らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

お願いと電子書籍の効能

ところどころに本の紹介をしているので、AMAZONに飛ぶように作ってみた。でも、あまりにも、私がわかっていないので、リンクを押しても飛ばないようにできているか、URLが間違っているか、URLしか見れないようになっているところがあると思う。

それを、コメント欄で教えていただけるとありがたいです。修正します。

ちなみに、私は、書籍と電子書籍、両方使いです。

しっかり読み込むぞ、というときは書籍を使います。

なにか調べ物をしている、または、知りたい情報がどこにあるかを探すときは、電子書籍を使います。本が好きなので、もともと、私はAMAZONKINDLEを使っていたので、2年前から、我が家の書庫として使うようになりました。

もっているものをまたはじめから買い直すということに戸惑いがありましたが、ガリ勉と勉強と本大嫌いな夫の先入観を打ち払うために、ipadで読ませてみたところ、さくさくと読めるということで、仕切り直しになりました。

書籍のほうは、家族でほしい方が買えば良いというスタンスで、私が購入する新刊はすべてKINDLEです。

KINDLEのよいところ
○5人まで家族とシェアができること
○テーマごとにグループを作れること
○ワード検索できること
○本棚を増やさなくていいこと
○本を失くさないこと

夫、母、妹、息子、私、といったように、ひとつのアカウントで現在137冊をシェアしています。使う頻度はそれぞれに違いますし、主として利用しているのは私です。ですが、夫が読む、ときに、現物がどこにいったかを探す必要がないのが、最も楽なところです。一覧から探すときも、本の表紙が並ぶので、タイトルを覚える必要がありません。

テーマごとにグループわけするのも、とてもいいです。家族でも勉強している内容が違うのですが、八正道を勉強しようとなると、以前勉強していたひとが作ったグループの書籍を読むことができます。研修前の事前学習書籍も、こうやってまとめておくといいと思います。悟後の修行にも使えますし、勧進の参考にも使えます。

ワード検索は、教学をするとき、私にとっては必須条件でした。愛、希望、夢、執着、欲望、光、魂という言葉ひとつひとつが、私達の理解している定義している意味であるとは限りません。内容について考えるだけでなく、自分がこういうことだと思っているもの自体が間違っていることを知るためのものでもあります。ですので、全文検索するために使います。足りなければ、新しく本を買うことにもなります。一般書籍を網羅した上で、会内経典への深い理解と繋げる反復作業は、とても有効かと思われます。反復することは大事なことです。

ワード検索を嫌がられることもありますが、職員の方にお願いすると検索してくれます。会内経典ですと、調べてもらわなければなりません。調べてもらわないとできないこともあるので、私は調べてもらいます。お願いすると驚かれることが多いです。でも、必要なんです。わかっていただきたいと思います。大学の図書館でも国内外の所蔵検索機能ができたり、研究論文のワード検索できるでしょう?

今はニーズがないでしょうが、いつかは必要になるときが来ますよ。その頃には検索ソフトが有料になるかもしれませんね。

おおざっぱな理解ですと、おおざっぱな修慧になります。反復を重ねると見落としていたフレーズが必ずあるとわかります。その見落とし、が今問われる智慧です。なので、修慧を重ねていくと、経典の見落としがなく、「覚えている」という実態になります。それを可逆的に、「覚える」ことからはじめるのも、いい修慧を導くでしょう。

人には力の特徴があるのですが、視覚優位の方にとっては、電子書籍はとても読みやすいものだと思います。言葉の力は訓練によって与えられるものでもありますが、KINDLEだと辞書検索もすぐにできるので「嫌になる」回数を減らすことができます。言葉が難しくて読めない方は、こうした機能を使うことでストレスを減らします。後は回数を重ねれば、自然とおぼえて使えるようになるのが「言葉」ですから、「言葉」が苦手な方すべてにとって、電子書籍は画期的なものなのではないかなと思います。

翼竜型やゴリラ型ルーツは言葉を、コミュニケーション道具として使うのが下手だなぁと思うことが多いです。そのためか、言葉の力がやや低い傾向が見られ、結果、書籍離れを起こすか、ご法話睡眠、に至ることがあるように思います。言葉の力は、孤独な世界での訓練なので、こうしたツールで訓練されてからの、教学、がよろしいと思われます。

