らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

国家資格か奇しい資格か

国家資格をとるために大学に入り直したらいいよ、が100%

でも、誰だって、「頑張るひと」が好きだ。だから、やめときなよ、と言うひとは、私の周囲にはいないので、どうしても、100%になる。

と思ったときに、ひとの助言はあてにはならない、とわかった。


それでも、私としても、大学編入で得られる資格でできることを考えたときに、あってもいいな、とは思う。だけど、なくても問題は全然ない。でも、もしかしたら、勉強の時間が無駄になる、とも言える。

私の世代で、心理学の大学をでて得られなかった資格なんていうのは、「公認心理師」である。

で、どうしてこだわっているかというと、この「心理学」の解剖学にも似た、分析、という手立てや、身体とからみあった反応を詳細に知る手立ては、霊的作用と身体と心、の様相を理解するのにぴったりだからだ。

昨日おしゃべりしたふろんてぃあさんとは、1時間半ほどかけて、

1霊能者さんの感覚について
2悪霊がはいったひとの特徴
3私の特徴

を話した。霊能者さんと呼べるような方の、「霊的感覚」や「霊的視点位置」は、それぞれに若干異なる。霊体で視るひともいれば、幽体で視るひともいる。幽体は現世で生きる私達の肉体相応で見えることだし、霊体はあの世の姿である。

ちなみに、ヒーリングするときは「幽体」を、私は視ながら行う。

そして、私は、「粒」を視る。

ひとによって違うし、あまりそのところの出来、不出来は、ひとと共有したことがないのでわからない。が、ちょっとしたインタヴューでは、すべてが「霊体」までである。(ゴリ子は違うかも)

…私は、つぶ、を視る。

このつぶ、が視えるひととそうじゃないひとの差は調査したことがないのでわからない。でも、他の人からは発言がないな、というものは

○細胞を視る(透視で病変を視る。黒いモヤ→臓器の確定→その部位の霊視→細胞)
○魂のなかにある黒いつぶが視える
○過去世ばっちり(フルカラー動画)

かな、と思う。特に、魂のなかにある黒い粒を抽出して、顕微鏡みたいに拡大して、その粒の世界を視るということは、あまりできないかもしれない。(やりたいとは思わないのかも知れない。)


そう、私はオタク。

それを知りたいを思うのがオタク。

知ってどう生かすか、なんて考えないのがオタク。

ただ、「どうなってんの、コレ」という好奇心だけで動くのがオタク。

その情熱だけで、数万のユングの「赤い本」を買えちゃうオタク。


でも、なんでかなぁという理由に、やっぱりもたげてくるのが、学術的アプローチ法を採用するか、否か、なのである。ただ、ただ、「霊的に知る」に傾倒していけば、そんな必要はない。私は、どうしてそうなっているのかの理屈を、ただ、ただ、知りたくて、注いできた。

私はオタク。

で、その理屈を知るのに、経典に書いてあるのをそのまま受け取るのではなくて、その書いてある内容が、どこのことをさしているのか、どのことを言っているのかを、「正確」に「詳細」に知りたがった。それはもう、ただの「知的好奇心」が原因である。

例えば、仏の外には何があるのか?

これも、私が導き手に疑問を呈したはじめの質問であった。答えは「ない」


ないわけなかろう。ないというのなら、「仏は存在しない」ということになる。どういうことでそれで「存在せしめているのか」と私は投げかけるのであった。でも導き手の答えは「ない」だった。

今の所の私の答えは、「ない」という表現もただしい、である。

(どんなことだって、鵜呑みにしないで、分かるまでは多角的に仮説、検証、考察、するべきだと、私は思う。信じていることと、研鑽することは意味が違う。信じているから学び研鑽する、だと思う。あたかも、仏が言わんとすることを、自分の視点が適正であるとして、一度にばきっとわかっているかのように、そう刷り込んで生きることほど、愚かなことはないと思う。まずは、自分の視点が仏の視点とはまるで違うことを確信してほしい。)

なぜ、ないのか?

