らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

豊かな毎日

今日は、旦那と買い出しに行った。久しぶりに楽しかった。

 

 

帰りの車で、旦那が、私の友人の床屋で、ショックだった出来事を話した。

 

 

旦那に似ているひとがYouTubeにいたと話してくれて。YouTubeで映るその人を見て、旦那はショックを受けたと言う。でも、その人は確かに旦那に似ていたのだと話を聞いて思ってた。

 

旦那は、ちょっと、まあ、なんというか、短気な方で、見た目が、いわゆる反社な感じだけど、下っ端チンピラみたいな印象があった。今でもあるんじゃないかな。

 

今もヤンキーな感じが出る中年というか。

 

それで美容院を変えたのかと思った。

 

でも、1番は、常に、怒りの波動が出ているというのが、そう見せている、のだと私は話した。

 

ちょっとしたことで、メンチきるようなやつ。普通は、そんなことで、メンチきったり、マウントとるような行動に出ないのに、わたしから見て、そういう雰囲気はおかしいのではないかと指摘も何回もした。

 

けど、私がおかしいかのように言われて終わりだったのが、まさか、そんなところで、彼にわかりやすいように伝えたひとがいたとは。しかも、私の友人は、決して、邪気はなかったと思う。

 

とにかく、ここしばらくは、、私は、旦那をほっといて、私自身にむく私に迷惑なことを伝えるだけにしてきたのだ。

 

いろんな話をしてきたが、旦那が傷つくか、傷つかないかもおかまいなしに、私の話をするようになった。主に、私が話さないできた、私の苦労話や、黙って頑張ってきたことを、逆に、黙らないで、嫌だ嫌だと言いながらやる姿を見せてきた。

 

自分の気持ちを話すことに努めた。

 

旦那は、私がしてきたことをやるようになった。苦手だと任せてきたことが、実は、めんどくさかっただけで、誰にでもできることだとわかったことが続いたときに、できないのはめんどくさがってやらなかっただけだとわかったと言うようになった。

 

やってみるとやった方が自分にとっていいことだとわかったらしく、こんな簡単なことをなぜ、今までやらなかったのかと言うようになった。

 

そのうちに、私がやらないままにほっとくと、自分でやるようになった。

 

やり方がわからないものは、ほかっとくこともあった。例えば、お経のCDがとぶから、気になって仕方ないから、どうにかならないかと。CDがとぶのは、霊障的なものだから、音量を上げればよいと伝えたが、CDが劣化したからだと言ってきかなかった。

 

SDカードにおとしても良かったが、どうにかならんか、と言われて、黙っておいた。そしたら、旦那は黙った。やり方がわからないから仕方なかったのだろう。

 

ほかっておかれたCDは、今はとぶことなく、調子良くまわっている。そう、旦那は、こうした小さな事で、念波を飛ばしていた。念波動がとべば、劣化した機器は、うまく動かなくなりやすい。自分の念波で不幸になっていた、とも過言ではない。

 

とにかく、ここ最近の旦那は調子がよくて、穏やかになってきた。仕事は忙しいけど、仕事の状況で、自分を変えたら、いろんな感じ方が変わったと話してくれた。研修や教学をしない旦那に私が話をすることが多かったが、最近はしなくなった。

 

ただ聞くだけだ。

 

面倒になってきたからでもあるが、研修や教学に肯定的な姿勢になってきたからでもある。要は、私が安心したことが大きい。

 

また、いくつかの研修時に、御法話を聞いたときに、聞いたことがあると思ったら、全部私が話したことだったと何回か話してくれて、あまり私が話さなくていいと思うようになったこともあった。

 

ある程度は、私を通じて、知ってはいると思ったからだ。

 

もともと、言葉の力、論理性のある思考が苦手なタイプなので、おしゃべりも苦手だし、情報量が大きくなると、脳が受け付けなくなるのに

 

私は、彼の力の特徴がよくわからずに、話が通らない、話が続かないのを見て、その原因を悪しきに見てきた。

 

あるとき、ある講師が、そんな旦那を見抜いた。あなたは、この経典だけでよい、とすすめた。私は、自分がしてきた教学とは全く違うスタイルに驚いた。

 

そのあと、教学量が私と全然違う旦那を見て心配した。霊的指導というものは、現実的に、努力して得てきた知識を用いる。だから、知識がない場合は、もちろん、指導らしい指導を受けられないのかと思ったりもした。

 

が、その後に、祈願をばちばちに重ねている旦那を見ていて、そうではないことがわかった。

 

あまり教学をしている様子はなかったものの、彼が思うこと、出来事を通して考えたこと、に、真理にかけはなれたこと、は、なかった。

 

でも、私自身も、法談のように、仕事や家庭での反省を話したり、旦那のことを褒めたり感謝したり、と、かかわりのなかで話す内容も、すこしは感化させたかもしれない。

 

でも、こういうひとは、当会の映画は、一縷の救いの綱のように、わかりやすい教学になりえ、それでわかることがかなり大きいと思う。

 

経典CDをかけ流しての入眠にも、抵抗がなくなった。それがないと私は困るから、寝所を分けようと話も出たが、いつのまにか、私の方が音量を気にするようになった。

 

研修は受けてないが、祈願は、何本もかかっている。(本人が受けたかったわけではなく、いろんな家庭の事情で)

 

1番大きかったのは起死回生だと思う。本人は、実感がなく、なんなんだ、みたいな感想だったが、あれから、徐々に変わり、まるで違う人間のようだ。

 

もう、チンピラくさい波動が出ていない。

 

 

まあ、そういう背景のなか、

 

自信がないのはね、人を馬鹿にしてるからなんだよ。人を馬鹿にしている人は、人をそのような目でみる限り、自分もそう見られることがある、と分かる。だから、いきりたつ。

 

どんな人でも、ちゃんと生きてる。馬鹿にすることが愚かしい。

 

だから、そゆのがなくなれば、自信とか考えなくても安心する。安心してたら、怒る必要がない。

 

 

なんて、自分にはないだろうと思っていたその感覚が、ナポレオンヒルの貧乏神追い出しをかけたその最中に、ずっとあったこと。

 

もっと言うと、その人に向かったイライラは、その人のせいではなくて、自分の不満感から来るものだった、と

 

一年前の祈願を受けた話をした。

 

 

サロンパスを貼りながら、豊かな毎日だと思った。

 

今日から、スターウォーズ鑑賞月間がはじまります笑