内容の難しさを解く、少しずつはじめたらいいかなと思います。内容が難しいときは、子ども向けの書籍を先に読みましょう。驚くほど、大人向けの書籍と同じことが書いてあります。大人向けの難しい内容になってくるとわからないものには、こども向けからはじめると、だんだんとわかってくると思います。ひとを責める傾向が強い人ほど有効です。語り口調が、読み手にあてられた書物、だからです。大人向けですと、読み手を意識した書物になっていないように感じられますが、本来、作者の意図は、読み手にあてられたものです。

善良なひとにとってみれば、その内容は当たり前なことが書いてあります。当たり前だけれど、日常がそのようにあるのならば、私達には苦悩に満ちたりしません。そういう清浄な考え方に触れること自体、が癒やしになるので、こども向けの書籍は読まれるといいでしょう。

(それを人に期待するように読んではなりません。教え、とは自己研鑽のためにあります。)

KINDLEの悪いところ

○目が悪くなる
○霊的な波動を受けにくい

ブルーライトがいけないのか、私の視力は格段に落ちました。びっくりするくらい落ちました。書籍を読むことで目が悪くなるという主張は、迷信です。暗いところで読んでも、紙に書かれた書物であるならば、目が悪くなることはありません。視力が落ちるのは、背景の光の具合と、焦点をあてているそれとの差が激しいときに起きます。私は、小さい頃から本が大好きで、どこでも本を持ち歩きました。車の後部座席でも本を読みました。二宮尊徳像のように、小学校の帰りには、本を読みながら下校しました。電気を消されても、読みました。そんな私の視力が落ちたのは、携帯電話を使うようになってからです。それまでは両眼とも、1.5でした。

私は語彙力がありませんでした。日本にはじめて生まれた私は、言葉がでるのがおそくて、保育士の祖母に発達を見てもらえと母に助言しました。インプット量も潜在的な経験もないので、アウトプットが難しかったのだと思います。今でも、私の話は英語構造になっていることがあり、日本歴の長い魂の方は難解だと思われることが多いです。英語の作文構造と日本語の作文構造も、本質的に逆です。世界的に見れば、日本の文章構造はマイナーに位置します。なので、日本語話者が英語話者になるのに、10年要します。逆もしかりです。でも、英語話者がフランス語話者になるのは、それよりもぐっと短い期間です。理由は、文章構造にある、言葉の位置がまったくの逆だからです。脳の回転が、帰納法なのか演繹法、なのかの違いでもあります。

(日本語は帰納法に優れた文章構造、英語は演繹法に優れた文章構造です。)


 
購入するなら、kindlepaparwhiteかなと思います。これから購入される方には、広告なしを激しく勧めます。私は広告つきを購入してしまったので、とても嫌な思いをしています。本を読む前に、本以外の情報が表示されると、自分の心が乱れるような感じがします。読みたい本ではなく、読まされる感じさえします。すごく不快です。

ipadをお持ちの方は、kindleを購入しなくても、アプリダウンロードすれば使えます。夫はそのパターンですが、私はPC作業とわけたいのでkindleを持ち歩きます。日常では、iphoneのアプリを常用します。つまり、旅行にはkindleを持ち歩きます。


自分が読むべき本、というのは、守護霊が教えてくれることもあります。夢で指導されることもあります。あるとき、水色の手帳サイズの本を、支部で手にする夢を見ました。とても印象的な夢だったので覚えていて、支部で探した所ありませんでした。3ヶ月して忘れそうになったとき、支部で見つけました。「永遠の祈り」。

それで、探したときになかった、と聞いて回りました。敬愛するお姉さま先輩が、あるとき、ふっとおもいついて、未来館から取り寄せた、と聞きました。私は驚きました。その夢を見た頃と、取り寄せた時期が一致していました。確かに、私の守護霊はそれを読め、と指導したのでした。そののちすぐに、その祈りを確かに必要とし、その祈りのための修行がはじまり、その祈りにように、私の修行は進みました。なので、あるところの「それ」の意味は、とてもよくわかります。成功もしました。

(もちろん、それが自然体にできるように、回数と範囲を広げるように、これからは進みます。はじまり、の話です。)

