らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

神仏と人間と光を下ろす

信仰者向けに話を書くことが多いのは、私が信仰者だからいたしかたないと思っていただければ幸いに思う。

最近、私は支部には行かない。昨日は、友人からSOSの連絡をもらって、気持ちが向かなかったが、支部に行った。最近の私は自分自身のことでやることが多いので、「付き合いきれない」ことが多くなっている。

読誦には心にも身体にもコツがあるのだが、「身体の所作」に意識を向けすぎて「〜しなければならない」の気持ちに心が支配されると、心は「緊張」で支配され仏への扉を閉じる。身体は少なからず、心に影響を受けるので、心が仏の扉を開けるように、身体の所作は大事なこともある。

腹式呼吸でよむ
 (身体の緊張をとく)
○姿勢よくよむ
 (肉体に入っている霊体の中枢にあるチャクラが、頭の先から足の先まで、空にむかって90度直立)
○経文の向こうにご本尊がちらりと見えること
 (仏への心の扉をあけるように刺激する)
○肩はさげる
 (霊的指導が入らないのでリラックスする)
○伸びない深い音でゆっくり、響き渡るように詠む
 (音の波動がとどくところまで光が降りる)
○詠むときは周囲を意識しすぎない
 (周囲の心を意識しない。仏への扉を開ける係ならば、自分の心がまず開くように詠む)


これらは、むかーし、用だてがあって、読誦したがらない私が読誦しなければならない事態に陥って、どうしても「ちゃんとした読誦」を結果として必要としたときに、焦って、天上界にお願いした所、霊的指導を受けてわかったもの、である。霊的指導とは、この世みたいに「こうするんですよ」と教えてもらうことではない。「ごく自然に自分がそうして」しまい、結果、成功してしまう、ことを言う。だから、後から振り返らなければ、「自分がやった」と勘違う人がほとんどだと思う。だから、天上界が苦心して苦心して指導しているのにもかかわらず、現実の自分の努力でしかないと思うひとは「慢心」という状態になり、天狗になり、鬼に近くなり、結果、「ひとをさばく」。

霊的なひとでなければ、「憑依」を自覚しない。が、霊的なひとから見れば、生きている人間で「憑依」しないひとはいない。つまり、四六時中、24時間、なにかの「憑依」を受けている。「憑依」は悪霊や悪魔のときの言い方である。天上界からの憑依は、「霊的指導」と名前を変える。

霊的なことで起こしている現象そのものは同じなのに、言葉が変わる。良いほう、上向きなのは「霊的指導」であるし、悪霊だとかは「憑依」と呼ぶ。英語もそんなに変わらない。この現象自体は「overlapped」おおいかぶさったという表現になる。悪霊憑依は「possesion」で所持するという意味になる。いいことか、悪いことかの質的差異で、言葉が変わる。起きている現象を、外側から事実としてどちらも同じにかからわず。

このあたり、「言葉」や「言語表現」について、仏にお願いしたいと思う。いいこと、悪いことを考えるように仕組むには、その現象を冷静に見ることばと、質的表現を判断することばと種類をわけて流布させる必要があると感じる。そうすれば、人間は、その言葉を適切かつ厳正に使おうとすれば、どうしても質的「善悪」を判断することを「無意識に」覚える。そういう隠された仕組み、があってもいいように思う。

「善・悪・事実」の3つにわければ、その言葉の使い方によって、その人の境涯すら判定できるというに。

目に見えない隠された仕組みを解き明かし、質的「善悪」を教えるのが宗教のそもそものであれば、言葉の概念もそれに一となすと美しいと私は思う。仏はどう考えるだろうか。
(瞑想中、仏と話すこういう対話は、とてもすきなんだ)

で、その霊的指導を受ける自分、になるには、天上界からの光を必要とする。

ご精進なされつつある方や、精進に没頭する方は、こうしたことをあまり「客観的に」気づこうとしない。なぜならば、宗教修行そのものが、内観による自己研鑽なのであって、その過程にある世界的構造を知ろう、とは普通思わないものだ。私はこうしたところを「感知しやすい」ために、皆さんと同じように精進を重ねている最中に、「いやでもきづく」し、「奇想天外すぎてフリーズする」。回を重ねれば慣れてくるのだが、あたりを見渡すと知らない方が多い。ので、こうして発信している。

