幸せ波動
昔の友人とイタリアンランチに行った。
友人がジェノベーゼパスタを頼んだので、
うちにも、父が仕立てたハーブ畑があるので、昨日作ったジェノベーゼソースの話をした。
私が作る料理は、主にハーブを使用していて、食べるひとを選ぶので、あまり作らないという話をした。
食べに行く先で食べて、味を知って、美味しいものを作るとなると、そういうものではないか。だが、需要はない笑。最近、妹が慰めるかのように食べてくれるので、ちょっと作る回数は増えた。
彼女と話をしているとなんだか、他の人と話をするときと感じが違うことに気づいた。
彼女は、子どもを大事に大事に育てていて、パートの仕事もさくっとやっていて、同居のお母さんともうまくやっている。
子どもを出産して育てて、の間に、いろんなことがあったようだけど、その間のことは、終わったことなので、サクッと話して終わる。
お互い大人なので、そういうふうな感じなのかなと思うんだけど、たぶん、彼女の性格なんだと思う。
ほとんど私が話してたような気もするけど笑
同じ年齢でもさ、人によって、世界の感じ方とか、仕事への考え方とかまるで違う。
彼女は、仕事で何か向上心をもって頑張るというタイプでもなくて、でも、そつなく仕事をしていて、仕事に思うことはあるにせよ、過度な感情移入もせず、悲観的にもならず、淡々と仕事をするようなタイプで
昔、この資格をとるか、とらざるべきかを深く悩んでやめた私の性格とは別に
彼女は、そんなもの行けば誰でもとれる資格だからって笑う。
誰でもとれる資格だとか、そういうふうに考えないもので、取るまでにかかる時間やお金のコストなんかを考える私とはまるで違うくて、ただ、淡々とこなすのである。
母として妻として娘として、送られる毎日は、平坦なようで、幸せに満ちたものだった。
不満はないのか、と聞いてみたら、ないなあと言って笑う。
かえって、不満や絶望、悲しみのときに連絡してくれる友人もいる。
私から見て、その出来事は、世の中にありふれたもので、致し方ないことだったりする。どんなに自分の想いがあっても、通らないだろうことに、想いをくべても通らないのに、通らないわがままに自分だけなぜ惨めな想いをするのかを問われても、考えたら分かるだろうとしか言いようがない。
かえって、人の不幸を断罪するかのような批評家タイプの友人もいた。
私は、それを家族で乗り越えて、大事に思ってきた妹だったので、外から批評されたために、怒って、一体何が目的でそれを聞きたいのかと問い詰めてしまった。
離婚という出来事にまつわって、どうやって支え合うかのところは、ひとによって異なるものだし、それぞれの目標があるものだから、それを批評して、いいか悪いかを考えるのは、そもそもに、個人の自由意思すらも阻める。
私の家族は、たまたま、保育のプロと、心理と教育のセミプロがいて、そうしたライフイベントと、ライフイベントにまつわった問題の表出のプロセスを知っていた。
ただ、問題解決に至るまでには、当事者という難題、自分達が目標とする成功事例がないために、真っ暗闇のなかで、知識を使いながら実践で手探りで解決してきた。
情緒に問題があった甥っ子は、養育環境の改善と安全基地の設立をもって、通常級に移行した。
情緒に問題があった甥っ子にかかわる妹と父母の養育態度の改善要求とともに、その問題ある養育態度を形成した大人側のトラウマに迫った。
それは、本来数年で解決することは難しいと思われるが、4年で始末がついた。それは、私達家族にとって奇跡だった。
やってきたから、分かることが、たくさんある。
その間に、巻き込まれて、巻き込まれてしまう自分について、または家族について、近くに位置する琵琶湖精舎にはよく行くことがあった。
幸福な家庭なんか存在しないとさえ思うたび、家族でいらしてる他人を見て、勇気をいただいた。
だから、琵琶湖精舎の夕べの祈りである音楽が流れると、パブロフの犬のように、その当時の自分が想起されて、たいてい泣いてしまう。ただ、今は、そこに、成功しました、ありがとうございました、がついてはくる。
でも、パブロフなので、泣き方が半端なくて困る。
離婚した妹に何が問題だったかを批評されたとして、成功した私達の見解では、それを問い詰めて提示することこそが愚かなことであり
むしろ、傷つきを癒やし、どうしたら成功するのかを自身のかかわり方で見せることと、彼女の不満を受けとめること、努力の方向を示すことの方がずっと大事だった。
しかもスモールステップで。
ただ苦難に耐えるんじゃなくて、解決の方向を示して、それを解決するための何かの耐え忍び。
苦難に耐えるのは、解決の方向がわからなければ、絶望感がともなうのは、当たり前だ。解決に向かう方向があるから、努力の忍耐になる。
だから、先に話した、わがままの努力は、解決に至らないので、時間の無駄であり、絶望のスパイラルにしかならない。
そんなふうに、今の自分の状態を知った上で、想いを開くひとは少なくて、彼女みたいに不満はない、と言い切る人も少ない。
仕方ないことに不満をもらすのも時間の無駄だし
(仕方ないと分かるまでは不満と気付かずに話すことは多いのかも)
大事な本質を話さないで、周辺域の蘊蓄をたれることも時間の無駄だと思う私が
いざ、幸せだと言いきる昔の友人と、どうかかわっていいのか分からない自分を見つけた。
ピラティスや朝練?にいそしむ彼女は、私よりも肉体の管理が徹底されているし
他人ごとには距離を置きつつ、自分をマネージメントしていながらも、ゆるっとした関わりのなかでも、言葉を駆使しただけの頭のよさではない本当の賢さも見える。
Tシャツひとつ、洗練されていて、なんだか、素敵なマダム。
高校時代を知る私は、彼女に苦労や失敗がなかったとは言わない。ちなみに、不満をたれる友人、不幸を批評する友人も、どちらも、同い年。
なんだかなあとか、怒ってしまった、とか、あっても、あの子もこの子も幸せになってほしいとは思う。
…次回は、とりあえず、ハーブをお土産に持っていこうっと。
私は、彼女と波長を合わせたい。だって、私自身の人生も幸せだと思うから。