それ以外では、礼拝室でお祈りをしてから、本棚をぐるっと歩きまわる、目につく、手に取る、といった作業で行うこともあります。そうしたときは、自分の心を精妙にして、自分が選ばないように、見渡したり、目を閉じて、触れたものから選ぶ、というようなダウジング的な行動になります。表面意識で選ぶのではなくて、守護霊が伝えるものを選びたいからです。表面意識と潜在意識は、それほど認識が違うので、こうしたことに関しては、あまり「自分」をあてにしないほうがいいでしょう。

なので、支部や精舎の経典掲示を縮小には、激しく否と唱えます。いろんな理由があるかとは思いますが、守護霊が指導する経典を、現実的に知りもしない人間が、手にするとしたら、偶然という必然の上にあります。その偶然の機会を失わせるような環境をつくるのは、天上界の意向に沿わないと思われます。図書館なのか本屋なのか、どちらでもいいですが、書籍数の少ない小売店で私は本を購入することは、ありません。「雑誌」を買いに行くことはあっても、その店に期待はしません。ビルの3フロアくらいだとか、大きな本屋に私は行きます。そうした本屋には、いろいろなジャンルの本が充実して置かれているからです。雑誌を売りたいのであれば、それで構わないと思います。何を意図するか、だと思います。

経典保持数縮小反対には、他にも理由があります。思いがけないことで手にすることもあるからです。経典整理をしていたとき、手伝っていた次男がぼろっと落とし、帯を折ったのがこれ。
 
仕方がないので購入になりました。くそう。ヒトラーの本なんか、ほしくなかったのに。でも、やはり、必要になりました。読んでみると、驚くほど、神仏のやり方と同じなのがわかりました。そうなんです。やり方とか構造は、神仏と悪魔って同じなんですよ。天使が堕天すると悪魔になる、とはそうした理屈なんです。

同じやり方なのに、方向が違う、本質が違う、んです。荒ぶった言葉、をとって、または神への反抗心をとって悪魔だな、なんて判断は誰でもできるんです。そんなわかりきったことを知るために、教学してるんじゃないんですよね。

こうした霊言には、必ず、悪魔が間違った原点、が書かれています。追調査が必要な場合は、何本もでます。その追調査の過程にあるのに、あのときはああだったじゃないか、と主張するのは愚かなことです。また、彼らの間違った原点はおおよそ「迷い」だったり「執着」だったりします。それが必ず書かれているので、それを読み取れなければ、エクソシストすることはできません。

この場合ですと、「自分を愛するならば守ってやる」部分がありました。つまり、彼は「愛されたい」のでした。では、私達はどうでしょうか?自分を理解してくれるひとには、心を開きやすいです。自分を理解してくれていないと思うひとには、そのひとが正しいか間違っているかにかかわらず、冷静さを欠き、「いかに相手が間違っているか」を立証しようとします。それが人間らしい、と言われればそれまでです。でも、理解してくれるからって、自分がしたくないことは拒絶する、なんてこともあります。とても、身勝手ですよね。でも、現在の私にもそれはあります。あって当たり前だと思います。自分の人生がある限り。でも、それがあまにも度をこしていないか、謙虚な気持ちで自分を受け止めているか、を点検する必要はあると思います。


また、私は彼の歴史も追跡します。追跡すればするほど、構造が同じとわかります。キング牧師のようにある日、目覚めたという現象があります。また、彼は未来が予知できた記述もありました。彼の部下、は彼を崇拝していました。それは、彼の「言葉」に魅了されたからです。

預言者は「言葉」にて、光や神の意思をおろします。同じでしょ?

今はソースを精査する必要はあるものの、PCひとつで、世界に調査がかけられるようになりました。自分が理解するところの言語圏域に限定はされるものの、資料はあまりあるほど、です。それを収集しながら、判断していきます。


やり方が一緒だったら、何してもいいわけじゃないんですよ。導くひとの心というものが、本当に大切だって、分かるじゃないですか?だから、「徳」というものが本来は重要視されるべきなんです。

戦略を思考することは悪いことではありません。でも、それに勝るのは、「徳」です。


効率のいい運営をするために「徳」を無視するのは警鐘が必要だと思います。私は次男を叱りましたが、結局の所、その私の発見は、私の反省だけでなく、私の家族への、悪霊憑依の原因を指摘することができるようになりました。現実の不幸の原因を明らかにすることができました。それは、勉強してわかったから、「発覚」するんです。