以下は信者に限らず、人間すべて同じ環境下におかれていることを検証済。 「太陽の法、第二章2」
仏の光を集中、吸収したり、する性質があるということなのです。仏の光を大量に吸収し、それを大量に放出することができる人は、光の量が多い人といわれます。…
仏の光を集中、放射するための巨大な機能をもっていて、ほかのひとに送り込むことができるのです。

(これだけじゃあ、どんなことなんかわからないと思う。あらゆるところで、この光を得ようとして戦いが起きているのだなぁとしか、今の私は思えないのだけれども。)

可視化してみよう。光を水、魂をコップ、風呂、プール、湖という入れ物、として考える。

魂にはいろいろあって、よくひとが感ずるところの「器が大きい、小さい」と似ているものだと考えればよい。

器が小さいものは、仏の光を少量しか貯めれないので、コップに何回も水を注ぐように、一日に、何回も何回も注ぎながら生きていないと、早くに「飢える」。お風呂くらいあれば、自分が幸福感をもつほどには満足する。プールほどの器があれば、ひとを遊ばせることができる。湖にいたっては、ひとの創造性や主体性を信じて委ねることができる。

つまり、仏の光を拡散できるひとというのは、それなりに、魂の器が大きくなければならない。そして、その器が大きければ大きいほど、仏の光を蓄積することができる。しかも、生きているうちは、常にその光を使って、「想いを現実化しようとするエネルギー活動」に使われている。腸内の微生物を気持ちでコントロールできないように、私達の無意識下で常に行われている。失われれば、ひとから奪い始める。それは現実的には「欲に基づいた行動」であり、ひとを傷つけることによって、その魂から光を奪うことができる。

光があることによって私達は「存在できる」ので、悪魔は悪魔たらんとして、悪魔という活動をするために「人から光を奪い続けなければ悪魔を維持できない」。変換すれば、「傷つけることによってその魂にパイプをつなげる。その魂が仏の光に触れようならば、そのパイプから光を吸い上げる活動をする。」

つまり、仏の光を浴びても傷つきが消えないならば、「悪魔が後ろで控えている」。傷つきを与えた人間を責める前に、その傷ついた自分と向き合えば、分かる。その自分の魂の底に、「傷つきをこの世で誘発させる過去の記憶の集大成」があり、その自分という皮をかぶった向こう側には、「悪魔がいる」。そう、己心の魔とは、傷ついた自分の顔をすることも多い。

傷つくということは「信じることができない」だから。人から傷つけられた、は、人を信じられない、のと同じだから。だから、それすらも、自己憐憫だとか自己防衛だとかの偽我なのねぇ。

その自己防衛を重ねていき、雪だるまにしていくことで、悪事を働く、に至る。だから、自己防衛をするための、「世の中の正義」を振りかざすなら、「今しか考えていない」

魂の器は、与えられて固定化しているのか?コップはコップにしかなれないのか?

『大学生の頃、器が小さくて努力してもうまくいかない自分を呪っていた。目標を立てた私は、最後に自分を奮い立たせた。器が小さいなら、その小さな器を何個もつくればいい。おおきな器がなくても、小さい器がたくさんあれば、それとおなじだけの「仕事」はできる。』

我ながらかっこいいと思うが、残念ながら、上記のようにはできていない。上記の状態では、魂がいくつも自分の中に混在している状態になる。つまり、、、悪霊何体つけているのか?という状態とまったく同じことになる。おすすめはしない。

「じゃあ、たったひとつのコップで生きろというのか?神様は太陽という器なのに、俺なんて…」と悲観することはないのだ。実は、そのコップは「変化」する。そして、その「変化」は、太陽への変幻すら、する。

もっと言えば、「太陽ほどの変幻」を仏は私達に願っておられる。つまり、それが輪廻の意味、でもあるし、私達が修行した精進の結果は、その容態で知ることもできる。

魂の器が大きいと、肉体からはみ出して「魂は存在する」。その「肉体とはみ出た魂の光」とは、「菩薩像とその光背」である。まぁ、だから、貴方のご精進はどのあたりですか?を一時的に知るには、生きている人間の「光背」を見ればわかるのだった。いわゆる、「後光」である。

肉体のみぞおちに光の器があって、その大きさで徳の積み上げが分かるよ、となる。ならば、魂の器に入る光の量で、後光が決まるのであった。

じゃあ、らいらさん、あなたの精進はだいたいこのあたりの結果ね、と霊視したら分かるじゃないですか、とお思いになられる読者さん。貴方は鋭いが、甘い!!惜しい!!それに、「徳の積み重ね」」とは、そんな霊的な世界だけにとどまらず、必ず「実績」というものを伴うんですよ。必ず、です。