私達は、「仏」のなかに内包されている。私達が世界の限界をとって、地球体のエネルギーを仏と呼ぶなら、仏の外には宇宙がひろがっている。でも、私の言う「仏」は、それではなく、宇宙の「根本仏」である。

ならば、宇宙というビッグバンが起きるまでの「仏」を形成したもの、とは何か。


(あ、急激に眠気が襲ってきた。ちょっとホワイトアウトしそうww地球に下げる。下げる。。。)

で、仏の外にあるのは何かってことなんだけど、メン・イン・ブラックのワンちゃんが首輪に下げていたあの「宇宙」とか、コインロッカーにあった「アレ」と同じ理屈で、仏の外にあるのは、仏が内包するほうの「世界」だと思っている。

三次元のワタシたちの世界は、もしかしたら、仏の潜在意識の構成要素、かもしれないなぁ、と昼休みの散歩で思ったりしたものだ。


そう。。。私は、そういうふうに出来ている。
(対象に集中すると、無意識にそこと同通する)

そう、だから、国家資格をとったとしても、奇しさは満点なのである。
でも、そういうことを「知る」「思いつく」ときに、心理学のそれ、は、ひとを知るときに有効な手立てだと思うんだ。

(心理学と言っても、心の理を学ぶわけではない。むしろ、外界と肉体の反応のプロセスや結果、を詳細に解明する学問だと思う。ここを間違うと、心がわかる、学問だと思ってしまう。それをやりたかったら、宗教である。心理学は、そういう学問では、そもそも、ない。そのプロセスや結果、反応に、不適応という状態が起きると、社会活動が問題化するため、困っているひとへ自分との付き合い方を知らせるようなものが心理学の効用か。

そういえば、御本尊がきたとき、おかしなことがあった。まぶたをとじると視界が白いのだった。まぶたをあけると、暗い部屋が見える。しばらく、まぶたをあけたり、とじたりして、どうしたらいいかわからずに困ったが、どうにか寝ることができた。が、寝たと思ったら、虹がたくさんある滝があって、その泉に動物が集まっているシーンにいた。その中央で、仏が話をする。学問とは、ひとの利便性を高めるためにある、とか。心理学のそれを言うなら、外界と自分の作用のなかで、自分のいかし方をしるために自分を知る、だな。)

例えば、側頭葉の右側面は、言葉の理解、にダメージがあるそうで。かえって、側頭葉の左側面は、言葉の産出、にダメージがあるそうで。だが、しかし、言葉の理解、産出には、音韻の身体機能の要素も複合的に作用しているそうで、単一の反応結果だとは言えない。

確かに、側頭葉左側面内側上部、は、先日痛みがあった場所だ。左は自分自身への見方の反省、右はひとへの見方の反省、として、間違いないと私は主張するところだったが、なんと、その痛みの後に反省した内容が

「自分の質問の仕方が悪かった」

だった。つまり、言葉の産出である。この反省には、相手の立場にたって、相手の考え方からこの答えになるかどうか、を踏まえて、他の条件がそろえば、答えが違うかもしれない、ことも含められた。不安定な「誤解」が生じるような発言がなかったか、どうか、を、不満を抑えて点検した後に判明した。

私は、具体化した質問をしたと思われた。が、実際に目の前にある出来事でないために、漏れがあった。汎化したルールを知ろうとして、具体化した質問をしたと思ったのに、提示した条件に漏れがあって、「とりこぼした」のだった。そのために、相手が「間違った答え」を言ったと、私が誤解したのであった。

こうやって、脳の損傷とそれに伴って出やすい「障害」というものは、重篤なものもあれば、日常によくあるシーン、でもある。

「障害」をありのまま受け入れないのか、とかそういう問題じゃないんだ。

人体の理屈、不思議が、宇宙と繋がっているってことなんだぞ。これってすごいことだと思わないか?宇宙を知りたかったら、根本仏の下にある自分を知ればいいんだぞ。こんなすごいことってないでしょ?


何よりも。


反省というものは身体の反応を必ず伴う。これは私自身だけでなく、私の友人だけでなく、あるひとも言っている。で、だからこそ、反省をするときは、かならず、「身体の違和感」をチェックする。風邪をひいたとか、喉が痛いとか、背中が重い、とか、そんなことじゃないんだ。

そんなことは、基礎的なところで、心の課題の中枢を表現していないんだ。

例えば、肩が重いにしても、肉体という心を取り巻く環境要素を加味して考えなければならない。自分の肉体年齢が何歳かを知っておいて、適切なケアをしているか、の点検項目は重要である。もっと言えば、肉体と心は相互作用しているので、心から肉体へ、肉体から心へ、などと可逆性をもったエネルギーの働きをしている。

その上で。例えば、肩の重みがあったとしても、その下位レベルで、頭、耳、胸、臓器、足、といったように、順序を必ず経て、反省をする。クリア課題は「無意識に時間の問題で流れていくこともある」。