去年のエル祭に、可愛がっている若い子を連れていきました。苦境にある彼をどうしても連れて行きたかった私は、お金、で困っているために思案しました。お金と愛、という命題をつけて、グループ電話でセミナーをすることにしました。いわゆる、私がわかったことを伝える「法談」ではありますが、あなた方には同じようなことはありませんか?という点検作業も込みでした。

参加者はとても楽しんだようで、新しい発見にうなされました。ある種、興奮状態だったのですが、最後に実践として、植福をお願いできませんか?と伝えました。いわゆるチャリティーをしました。とても植福をしない、とはいいにくい状況ではありましたが、しない理由もまた教材になるので、大歓迎にしました。その実践、のなかで話された内容は、机上の空論、ではないので、とても意義がありましたし、参加者を啓発する情報もたくさん出ました。その充実っぷりは、参加したひとにしかわからないのですが、正直な所、誰でもできるわけではないと思います。

私はもともと、そういうプレゼンをする仕事、が主でした。わかりやすく教示することも、体験的に理解をさせる仕事でもありました。授業、をするひとです。ファシリテーターを飛び越えて、エンターテイナーかもしれませんね。状況も環境も素材も、すべて、その教示する内容に使いましたから、それができる人というのは、経験的にやったことがある、ひとしか無理だと思います。その様子は、NHKハーバード白熱教室、や、海外の学術プレゼン系動画、から私が学んだものです。

私のエンターテイメントに対する対価として寄付を募り、その寄付自体に学びを提供しました。その結果、いろんな状況で行きたかったけど行けない予定のひとが参加できることにもなりました。(与えたものは与えられる)

その連れて行きたかった彼が、行けてよかったなぁとほくほくで帰宅したときに、事件は置きました。嫁の浮気発覚です。それも、本来なら見つかることのない、無理な状況でしたが、偶然、見つかったのです。まぁ、行ったから発覚したのですけどね。

そういうかんじ。妄想じゃなくて、現実の実態を良好にするわけですから、発覚からはじまりますよね。なんでも。自分の修行なら、自分の悪しき傾向が結果として不幸になったを、巻きで味わうようになっていますよね。

それが光を浴びた効能にもなりますし、修慧の試し、でもありますしね。


彼はよく頑張りました。不幸続きの状態でしたが、ご自分が一番よくわかっているので、ある種あきらめながらも、自分を修正して、希望を失わないで生きています。若いのに、苦労しているひと、はいるものです。


で、このような「光」は、電子書籍から発せられることは、まず、ないです。実際にある書籍を手にした瞬間、背中が軽くなった、ヒーリング状態になった、はあります。課題まっさい中のとき、手にした書籍がこれ。鬼退治にもいいでしょうね。
書籍をうちで手にした瞬間、メンソール水が背中にざーっとすがすがしくひやひやしたかんじで、身体が楽になりました。楽になると身体の動きが違いますよね。それを体感して、内容を読んだときに、私はちょっと愕然としました。

謙遜と謙虚と甘えは違うんですが、よく日本人がやる「謙遜」は「甘え」に近いものです。それって、だって、言い訳でしょ?私のようなものが。。。美しい言い回しをしているだけで、言わんとするそれは「拒絶」です。

謙遜とは、褒められたことに精進します、と返すことで、現状に満足しない向上心を伝えるときに使います。

謙虚とは、自分の実績にたいして、自分の力の結果ではなく、他の支援があったためと、力の誇示をしないで他のひとを立てるときに使います。


私は指導者になりたいわけではないので、これを読めと霊的指導を受けたこと自体に怒りました。なりたいものになるための指導なら、大いにがんばります。なりたくないのになれ、と言われ、強いられる事自体に不快さを感じます。そんな怒りをもつほうなので、私は激しく精進中なのですけど、今お話したことは、私はできていません。いつも、私はなりたくない病からかもしれません。


まっすぐに目指せる方を祝福することからはじめたいと思います。


そんなこんなで、電子書籍で、霊的インスピレーションや霊的指導を受けること、はないと思いますね。書籍ってすごいんですよ、という話でした。あと、霊能者じゃないからって、これが起きていないひとはいません。感じない、わからない、だけなので、いつのまにか指導を受けている状態です。そんな体質レベルのことに、天上界の方が不公平な扱いをすることはありえませんよ。

ですから、深く深く、指導霊、守護霊、天上界の皆様に、ご自身の人生の幸福の感謝を伝えてください。さらに、指導が入りやすくなります。