なので、「徳を積み重ねた方」が話したら、すぐに分からなければ、嘘です。「徳を積み重ねる」ということは「ゆるして指導」できることも意味します。それは、受ける方からすれば、「愛されているな」と感じるものです。母が優しく赤ちゃんに語りかけるようなもので、決して、赤ちゃんと同じようになってしまう実態をさすような「共有」をしません。あかちゃんに語りかけるように、「おなかがすいたね」と赤ちゃんの気持を代弁するかのような「共感」はあります。あかちゃんがあかちゃんの面倒は見れない。つまり、不満や愚痴を肯定するような方は、徳があるとは言えない。お母さんの言葉で赤ちゃんに語りかけるような方も、徳があるとは言えない。

仏教用語がさすところの実態を、こうやって表現することに私が尽力しているのはそのためです。ですが、ある一定の表現を知るひとしかわからないようになっています。つまり、「らいらの部屋」は、ここくらいのことは知っておいてね、という入場制限は出しています。読める方、おめでとう。実は、貴方は、私に選ばれたひとです。…しかしながら、その分野に関心がある一般の方のほうが理解していることのほうが、多いような気はします。)

仏教の話をされても答えられるが、衆生の気持ちを代弁した優しい言葉も話せるよ、は大事なことだと私は思うのです。


そのコップを太陽にするには、どうしたらいいかと聞く人がいたら「信仰を深めること」とお坊さんは言うでしょう。だけど、それってどうやったら深めることができるの?と聞いても、黙ってしまうか、手当り次第精進を重ねなさいと言われたりとか、まぁ具体的に何をしたらいいかは言うのだけれど、本当かよ、と拭いきれないものが在ると思うので・・・・・・・・・・・

霊能が一年以内に必ず通ってきた「ためし」について話をしますね。この「ためし」はとても霊的な感じで現実感が伴わないので、私達は「帰依」を選びがちです。だけど、この世的なひとや、霊能だけど思考停止に陥るくらい生理的嫌悪が強く逃れたい感情が強いひとは、「帰依」には至らないものです。


なので、まぁ、支部での読誦にまつわって…

その「ひかりをあびる」体感について話をしようとしたのに、話したいことがたくさんありすぎて、まじってしまいました。ごめんなさい。

久しぶりに体感をしてみるとですね、まぁ、きもちええなぁと思いました。ご本尊から放射するように、私にむかって、びゃーっと太陽光が流れるんです。でも、太陽のように穏やかではない。消防車の消防ホースで、じゃーーーーーってやられている感じです。読み始めてから読み終わるまで。…なんとありがたい、と思いますわ。本当。

で、経文によって、当てられ方が若干違います。4番めのやつは特に違います。自分にあてられるだけにとどまらず、羽がびよーんとのびて、その羽でひとと繋がってひとに光を与えるイメージさえわきます。

礼拝室の磁場をあげるを目的にするときは、礼拝室の磁場をあげようという気持ちで詠むことはありません。なんと上から目線な心でしょう。そんな心で、天上界の光をおろせるとおおもいか。なんと傲慢な。

現実的にそうしたいときは、こういう思いで光をおろします。


天上界の光を地上界におろして、ひとに光を与える、ひとの幸福を見守る役目をいただいて、自分がなんと幸福でありがたい人生をおくらせいただけるのか、まったくもって、仏のおゆるしや、指導霊団の努力の汗、涙に、頭があがりません。私が恩返ししようにも、私が小さきもののために、主や法が与える幸福、指導霊団のご指導に、どうしたらいいかわかりません。願わくば、私がこうした幸福を得たように、仏と指導霊の皆様の与える幸福を多くのひとが受け取りますように。

皆様方の愛、が、この礼拝室を通して、皆様に伝わり、皆様の幸福を高めていきますように。

私が知れたすべては偶然で、この偶然に、心よりの感謝を申し上げます。私がこの幸福を知るまで、あきらめないで見守ってくださった仏や、縁ある指導霊団に、その愛に、心から反省と感謝を重ねます。


こういう思いで泣いて、磁場をあげます。自分が「泣ける」というのは、あちらがわの返答を受け取ったサインです。信仰は100%を問うと言いますが、指導霊や守護霊への感謝も、100%です。


今日の記事は、いろんな側面がまじったので、読みづらいと思います。休憩。