らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

おひなさまチャッキー

職場で「おひなさま」を捨てるか、捨てないかの戦いが勃発した。物持ちでもあり、想いを大事にする上司は、大事にしたい。かえって、隣のお姉さんは、「怖ろしくてとにかく捨てたい。」

今の若い子たちは、唯物論の刃にかかり、想いを大事にする、ということがよくわからなかったり、物に想いが宿るもわからなかったり、はては、妖怪や鬼、天使、がよくわからなかったりする。

隣のお姉さんは、どちらかというと「唯物」的であるが、こういうところはそうでもないなと思う。どこからもらってきたのか所在不明の「おひなさま」をとにかく捨てたい。おひなさまが鎮座していて、こちらを見ていた、という話は、すでに、おひなさまは生きているかのよう。

そういう体験をしてきた、わけでもないのに。

想像してみてほしい。

お雛祭りのお雛様がチャッキーばりに、爪楊枝みたいな刀を振りかざして、髪を振り乱して、悩乱して襲いかかるさまを。

隣のお姉さんの「おそろしい」の連呼をよそに、私の脳内では、チャッキーのパロディ、「お雛様祭り」が展開して、あふれかえる脳内ギャグでそれどころではなかった。


そう、私はただのオタク。


やはり、どうしても国家資格というものに惹かれて、ふろんてぃあさんに相談をしていたところ、なんと私は「教える」イメージが強いらしい。確かに、私は、そうしたことを生業としていた。でも、お勉強のために、いろんなところでいろんな仕事をしてきたので、その波動は薄れてきたかな、と思った。

実は、そのひとが経験してきたことは、波動、ででる。

かつての職場で、あなたを見ていると「養護教諭」と「バレー」のかんじがする。と言ったら、あたってしまった。養護教諭の免許を持っていて、部活でバレーをし、今でもママさんバレーをしているらしい。

いや、別に霊視したわけではないのだけど。

でも、雰囲気として「分かる」ことは多い。ある会社の研修で、「銀行マンは銀行マンだと分かる顔つきになる」という話を聞いた。それは、私も思う。顔つき、で分かるものだと思う。笑い方や感性がどこにあるか、は、そのひとが持っている知識や情報の「反応」に近い。

例えば、自分の知らない領域については、知識がないので、反応しづらい。思うことや考えることもないからだ。だけど、自分が知っていたり、体験したことがあれば、共通点や差異点を見出し、それまでの経験量をとって、「反応」する。経験のなかで与えられてきた自身の感情のうねりとともに。

トラウマは、「悲劇的」なことの想起である。でも、それはそのひとの「学習結果」によるものであって、「智慧」まで昇華しきれていない状態をさす。つらいことや悲しいこと、として記憶にとどまれば、その体験の想起を誘発するすべてをトリガーとして、無意識に、過去の自分の「憑依」状態になる。

逆に。嬉しいことや幸福なこともそうだ。夫は、産院がつくってくれた長男の誕生ビデオに、スキマスイッチの「散歩道」が流れていたことをとって、「散歩道」が流れるだけで涙を流すようになり、はては、スキマスイッチの音楽が流れるだけで涙がでるようになったと言う。

これが、かの有名な「パブロフの犬」の条件反射である。

私達はそうして、いつでも、どんなことでも、良いか悪いは別として、反射という行動をとりながら生きている。それは、ある種、とても「もどかしく」とても「束縛」的だ。

寛容で喜びの感慨、が想起されるならば、世界はひろがるに違いない。

傷つきでできた閉塞感、が想起されるならば、世界は矮小化する。

この心の動きをとって、「握一転、開無限」とも言える。

どこでできたかわからないくらいのレベルで、ネガティヴな感情が想起されていると知覚しづらい無意識下にある、トラウマ、を「執着」と言う。

その執着のありさまは指摘しにくく、わかりにくいため、私達は、魂修行のために、この世に生まれる。この世で起きてくる「出来事」をとって、無意識下にある「執着」を、「理解」するようなもの。


でも、四苦八苦に関しては、「あきらめる」必要がある。なぜならば、「この世に起きる誰にでもある通過儀礼」なので、それをとって、潜在意識のトラウマを理解することはできないからだ。できるとしたら、「不幸な通過儀礼」へどんな執着を見せて行動するかのパターンには、トラウマを回避するために、「心がサバイヴする」ように編み出してきた、そのひとなりのサバイバル術、を見ることができる。

物に想いが宿る恐怖への対処法。

隣のお姉さんは、「容赦なく捨てる」ことで、サバイブする。
上司は、「捨てない」ことで、サバイブする。


どちらが正しいでしょうか?

正解は、「容赦なく捨てる」でした。


人形に宿る魂なんかに恨まれたところで、生きている人間には、所詮、勝てない。