアプローチしなければ、現実では何も起こらない。いや、起こっているけれど、私は何も感じない。潜在意識にアプローチ、つまり、瞑想による反省をすると同時に、現実の反省も行うんだけれども、潜在意識が現実の行動を制御しているので、現実からねじふせていくことはまず、無理。どうやってやるかというと

○現実の反省は、よいことをとにかく積み重ねていく、無理はしない。
  →改善を考える。思いからの行動、を考える。行動を考えるのは根本的な反省じゃない。
○瞑想の反省は、とにかく光で照らし続けていく、無理するとできなくなるから無理しない。
  →天上界や仏と繋がることが主のテーマ。
潜在意識の層は、過去と現在と未来の集積物なので、過去世の感情にのまれず、過去世界を仏法に基づいて光で照らしたあと、にしか、でてこない。とにかく、たくさんありすぎて、追いつかないのだが、それでも、現実だけから変えることなんか、ほぼ無理だと思う。潜在意識にダイレクトにやらないと、現実の四苦八苦な出来事に付き合わなければならないもの。それでは、時間が足りない。

そういう意味では、時間を有意義に使ってるかもしれない。

そういう私の生活はシンブルだと思う。かえって、主人は、私から見ると「多動」だと思う。

私は心も行動も静かだけど、その心や行動の結果は、激しく動いている。
夫はよくわからない。でも、夫自身の潜在意識に、夫の現実の「行動」は振り回されているのは見て取れるけど、あれに向き合うのは「恐怖」でしかないだろうな、って思う。なんていうか、自分の内に、こんな恐ろしいものがあったのか、みたいな気持ちになるだろうから。

普通は、あるんだけどねw
それに気づきたくない人はずっと飼っているし、気づいた人はそれを超えれるんだけどね。

「心象スケッチ 宮沢賢治 

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

けれどもこれら新生代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
  (あるいは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも…」

ただの霊能者でしょw潜在意識がわかっていなければ、こんなの書けない。

心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地模様よりも
しげく琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
4月の気層のひかりの底を
しはぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ…」


そういうことなのだよ。


その潜在意識へのタッチが深いから、共感率が高くなるのかはわからない。でも、常に何かに通じてイタコしてるのかなって思うと、「ものすごく不快」。でも、思うんだよな。

霊的な何かに繋がっていない人間は存在しない。