でも、霊体はチャクラで肉体とフィッティングしているので、なにかしらいびつな流れがあれば、そこでエネルギーは滞留する。その滞留が、何かしらの「違和感」か「痛み」を創出する。反省して、理解すれば、流れる。

そんな小さな気付きの繰り返しが、大きな気付きを引き起こす。

その気付きが起きると、目の前にあったベールがめくれるようにして、世界の見方が、「もっと鮮明にわかりやすく」なる。


まぁ、そういうことで、Yくんは、霊的に覚醒してしまった。磁石化したのかはわからない。まさかの自分が「霊能者だった」ということがわかってしまった。彼は、ずっと「霊能感覚」が自分には得られることはない、と思っていた。「霊能者」の研ぎ澄まされた感覚に憧れがあったのだろうか。それは、本人にしかわからないので、わからない。

で、読者さんにも言いたいのだが、「無自覚霊能者」はとにかく多い。これらは、霊障者に近い。私やY君が言うような、「まさか、自分が」。霊能者を騙る場合のそれは、かえって、祓うと凡人になる。悪霊がみせているやつだからね。

が、彼には、そういうことでなくて、「神への祈り」「信仰」にまさるものはないのだ、という話を、頭の痛む部分から対応する「答え」として、ちょっと詳しく話をした。

今話したチャクラエネルギーを追って、最後は御本尊への祈り、と続くように話をしたのだった。愛とか信仰を、知識や権威よりも、優位におく、っていう話だった。

(彼のそれを霊視したわけではない。私のそれまでの経験の蓄積であるチャクラ対応比バターンがある。でも、私自身にはそれを使わない。私が反省するときは、私が感じる味わいに集中し、マイナスのエネルギーも拒否しないで受け入れる。マイナスをアウトプットすることもある。大事なことは、すべてを受け入れる、で、その上で心で自然に選ぶ、だ。

例えば、今の私で言うと、「肩」がベース。でも頭頂部、かっぱのサラくらいの範囲に蛇が入り込もうとしていて、心臓周辺に違和感がある、ときに、左側面脇腹、足は指先。巻き付いてるんだろうな、と思う。痛みはない。痛みがあるのは、頭。あとは違和感のみ。かと言って、自己観照するには、それに対応する適切な法、の光を味わう必要があって、それを探すのが大変。ちょっと細かい話を必要とする。

でも、そこに行くまでに、拒否感情を押さえつけていいことを重ねるは一番重要だと思う。やってみて味わう、というやり方。自分には難しいと思うことからダイヴするときは、私はそうする。勇気かな。)

その後、彼には、摩訶不思議、な現実、が与えられた。

携帯の予測変換に、意味不明なことばがでるようになった。

そう、私達の世界にようこそ。

電子機器は、かなり影響する。職場のパソコンの予測変換に顔文字が出るなんて、ありえないだろ。そんなソフト入っていないのに。外人の名前を入れたいわけではないのに、勝手に、外人の長い名前が予測変換され、勝手に決定するのだ。そんなことありえない。

だが、ありえるのだ。

そう、一昨年は、そんな1年を送った。あまりにもひどいので、隣のお姉さんに予測変換に出てくる絵文字たちを見せた。隣のお姉さんはパソコンに詳しくないので仕方がないが、


普通に、私しか使わないパソコンで、そんなことは起きない。
たいした不具合でもないので、問題にならないかと言えば、私の仕事では問題になる。

とんでもない一昨年だった。


とりあえず、覚醒したのなら、1ヶ月は何もするな。普通に生きろ。
話はそれからだw


そんな私は、「そういうこと」に使うと思う。つまり、私の知りたいことを知るための道具として。

でも、有効な武器かと言われれば、そうでもないような気がするんだなぁ。
でも、自分のアイデンティティを立てる、のはだいじだと思うんだなw

こういうスタイルの霊能者さんはそういないんじゃないかな。
なんでも「霊視」で妄想的に根拠をとらないで突進するのは好きじゃない。

なんでそうなっているか、の解明にこそ、いつも「答え」はあるものだから。


あ、それに。悪霊だって、そう。思い込みが激しくってね。悪霊を正しく褒めると、「我にかえる」こともあるんだよ。そういうことも、実は、また、ある。(正しく、がみそだ。)

オタクがもっている情報は、やっぱりオタクなんだぞ。
オタクは、宇宙を解明するために、無謀な試行錯誤を繰り返す、可能性に満ちてるんだ。